副キャプテン 辰馬 作:匿名希望のぽっちゃり
ヨーロッパの空は、どこか硬質な青をしていた。
見上げれば雲は薄く、空気は乾いている。
日本Jr.ユースの一行を乗せたバスが、フランクフルト国際空港を出発して間もなく、郊外の練習施設へと向かっていた。
エンジンの低い唸りと、車体のわずかな揺れ。
窓の外に流れるヨーロッパの街並みを見つめながら、友坂辰馬は胸の奥に小さな不安を抱いていた。
車内は明るい。
選手たちは声を弾ませ、冗談を交わし、遠征の高揚感に包まれている。
前列では、反町が沢田と並んでカメラを構えてはしゃいでいる。
「おいタケシ、あれ撮れよ! 看板の字、全然読めねぇな!」
「だからドイツ語だって!」
後方から笑い声が上がる。
その中心で、日向小次郎が肘をつきながら窓の外を眺めていた。
強い光が横顔を照らし、瞳にギラリと闘志が宿っている。
「3年ぶりに若林と戦えるのか……」
低くつぶやいたその声は、周囲のざわめきとは別の緊張を帯びていた。
「今度こそ――ペナルティエリアの外から、アイツのSGGK伝説をぶっ壊してやる。」
日向の唇がわずかに歪む。
その笑みには、闘志と執念が混ざっていた。
「おい日向。」
隣の席で、友坂辰馬が静かに声をかけた。
「お前が燃えるのはいい。けど――お前は今、日本Jr.ユースのキャプテンなんだ。個人の勝負より、チームを第一に考えろ。」
日向は一瞬だけ目を伏せ、すぐに笑顔を見せた。
「分かってるって、辰。心配症だな、お前は。」
そう言って肩を軽く叩く。
「お前がいりゃ大丈夫だよ。な、頼れる副キャプテンさん。」
その無邪気な笑みに、友坂は小さく息を吐いた。
(……分かってるさ。日向の言葉は嘘じゃない。)
(けど――このままじゃダメだ。)
ふと、後ろの席の声が耳に入る。
「俺が若林から点を取る!」
「はっ、俺のシュートでSGGKなんざ終わりだ!」
「今度の遠征で、翼抜きの日本を見せてやるぜ!」
熱気と自信、そして――慢心。
友坂の胸に冷たいものが走る。
(ダメだ……みんな、浮かれてやがる。)
翼がいないチーム。
その不在を埋めるように、選手たちは誰もが「自分こそが主役」だと信じていた。
確かにそれは悪いことではない。
闘志は必要だ。自信も必要だ。
だが――チームの軸を欠いたまま、それぞれが勝手な炎を燃やせば、いずれ崩壊する。
友坂は前方に目をやった。
運転席のすぐ後ろ、スタッフ席にはコーチに就任した三杉淳が座っている。
彼は見上監督と静かに資料を広げ、何やら話し込んでいた。
真剣な表情のまま、戦術ボードを指でなぞっている。
(相談……した方がいいか?)
だが、声をかけるタイミングを計る間に、話が佳境へと入っていく。
三杉の眉間には皺が寄り、監督は頷いている。
「邪魔は、できないな……」
友坂はゆっくりとシートに背を預け、息を吐いた。
ふと、窓の外を見る。
草原の向こうに、風車が回っている。
まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。
(翼がいれば……)
胸の奥に一瞬、そんな思いが浮かぶ。
だが、すぐに頭を振ってかき消した。
(いや、俺たちがやるんだ。翼がいなくても勝てるチームを作る。それが今の俺の役目だ。)
日向が横で大きく伸びをして欠伸をした。
「ふぁ〜。にしても、遠征のバスって長ぇな。辰、寝ていいか?」
「寝ろ。着いたら地獄のように走らされるぞ。」
「だよな〜」
笑いながらシートを倒す日向。
数分後には寝息を立てていた。
その寝顔を見つめながら、友坂は目を閉じた。
(このチームを、どうまとめるか……)
頭の中で、戦術の構成図が浮かぶ。
守備では松山と連携し、全体を締める。
攻撃では日向と立花兄弟を核にする。
だが、翼のような“ゲームメイカー”の存在がいない。
(その役を、俺が担うしかない。)
拳を静かに握った。
バスは緩やかに坂を上り、眼下に緑の芝が広がるグラウンドが見えてきた。
前方で見上監督がマイクを取る。
「お前たち、これからが本番だ。西ドイツは甘くないぞ。」
車内に、わずかな緊張が戻る。
友坂は小さく息を吐き、目を開けた。
(西ドイツーー若林源三が守るゴールが待っている場所。)
日本Jr.ユースの新たな戦いが、いま始まろうとしていた。
西ドイツ・ハンブルグ郊外。
広がるのは、一面に整備された芝の海。
日本Jr.ユースを乗せたバスが、クラブハウスの前に止まると、選手たちは一斉に窓に顔を寄せた。
「すっげぇ……」
誰ともなく漏れた声が、静かな車内に広がる。
視線の先には、見渡す限りの緑のグラウンドが並んでいた。
芝の色は深く、刈り込みのラインが陽光にきらめいている。
その数――なんと十五面。
「これ、全部サッカーコートなのか……?」
「日本の施設とは、まるで違うな……」
タケシが目を丸くし、佐野が呆然と口を開ける。
ドイツのクラブのスケールに、誰もが圧倒されていた。
「……これが、世界の舞台ってやつか」
松山光が腕を組み、目を細めた。
長旅の疲れも忘れ、全員が新しい刺激に胸を高鳴らせていた――その時。
「――元気そうだな、みんな。」
不意に、懐かしい声が背後から響いた。
全員が一斉に振り向く。
そこに立っていたのは、かつての仲間――若林源三だった。
彼はトレードマークのキャップを被り、薄い笑みを浮かべていた。
だが、その姿は3年前の記憶とはまるで違っていた。
肩幅は広く、胸板は厚く、脚はまるで鋼のように逞しい。
ヨーロッパの空気が彼を少年から戦士へと変えていた。
「わ、若林……」
石崎が息を呑む。
「……でけぇ……」
タケシが呟くと、立花兄弟も無言で頷いた。
みんなの目には、尊敬と驚き、そして――誇りが宿っていた。
見上監督が前に出て、静かに口を開いた。
「明日は、その源三のいるハンブルグと練習試合を行う。今日は軽く流して、明日に備えるぞ。」
「はい!」
全員の声が響き渡る。
その瞬間――
日向小次郎が、真っ直ぐに若林の前に歩み出た。
瞳の奥に、燃えるような闘志。
立ち止まると、拳を握りしめて言った。
「若林……俺には、翼を超えるって目標の他に、もう一つあった。」
若林「……?」
「それは――お前から、ペナルティエリアの外からゴールを奪うことだ!」
挑発的な笑みを浮かべながら、日向は言い切った。
その声には、かつての東邦のエースとしての誇りと、少年のままの執念が混ざっていた。
若林はわずかに目を細める。
「……日向。」
二人の視線がぶつかる。
沈黙の中に、互いの成長と宿命を感じ取る。
若林がゆっくりと帽子のつばを指で押さえた。
「日本じゃあ――南葛と東邦の同時優勝だってな。」
「……ああ。」日向が胸を張る。
若林は薄く笑って続けた。
「だがな、俺も3年間、西ドイツで遊んでたわけじゃない。」
その声色が変わった。
冷たく、鋭い空気を纏う。
そして、静かに言い放つ。
「翼のいない日本代表じゃあ――」
キッ、と鋭く睨む。
「――100パーセント、勝ち目はないぜ。」
その一言に、空気が凍った。
仲間たちの表情が一斉に強張る。
「わ、若林……」石崎が戸惑うように呟く。
「お、おい……それ本気で言ってんのかよ……」松山の声も震えていた。
日向の眉がピクリと動いた。
次の瞬間、鋭い声が響く。
「……なんだと?」
立ち上がる闘志。目の奥が炎を宿す。
「ふざけんな! そんなの、試合で証明してやる!」
だが、若林は動じない。
むしろ、穏やかに笑いながら右手を差し出した。
「……まあ、明日はベストを尽くそう。」
日向はその手を睨みつけた。
ピシッ――。
乾いた音を立てて、その手を払いのけた。
そして一言も発せずに背を向け、練習場の方へ歩き出す。
「日向さん!」
タケシが慌てて後を追う。
「日向!」石崎も続く。
仲間たちは心配そうに見つめながら、それぞれの思いを胸に、日向の背中を追っていった。
残された若林は、わずかに目を細めた。
「……予定通り、か。」
その口元には、確かな意図を秘めた笑みが浮かんでいた。
その時、背後から声がした。
「……すまんな、若林。」
振り向くと、そこには友坂辰馬が立っていた。
夕陽に照らされ、穏やかな顔の奥に知性の光が宿っている。
「お互いに挑発し合ったってのにな。」
若林はわずかに片眉を上げた。
「……友坂か。お前もだいぶ雰囲気が変わったな。」
「そうか?」
「お前は日向の後を追いかけなくていいのか?」
友坂は小さく笑った。
「みんながついて行ってる。俺が行かなくても大丈夫だ。」
若林はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「……ふん。お前も、大分成長したみたいだな。」
どこか挑発を含んだ声。
だが友坂は微笑みを崩さない。
「やめとけ。そんな安い挑発に乗らんよ、俺は。」
その静けさに、若林は言葉を失う。
「今日のこと――見上監督の指示なんだろ?」
その一言に、若林の目がわずかに揺れた。
「……!」
友坂は確信したように頷いた。
「やっぱりな。安心しろ、誰にも言わんよ。」
通りすがりに軽く肩を叩き、歩き出す。
「明日は大変な試合になりそうだな。……じゃあ、また明日。」
夕陽の中を歩き去る友坂の背中を、若林は静かに見送った。
「……軍師ぶりは、健在か。」
帽子のつばを軽く押さえ、口の端をわずかに上げる。
「日本は、いい参謀を持ったな。」
雲一つない青空の下、ピッチに差し込む陽光が、再び始まろうとしている戦いの予感を静かに照らしていた。
移動はさほど長くなかったが、窓の外に広がる緑と整然と並ぶピッチの数々を見た瞬間、誰もが息をのんだ。
芝生のコートが十五面。
まるでサッカーの聖地のような光景に、彼らは改めて「ヨーロッパのサッカーの厚み」を実感する。
だが、その感動を打ち消すように――グラウンドの一角から、鋭いボールの音が響いた。
――ドンッ! ドゴォォッ!
日向小次郎が、怒りをぶつけるようにタイガーショットを連発していた。
ゴールネットが悲鳴を上げるたび、空気が重くなる。
誰もがその背中に近づけず、練習準備をしながらも息をひそめていた。
(やれやれ……まるで火山みたいだな)
そう思いながら、友坂辰馬は苦笑を浮かべ、日向のもとへ歩み寄った。
「よう、小次郎。そんなピリピリしてたら、みんなまで緊張するぞ。」
「辰! お前遅いぞ!」
怒鳴る日向に、友坂は柔らかな笑みを崩さない。
「キャプテンなんだからさ、チームの空気も見ないとな。」
日向は一瞬だけ視線をそらし、「……ん」と短く返した。
怒気の中に、わずかな照れの色が混ざる。
空気を変えるため、友坂は声を張った。
「よし、みんな! 移動で身体が硬くなってるし、まずは軽く走るぞ!」
その明るい声が、重かった空気を一瞬で変えた。
「おうっ!」
誰かが応じ、次々に声が広がっていく。
「ほれ、キャプテン。先頭に立って声出してけ。」
「……あ、ああ! よし、走るぞ!」
日向を先頭に、列が動き出す。ワッセワッセと掛け声が響き、緊張がほぐれていく。
その列の中で、友坂は松山光と並走していた。
松山が苦笑混じりに話しかける。
「助かったよ、辰馬。空気が重くて、どうにもならなかった。」
友坂は声を潜めて返す。
「まぁ、久しぶりに若林に会って頭に血が上ってるだけさ。俺、後ろ見てくる。小次郎のフォロー、頼むぞ。」
「おう、任せろ。」
その言葉に反応するように、前を走る日向がぽつりと呟く。
「……頼むぜ、辰。」
友坂と松山は思わず顔を見合わせ、微笑んだ。
少しずつペースを落とし、友坂は後方の列へと下がっていく。
中盤あたりでは、新田、佐野、沢田タケシといった下級生組が笑顔で走っていた。
「よう、西ドイツの芝は日本と感触が違うだろ? 明日は足取られんなよ!」
「はいっ!」と声を揃える3人。
(下級生組は心配なさそうだな)と友坂は安堵する。
さらに後方では、南葛中出身のメンバー――石崎、森崎、井沢、高杉、滝、来生の姿があった。
だが彼らは珍しく無言で走っている。
「どうした、暗い顔して?」
声をかけると、井沢がため息をついた。
「……若林さん、あんな言い方しなくてもいいのに。」
滝が苦笑し、来生がうつむく。
彼らにとって若林は、修哲小時代からの仲間であり、憧れでもあった。
その分、今日の若林の冷たい挑発はこたえたのだろう。
そんな空気に引きずられたのか、石崎まで暗い表情で走っている。
(お前まで沈むなよ、石崎……)
友坂は明るい声で、わざと茶化すように叫んだ。
「どうした石崎! 元気ねぇな! 観光できなくて腐ってんのか!?」
「ち、違ぇよ!」
石崎が顔を上げ、勢いよく叫び返す。
「若林に聞きたかったんだ! 実家の近くで美味いソーセージ屋、どこにあるかってな!」
「お前、もう土産買うのか? 早ぇよ!」
友坂のツッコミに周りのメンバーがどっと笑う。
滝も来生も笑い、空気が一気に和らぐ。
(石崎、ナイスだ…)
「よーし! 明日はやってやるぜ!」
石崎が大声で叫び、みんなも「おうっ!」と応じる。
その声がハンブルグの空に響き、沈んでいた気持ちが一気に晴れ渡った。
少し離れた場所から見上監督がその様子を見ていた。
腕を組み、静かに微笑む。
(……やっぱり友坂だ。あいつがいるだけで、チームがひとつになる。)
だが、監督の瞳に一瞬だけ影が差した。
(だが――明日は、お前たちが“世界”の壁を知る日になる。甘くはないぞ。)
その覚悟を胸に、見上は空を見上げた。
西ドイツの空は高く、穏やかで――それが、嵐の前の静けさのように思えた。