副キャプテン 辰馬 作:匿名希望のぽっちゃり
長旅の疲れを癒すために、日本Jrユースの面々はそれぞれホテルの部屋に散っていた。
パリ郊外の静かな午後。窓の外には古い石畳と街路樹が見え、時折遠くからバスのクラクションが響いてくる。
仲間たちの多くはベッドに倒れ込むように眠りにつき、翌日からの大会に備えて体力を回復していた。
その静けさの中、ただ一人だけ異なる時間を過ごしている者がいた。
友坂辰馬。
部屋の中央に黒光りするボールを置き、ゆっくりと体を揺らしながらバランスを取っていた。
それは、吉良監督から託された黒いサッカーボール──通称「ブラックボール」。
表面には細かな重りが仕込まれており、わずかに軌道を狂わせる。扱いが難しく、体幹と感覚を極限まで研ぎ澄まさねばならないトレーニング器具だ。
「……ふっ、まだだ。もっと、軸を……」
低く息を吐きながら、友坂は静かに両腕を広げ、ボールの上に片足で立った。
汗が額を伝い、頬を滑り落ちる。
その時──コンコン、とドアを叩く音。
「辰、入るぞ」
日向小次郎の声だった。
「ん、どうぞ」と短く答えると、ドアが開き、鋭い眼光をした日向が顔を出した。
部屋に入るなり、腕を組んでにやりと笑う。
「おっ、トレーニング中だったか。今日は体幹トレーニングか、精が出るな」
「おう、小次郎。最近はシュート練習ばっかだったからな。たまには基礎も戻さねぇと。
お前もやっとけよ。身体のバランスを意識してフィジカル作らないと、上の舞台じゃ潰されるぞ」
「俺は俺の身体づくりをしてるさ。シュートで勝負するのがストライカーだ」
その返答に、友坂はバランスを崩すことなく口の端を上げた。
「……世界は甘くないぜ、小次郎」
その言葉には、僅かに寂しさも滲んでいた。
彼の中には“天才ストライカー・日向”への信頼と同時に、“未だ世界の壁を知らない仲間”としての焦りもあった。
日向は小さく「今は色々あるからよ」とだけ呟いたあと、ふと思い出したように言った。
「そういやさっき翼がボール持って出て行ったぞ。どっか行っちまった」
「……まったく。サッカー小僧にとっちゃ、ボールがあれば休養も練習になるってか」
やれやれと肩をすくめながら、友坂は苦笑した。
「じゃ、俺も外でシュート練習してくるわ。何かあったら頼むぜ」
「おい、小次郎──って、行きやがったか。全く困ったストライカーだぜ」
ドアが閉まり、再び静寂が戻る。
友坂はゆっくりと深呼吸し、天井を見上げた。
「……世界一のストライカー、ボランチになるにはまだまだだってのに。
まぁ、本当に求められるのは、もう少し先かもな」
呟いた声が部屋に静かに響き、またボールの転がる音が聞こえ始めた。
⸻
翌朝、練習場に日本Jrユースの面々が集結していた。
雲一つない空。照りつける太陽。
グラウンドの片隅に、見上監督と三杉が並んで立っている。
そして──その中に、見慣れた顔がひとつあった。
「岬太郎です。よろしくお願いします!!」
新たな仲間、いや“旧友”の再登場に、チームは一瞬で沸き立った。
「久しぶりだな、岬!」
「元気だったか!?」
「岬さん!」
石崎、松山、タケシ──あちこちで笑顔が弾ける。
岬は少し照れたように頭をかきながら、「みんな、変わらないな」と笑った。
少し離れた場所で、それを見つめる二人の姿。
友坂と日向だ。
「頼もしい男が帰ってきたな」と日向。
「ああ。……だが、本当に頼もしいかはプレイを見てからだな」と友坂。
「フッ、疑うのか?」
「慎重なだけさ。これから大会だ、戦力把握は軍師の大事な仕事だからな」
ふたりの会話に、どこか張り詰めた空気が漂った。
⸻
「よし、練習を始めるぞ!」
見上監督の声が響き渡る。
「まずは二人一組でパスワークから。最後にシュートだ! GKは前に出ろ!」
最初に呼ばれたのは──翼と岬。
3年ぶりのコンビ再結成。
見上も三杉も、そしてチーム全員がその瞬間を見守っていた。
ボールが翼の足元を離れ、岬のもとへ。
ワンタッチ、ツータッチ、再び翼へ──。
そのパスの流れはまるで音楽のように滑らかで、誰もが息を呑んだ。
「行くよ、岬くん!」
「うん、翼くん!」
翼の強烈なパスを岬が受け、跳ねるように前へ。
そのままダイビングヘッド──ネットが揺れ、歓声が爆発する。
「ゴールデンコンビ復活だ!」
「三年ぶりでもまったく錆びてねぇ!」
日向は腕を組んだまま、小さく笑った。
「要らぬ心配だったな、辰」
「……ああ。だが、嬉しいよ。岬とまたサッカーが出来るかと思うとな」
⸻
その後の練習も順調に進むかと思われたが、グラウンドの端から鋭い声が飛ぶ。
「そこ、遅ぇぞ! そのタイミングじゃ世界には通用しねぇ!」
声の主は若林源三。
試合には出ていないが、練習場ではまるで監督のように味方へ叱咤を飛ばしていた。
「あいつ、何してんだ……?」と日向。
「言い方はともかく、内容は間違っちゃいないさ。嫌なら完璧にやるしかない」
友坂は淡々とそう言い、スパイクの紐を締め直した。
やがて見上監督が名前を呼ぶ。
「次、日向と友坂!」
二人は顔を見合わせ、短く頷いた。
パスが始まる。
リズムは速く、鋭く、正確。
日向がボールを預け、友坂が一瞬で体を回転させて返す。
まるでお互いの動きを知り尽くしているような連携。
「すげぇ! 明和のコンビだ!」
「翼と岬に負けてねぇぞ!」
そしてクライマックス。
友坂が腰の高さに合わせた強烈なボールを送り出す。
日向はノートラップで、全身をしならせてボレー。
空気を裂く音と共に、ボールはGKの頭上を突き抜けた。
若林がわずかに口角を上げ、帽子の鍔を抑える。
「……お見事だ」
⸻
練習後、ロッカールーム。
翼や岬、日向、友坂を除くメンバーたちの間で、若林への不満が囁かれていた。
「あいつ、何様のつもりだよ」
「人が変わったよな」
「イヤミばっかで頭にくる」
その声を黙って聞いていた友坂は、タオルで髪を拭きながら静かに言った。
「……いいじゃねぇか。言われるうちが華だ。若林の言葉に耐えられねぇなら、世界なんてもっとキツいぜ」
誰も言い返せず、静寂が戻る。
その空気の中で、日向だけが笑った。
「ははっ、やっぱお前がいねぇと締まらねぇな、辰」
友坂は苦笑し、ロッカールームの天井を見上げた。
パリの午後の日差しが、窓の隙間から差し込み、彼の横顔を照らしていた。
⸻
次の試合まで、あと数日。
フランスの地で、日本Jrユースの物語が再び動き出そうとしていた。
花の都・パリの街並みを淡い橙色が包んでいた。
古いレンガ造りの建物の間を抜け、石畳の路地を進むと、大きな川がゆっくりと流れている。
夕陽が水面に反射し、黄金色の波紋が揺れていた。
その川沿いに、若林源三はひとり佇んでいた。
手すりにもたれ、沈みゆく太陽を見つめながら、彼の目は遠くを見ていた。
「……憎まれ役、か。」
小さく呟いた声を、風がさらっていく。
その横に立つのは大空翼。
翼は苦笑いを浮かべながら、隣の若林を見た。
「みんな、分かってくれるよ…」
若林は肩をすくめた。
「分かられなくても構わねぇさ。ただ、誰かがやらなきゃいけねぇ役だ。俺が嫌われたって、チームが強くなりゃそれでいい。」
翼は穏やかに笑った。
「……それでも、ありがとう。あの言葉で、みんな変わったよ。」
若林は照れくさそうに目をそらした。
「フン、感謝なんて似合わねぇ言葉を使うな。」
その時だった。
背後から、軽快な足音とともに声が飛んできた。
「よう、憎まれ役の若林と我らがファンタジスタの翼じゃないか。」
二人が振り向くと、夕陽を背にして現れたのは――友坂辰馬。
ホテルの部屋で体幹トレーニングを終え、外の空気を吸いに出たところだった。
肩にジャージを羽織り、手には水の入ったペットボトルをぶら下げている。
頬には薄っすらと汗。だが表情は、いつものように穏やかで、少し皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
「えっ、知ってたの?」と翼が驚く。
若林は苦笑いしながら顎を上げた。
「こいつには最初からバレてたんだよ。見上さんの指示で俺があえて憎まれ役をやってるってな。」
翼「そうなのかい?」
友坂は肩をすくめた。
「まぁな。最初は“本気で嫌な奴”だと思ったけど、あの口の悪さがどっかぎこちなかったからな。バレバレだっての。」
若林がムッと眉をひそめた。
「嘘つけ!再会した初日に察してたくせに、なんでいきなり殴ってきたんだよ!俺は日向かと思ったのに!」
友坂はケロッとした顔で笑う。
「挑発が過ぎたんだよ、お前。言いすぎだったからな。殴るなら見上監督はムリだろ?だから若林を選んだんだよ。」
「お前なぁ〜……」若林が呆れ、翼がつい吹き出す。
次の瞬間、三人の笑い声がドイツの街の空に響いた。
サッカーボールもないただの会話――しかし、これほど“仲間”を感じた時間は久しぶりだった。
⸻
ひとしきり笑ったあと、若林がふと川面を見つめながら言った。
「翼、あのアネゴは元気にしてるのか?」
翼はニコニコしながらうなずいた。
「うん、今はマネージャーをやってくれてるよ。」
「えっ、あのアネゴが!?」若林は目を丸くする。
すかさず友坂が茶化すように肩をすくめた。
「知らなかったのかぁ若林。今じゃ淑女マネージャーとして、甲斐甲斐しく翼のお世話してんだぜ〜?」
「ほぉ〜、あのアネゴがねぇ……変わるもんだなぁ。」
若林は懐かしそうに笑った。
翼は何の照れもなく、ケロッとした顔のまま微笑んでいる。
友坂はそんな翼の肩に腕を回し、いたずらっぽく囁いた。
「で?中沢マネージャーとはどこまでいったんだ?まさか、まだデートで手も繋いでねぇってことはないだろ?」
「えっ?デート?してないけど……」翼が素で答える。
若林と友坂「え?」
翼「え?」
やれやれと首を振る二人。
友坂は大げさに手を広げた。
「お前なぁ〜翼!サッカーボールの扱いは世界一でも、女心は小学三年レベルだな!」
若林も同じく肩をすくめて、
「あんだけ一途に思ってたのによぉ〜」
「えぇー?」と翼が困った顔をすると、三人はつい吹き出した。
川沿いに響く笑い声が、夕陽とともにゆっくりと消えていく。
⸻
少し沈黙が流れたあと、若林が真剣な表情で友坂に向き直った。
「友坂。ヨーロッパに来いよ。」
友坂「……は?」
若林「ハンブルグの仲間たちも、お前を認めていた。お前はもう、日本だけに収まる器じゃねぇ。」
翼も頷いた。
「そうだよ。友坂くんのプレーは、もっと広い舞台で輝けると思う。」
友坂は苦笑いしながら手を頭に当てた。
「行きたい気持ちはあるけどな。俺はお前らみたいにコネがねぇんだよ。」
若林「心配すんな。見上さんや協会の片桐さんが動いてる。全国大会でお前の名前はもう知られてる。」
「そうか……」友坂の声が少しだけ揺れる。
翼が柔らかく続けた。
「友坂くん、プレミアリーグに行きたいって言ってたよね?」
若林「プレミアか……いいじゃねぇか。あそこは下部組織で3年いればホームグロウン枠になる。外国人扱いされねぇ。早く行くに越したことはない。」
友坂は夕陽を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「まぁ、話が来てから考えるさ。」
翼「楽しみだな……友坂くんが世界に行く日。」
⸻
少しためらうように、若林が言葉を選んだ。
「友坂……そろそろ日向から離れたらどうだ?」
友坂が目を細めた。
「……どういう意味だ?」
「お前も、あいつも、互いに支え合いすぎてる。お前はすでに自分で立てる。日向もな。」
川の風が三人の間を抜けていく。
夕陽はすでに沈みかけ、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
友坂は小さく笑った。
「言いたいことは分かる。でもな、俺は特別推薦枠でチームにいる身だ。勝手な真似はできん。……海外に行くくらいじゃないと、な。」
若林「その機会はきっと来る。だから――フランスの大会で、結果を出そうぜ。」
翼も拳を握って頷く。
「うん!」
友坂も拳を合わせ、「ああ」と応えた。
三人は並んで川沿いの道を歩き出す。
沈む太陽の残光が、三人の背中を淡く照らした。
⸻
その少し離れた場所。
影の中で、ひとりその会話を聞いていたのは――日向小次郎だった。
風が前髪を揺らし、彼は誰にも聞こえぬよう呟いた。
「若林の態度には……意味があったってことか。」
拳を握りしめる。
「辰も……世界を目指すのか。だったら俺も……」
視線を遠くに向ける。
「俺はまだ世界になんて行けねぇ。けど――翼も辰もいねぇ日本で、一番を獲ってやる。」
夕陽が完全に沈み、夜の帳が降りる。
川面に映る光が、日向の決意を静かに照らしていた。
薄曇りの空の下、フランス郊外にある練習場には、選手たちの声とスパイクの音が響いていた。
湿った芝生の匂い、笛の音、遠くで鳴るカモメの声。
大会開幕を翌日に控え、日本Jrユースは最後の実戦形式トレーニングに入っていた。
「マイボールになってからの切り替えが遅いぞぉ!」
鋭い声がピッチに響く。声の主は、ボランチの友坂辰馬だった。
彼は中央から全体を見渡しながら、指先で味方の動きを指示していく。
「判断早くって、何度も言ってるだろ!テンポ上げろ!」
翼もすぐに声を重ねる。
「そうだ!早く攻め上がるぞぉ!」
その声に呼応して、日本の若きイレブンたちは一斉に走り出した。
ボールは友坂から新田へ、そして瞬時に翼へ。
翼は軽やかに岬とのワンツーを交えながら突破。
最前線では、すでに日向がゴール前で構えている。
「行くぞ!」
翼の速いパス。日向はわずかに後ろに体を反らせ、タイガーショットに近いドライブの効いたシュートを放つ!
若島津は一瞬反応するも、ボールは弾丸のようにゴール右隅へ突き刺さった。
「くそっ……!」
芝を叩きながら若島津が悔しがる。
サイドから声が飛ぶ。
「その意気だぞ、若島津!」
腕を組んで見守る若林だった。
声は厳しいが、口元にはわずかな笑みがあった。
⸻
ピッチ中央、友坂は次々と指示を出していく。
「新田!翼に言われる前に、自分で判断できるようになれ!視野を広くな!」
「はい、すいません!」新田が息を切らしながら応える。
「翼!岬!コンビプレイが楽しいのは分かるが、もっと周りを使ったパターンを試そうぜ!」
「うん!」と翼。
「ごめんよ!」と岬。
チームの動きは少しずつ噛み合ってきていた。
だが、友坂の目は冷静だった。
(どうも守りが甘いな……個の力はあるが、統率がまだバラバラだ。やっぱりまとめ役が必要だな。俺か……松山か。)
彼の脳裏に、チーム全体のバランス図が描かれていく。
攻撃の中心に翼。守備の核に松山。そして潤滑油として自分――その三角形をどう機能させるか。
⸻
その時、ピッチに緊張が走った。
「ディフェンス!何やってんだ!何度も言われてんだろ!何聞いてたんだ!しっかりしろ!」
若林の怒声が響いた。
最終ラインの動きに苛立ったのだ。
しかし、それに反応したのは早田だった。
「若林!いい加減にしろよ!」
いつもの冷静さを失い、言葉は強くなる。
若林も負けじと睨み返す。
「お前のマークが緩いから崩れてんだろうが!」
一瞬でピッチの空気がピリついた。
誰もが息を飲む中――
その間に、日向が二人の間にすっと入った。
「おい、やめとけ。大会前だぞ。」
短い一言だったが、その声にこもる迫力が二人の言葉を止めた。
若林が少し視線を外し、早田も唇を噛みしめて俯いた。
沈黙が数秒。だがその間に、確かな変化が生まれていた。
遠くからそれを見ていた友坂は、心の中でつぶやいた。
(小次郎が……。若林の立場が分かったのか。)
かつては対立し、火花を散らしていた二人が、今はチームのためにぶつかり合っている。
それが“日本代表”という重さだった。
⸻
「さぁ、練習再開だ!」
翼の声が響く。
その声は明るく、まるで張りつめた空気を一気に切り裂くかのようだった。
選手たちは再び走り出し、ボールが転がり始める。
ピッチには活気が戻り、練習のテンポが一段階上がった。
見上監督とコーチ陣は、その光景をスタンドから静かに見守っていた。
その横には、腕を組んで佇むキャプテン・松山光の姿。
見上監督が呟く。
「いい流れだな。……それにしても、チームがひとつになってきた。」
松山は小さく頷いた。
「やっぱりキャプテンは翼ですよ。あいつが真ん中にいるだけで、全員が自然と前を向ける。」
見上監督は穏やかに笑みを浮かべる。
「そうだな。全日本のキャプテンは、翼しかいない。」
そしてふと視線をピッチ中央へ向けた。
そこでは、友坂が仲間に指示を出し、日向が声を上げ、岬と翼が息を合わせて走っていた。
その姿は、まるで一枚の絵のように美しかった。
日本Jrユース――まだ完成ではない。
だが確かに、彼らの“黄金の歯車”は、ゆっくりと噛み合い始めていた。