副キャプテン 辰馬 作:匿名希望のぽっちゃり
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大会二日目――日本代表の試合はない。
しかし朝から全員がスタジアムへと足を運んでいた。
休みの日こそ“偵察”にあてる。それが見上監督の方針であり、翼たちも強豪の実力を自分の目で確かめたいと心から思っていた。
スタジアムに足を踏み入れた瞬間、凄まじい熱気が日本代表を包んだ。西ドイツ戦が始まるからだ。
ピッチに白いユニフォームの選手達が姿を見せた瞬間、観客席全体が揺れた。
西ドイツ――世界でも屈指の強豪国。その象徴である10番、シュナイダーに対する期待は、とてつもなく大きい。
「相変わらず人気があるな……」と松山が小さく呟く。
そして試合開始。
西ドイツは序盤から圧倒的だった。
中盤ではシェスターとカルツがポルトガルを完封し、ボール保持率は圧倒的。
ポルトガルの選手がボールを何秒持てるか数えられるほどだった。
その中でもひときわ輝いていたのが、やはり10番・シュナイダーだった。
加速と切り返しがあまりにも滑らかで、シュートに移るまでの間に一切の無駄がない。
ゴールネットが揺れるたび、スタジアムは爆発した。
「……化け物だな、あれ」
日向が苦笑しながら言う。
友坂辰馬は、腕を組みながらも視線を一切ブレさせず、まるで獲物を分析する獣のような眼でシュナイダーの一挙手一投足を見ていた。
(王者の風格……ここまで完成している選手は、そうはいねぇよな)
結果は4-1、西ドイツの圧勝。
シュナイダーは二試合連続のハットトリック。
次に行われたウルグアイ戦では、観客がどよめくほどの“黒い影”がピッチを切り裂いた。
ウルグアイのエース、ビクトリーノ。
「なんだあれ……速すぎだろ……」
「一歩目が人間じゃねぇ……」
その疾走は、相手選手どころか観ている側の視界さえ置き去りにするほど鋭かった。
スピードに乗ったシュートは鋭い音を残してゴールに突き刺さる。
(……あいつも、間違いなく世界のトップクラスだ)
辰馬の評価は短く、それでも重かった。
ビクトリーノの一点でウルグアイが勝利し、二戦全勝で決勝トーナメント進出が決まった。
続けてイングランドがマレーシアに2-0と勝利。
昨日イングランドを破っているフランスの決勝トーナメント進出が濃厚となり、日本チームは「どこが日本の相手になるか」をより強く意識し始めた。
そして、日本と同じグループ最大の注目――イタリア対アルゼンチン。
試合前、イタリアベンチを誰かが指差した。
「あ……あれ……」
「ヘルナンデス……?」
日本の誰もが息を呑んだ。
イタリアが誇る“パーフェクトGK”ヘルナンデスが、右腕を固定具で吊って座っていたのだ。
表情は氷のように冷静だが、その奥に滲む深い悔しさが見える。
(……小次郎のシュート。ありゃ完全に決定打だったんだな)
辰馬は小さく思い出す。
だが、その感慨はすぐに吹き飛んだ。
試合が始まると、アルゼンチンはイタリアを相手に“サッカーを教える”側に回ったからだ。
10番――ディアス。
その存在はまるで風景が変わるほど圧倒的だった。
三人を抜いてパスを出し、もう一度受け直して突破し、最後は自らシュートで仕留める。
攻撃の入口にも出口にもなる“完全なる10番”。
「……あれでMFなのか……?」
「翼と同じ……いや、役割が広すぎるぞ……」
ただ一人、翼だけは目を逸らさない。
席を少し前に出し、食い入るようにディアスを見つめていた。
「……翼」
辰馬が声をかける。
「ああ……あれはすごい。でも……彼に勝たなきゃ意味がない。世界一になるんだ。絶対に勝つよ」
翼のその言葉は、魔法のように不安を払いのける。
本気で世界一を目指している者の言葉は、空気を変える力を持っていた。
試合は5-0。
ディアスは驚異の5得点。
スタジアムは完全にアルゼンチンに飲まれていた。
日本代表が席を立とうとしたその時、タケシが不安そうに辰馬に近寄ってきた。
「辰馬さん……ど、どう戦うんですか……あれに……?」
辰馬は迷わず答える。
「攻撃でも守備でも――翼がディアスに勝つ。それがまず第一だ」
翼が強く頷く。
「うん。絶対に勝てるようにする」
その一言で、不安だったメンバー達の表情が一気に引き締まった。
「よし、帰って練習だ」
辰馬は立ち上がる。
「おいおい友坂……見上監督が今日は休めって言ってたぞ……」
石崎が呆れた声を上げる。
「やるぞ。世界は待ってくれねぇからな」
辰馬はそう言い切った。
「……俺も蹴りたくなってきた」
日向が立ち上がり、翼も笑いながら言う。
「希望者だけでいいからね!」
「お前、それ言う必要ある!? 行くよ!!」
石崎が大声でツッコミ、他のメンバーも次々と席を立つ。
夕日が差し込むスタジアムの出口へ向かう日本代表の背中は、戦士のそれだった。
緊張と覚悟、それに強い決意を抱えながら――次の戦いへ向かって歩き始めた。
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練習場には、夜の気配がゆっくりと落ちてきていた。
日本代表のメンバーたちは、誰ひとりとしてホテルに戻ろうとしなかった。
全員がそれぞれの“原点”である学校のユニフォームに着替え、代表としてではなく、一人の選手としてグラウンドに立ちたかったのだ。
南葛の青、明和の黒、花輪の緑、平良戸の赤……。
色とりどりのユニフォームが、端から見れば代表チームの練習とは思えないほど雑多で、それでいてひどく美しかった。
翼はボールを蹴り続けていた。
日向は黙々とシュート練習を行い、若島津は空手で鍛えた独自の体幹メニューを静かにこなす。
辰馬は、ときおり他の選手の動きを見ては短くアドバイスし、自身もひたすら走り込みを続けた。
気づけば夕空は赤から群青へ変わり、グラウンドを照らしていた照明が夜の主役に切り替わっていた。
最後の一球を蹴った翼が、息を整えながら顔を上げる。
「今日は……ここまで、かな」
「そうだな。真っ暗になっちまった」
日向が額の汗をぬぐう。
彼らは弾む息のまま、フィールド脇の芝に集まって腰を下ろした。
土と汗の匂い、遠くから聞こえる街のざわめき。
そのすべてが、これから始まる“語り”の空気をつくっていた。
最初に口を開いたのは、石崎だった。
「……なぁみんな。オレたち、ヨーロッパ遠征じゃボロッボロだったよな」
その言葉に、全員が笑いながらも苦い顔をした。
「ハンブルグにあそこまでやられるとは思わなかったな……」
松山が肩をすくめる。
「ブレーメンにも完敗。まさか何もできずに終わるとは思わなかった」
三杉が静かに続けた。
その記憶は、どのメンバーにも深く刻まれている。
自分たちは世界で通用するつもりでいた。
だが現実は甘くなかった。
「なぁ、思い出すぜ……」
日向が空を見上げながら言う。
「イタリアには“相手にならん”って言って試合を断られたよな」
その事実は、胸に刺さるような悔しさだった。
だが――誰も下を向かなかった。
むしろ、その苦い記憶が彼らを強くした。
「でもさ」
翼がぽつりと口を開いた。
「それでも僕たちは、立ち上がったよね。ハンブルグに負けても、ブレーメンに負けても、イタリアに断られても……みんな練習をやめなかった」
石崎が大きく頷く。
「当たり前だろ! だって――」
「世界が見えたんだ」
松山が続けた。
「負けたからこそ、分かった。日本のままじゃ勝てない。でも……世界に行けるって、どこかで気づいたんだ」
三杉の声は静かだが、自信が宿っていた。
「これからもサッカーを続けていくなら――」
若島津が手を握りしめて言う。
「世界を目指さなあかん。中途半端ではあかん」
「そうさ」
日向が拳を握る。
「目標はただ一つ――世界一だ!」
その言葉を皮切りに、全員の胸に灯っていた火が、大きな炎となって揺れた。
「日本のワールドカップ優勝!」
「世界のてっぺんを獲るんだ!」
「必ずだ!」
大声を上げる者もいれば、静かに頷く者もいた。
だが、どの顔にも同じ光が宿っていた。
――この夜の誓いを。
大空翼は、生涯忘れることはなかった。
盛り上がる輪の中、ただ一人冷静に周囲を見渡していた男――友坂辰馬が、ゆっくりと口を開いた。
「……だがな」
その声だけで、輪が静まり返る。
「世界一を口にするのはいい。夢じゃねぇ。現実にするつもりなら――明日のアルゼンチン戦、“引き分けじゃダメ”ってことを忘れるな」
全員の背筋が伸びた。
辰馬は迷いのない目で翼を見る。
「翼……お前がディアスに勝てなきゃ意味がないぜ」
静かな声だった。
だがその言葉は、雷鳴のように重かった。
続いて若林が、鋭い眼光で翼を見据える。
「友坂の言う通りだぜ、翼」
「明日、中盤を支配するのが翼かディアスか……それで勝敗は決まるだろう」
その言葉は、親友としてではなく、守護神としての真剣な宣告だった。
翼は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと目を開く。
その瞳には決意の火が燃えていた。
「……うん。負けないよ。世界一になるためにも……明日は絶対に勝つ」
翼の声は震えていない。
彼はただ、己に言い聞かせるように静かに言った。
その決意を確認し合うように、全員が頷く。
やがて宿舎へ戻り、食事と簡単なケアを済ませると、ミーティングルームに集まった。
ホワイトボードには、アルゼンチンの布陣とディアスの動きが細かく書かれている。
守備の受け渡し、カウンターの発動点、ディアスを自由にさせないための連携――。
議論は白熱しながらも、誰もが真剣だった。
明日勝てば準決勝、負ければ敗退。
勝負の意味を、全員が理解していた。
ミーティングが終わり、それぞれの部屋に散っていく。
シャワーを浴び終え、熱の残る身体を薄い館内着が包む。
友坂辰馬はホテル一階のフロントで、恋人・宗像尚美へ宛てた手紙を郵便として預けた帰りだった。
(尚美への手紙も、頼んで送ってもらうようにお願いしたし……あとは部屋に戻って寝るだけだな)
廊下には夜の静けさがゆっくりと満ちていた。
試合のない二日目とはいえ、明日はいよいよ強敵アルゼンチン戦。
選手たちは早めに休んでいるはずだ――そう思ったときだった。
客室フロアへ向かう角の陰に、ひとりの影が寄りかかっていた。
寝る前のジャージ姿、そしてどこか決意と迷いの混ざった表情。
「……新田か」
友坂が声をかけると、新田瞬は姿勢を正し、やや緊張が混ざった声で言った。
「辰馬さん、今ちょっと……いいですか?」
壁にもたれていた背中を離し、深く頭を下げた。
その様子に、昨夜のウルグアイ戦の観戦中から垣間見えていた“悩みの影”が確信へと変わる。
「いいぞ。廊下の椅子じゃなんだし……そこの一角に座るか」
二人は人通りのない廊下の椅子に腰を下ろした。
夜のホテル特有の静けさが、二人の会話のために一層濃く漂う。
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「で……なんかあったか?」
友坂の問いに、新田は拳を膝の上で握りしめた。
「……実は昨日のウルグアイ戦を観てるとき……辰馬さんが“ビクトリーノを見て考えろ”って言ってくれましたよね。それからずっと考えてたんですが……」
深く息を吸い、吐き出す。
「……俺、FWとして……物足りないんでしょうか?」
その声は普段の明るさや自信の裏側に隠れている、本音そのものだった。
「どうして、そう思ったんだ?」
「ビクトリーノのスピード……俺とは全然違いました。
単純な100m走でも負けます。彼は10秒台らしいです……俺は11秒台。
世界では……通用しないですよね」
新田の目には不安が滲んでいた。
「それに……俺には、日向さんのタイガーショットや、シュナイダーのファイヤーショットのような……“ひとつで勝負を決める武器”もありません。
辰馬さん……俺……」
「なるほどな。不安は分かるよ」
友坂は腕を組み、少し視線を宙に漂わせる。
新田の気持ちを正確に拾うように、言葉を選ぶ。
「自分の長所ですら、自分以上のやつが世界にいる。
自分の求める“必殺のシュート”を持ってるやつがゴロゴロいる。
……そう思うと、自分の弱さばかりが浮かんでくるんだろ」
「……はい。強くなりたいのに……不安ばかり増えて……」
「それでタケシが“辰馬さんに相談しろ”って言ったのか」
新田はうなずいた。
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「厳しい言い方になるが……構わないか?」
「はい。お願いします!」
新田は深く頭を下げ、目を閉じた。
友坂はわずかに息を吸ってから言う。
「現時点で……お前が物足りないのは事実だ」
「う……やっぱり……」
新田の肩が沈む。
だが友坂は続けた。
「でもな、新田。
“良いもの”は確かに持ってる。
そして――未来の日本代表のツートップを誰が務めるかって言えば……」
友坂ははっきりと言った。
「日向と……新田だろうな。それが見上監督の考えでもある」
「ほ、ほんとですか!?」
新田の顔に驚きと安堵と喜びが一気に押し寄せる。
「もちろん、世界で通用するかは“これから”次第だ。
だから――短期目標、中期目標、長期目標を考えよう」
「短期、中期、長期……ですか」
「ああ。最終的な目標が『世界に通用するFW』なら……」
「短期目標は――
“戦術理解”と“最適なポジショニングの修得”、そして“俊敏性の向上”だ」
「戦術理解……ポジショニング……」
「戦術理解で、味方の動きと攻撃パターンが把握できる。
最適なポジショニングは、スペースの使い方、仲間との連携を一段上げる。
敵の位置も味方の位置も、ボールも常に変化する。
だから――考え続け、動き続け、予測できるようになることが大事だ」
そして友坂は指を二度、トントンと膝に当てた。
「俊敏性は、“動き直し”の質を上げる。
裏へ抜けるとき、軌道を変えるとき、最適ポジションに移るとき。
その機動力がFWの命だ」
「……なるほど。確かに……納得です」
「では、中期目標は?」
「……利き足じゃない“左”で、隼シュートを利き足並みに撃てるようになることだ」
「左で……ですか?」
「ああ。
日本の中なら平均的な体格でも、世界では“やや小柄”に入る。
だからこそ――左右どちらの足でも同じ威力のシュートを撃てなきゃいけない」
「左右……どちらでも……」
「そのためにも、“左隼”の習得は避けて通れない」
「最後に長期目標だが……」
「……はい!」
「フィジカル強化。そして――左右どちらの足でも“どんな体勢からでも”強く撃てるようになることだ」
「ここでフィジカルなんですね……」
「ああ。これは高校を卒業した後、身体が大人に仕上がる頃からだな。
しかも、新田の長所である“スピード”と“バネ”を損なわずに、競り合いに勝てる身体を作る。
中々に難しいぞ」
「……難しそうですが……必要なんですね」
「だから、専門家に見てもらうのがおすすめだ。
俺も“両利き”ゆえに全身のバランスが気になって、調整は常にしてるしな」
「辰馬さんでも……そうなんですか?」
「当たり前だろ。世界はそんなに甘くない。
だから――10年単位で考えろ」
「10年……ですか!?」
「大袈裟じゃない。
世界と戦う身体と技術は……1年や2年じゃ完成しない」
新田はしばらく黙っていた。
拳を見つめ、呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げた。
「……大変参考になりました。
ここからは、自分でもっと考えてみます」
「おう。がんばれよ。俺以外にも話を聞いてみろ」
「はい。
……辰馬さん、遅くにすみませんでした。おやすみなさい」
「おう。おやすみ」
新田は来たときとはまるで別人のように、晴れた表情で歩き去っていった。
(……来年の東邦学園に、ライバル作っちまったかな)
苦笑しながらも、その成長が楽しみでもあった。
(まぁ……来年のことは北詰監督とタケシに任せよう)
遠い未来、日本中を沸かせる激闘――
新田瞬率いる大友中と、北詰監督率いる東邦学園との全国大会での死闘は、まだ先の話である。
「さて――明日はアルゼンチン戦だ」
友坂は大きなあくびをしながら、ゆっくりと自室へ向かう。
「難しい戦いになるし……今は寝て体力回復だな」
その背中には、仲間への気遣い以上に、
明日戦う“世界”への高揚が静かに宿っていた。
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