祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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勇者殺し
1.『勇者』


 降りしきる雨が世界の輪郭を溶かしていた。馬車の轍も、家々の屋根も、村の境界を示す簡素な木の柵さえも、灰色の帳の向こうにぼやけている。ただ、絶え間なく地面を叩く雨音だけが、この世のすべてであるかのように轟いていた。

 

 村の外れにぽつんと建つ宿屋「木漏れ亭」の扉が、嵐とは無関係の暴力によって蹴り開けられたのは、日も暮れて間もない刻限だった。本来であれば、旅人や村の男たちが暖炉の火を囲み、エールを酌み交わしながら穏やかな夜を過ごしているはずの時間。しかし今、その空間を支配しているのは、招かれざる暴力と、息を殺した恐怖だった。

 

「おい亭主!酒がぬるいぞ!もっと冷えたやつを持ってこい!」

 

 轟音のような声で怒鳴ったのは、大柄な男だった。左肩には、叩き割られた盾を模した紋章が不気味に浮かび上がっている。女神の祝福の証にしては、あまりに破壊的な意匠だった。男の名はガイ・ザ・ブルーザー。その名の通り、彼は理屈よりも拳を雄弁に語らせるタイプの勇者だ。彼がテーブルを蹴り飛ばしたせいで、床にはエールと木の破片が哀れに散らばっていた。暴力と罵声に淀んだ空気が、暖炉の暖かささえも打ち消している。

 

「も、申し訳ございません、勇者様。ですが、これがこの宿で一番冷えたものでして……」

 

 宿屋の亭主が、震える声でかろうじて答える。脂汗の浮いた額、小刻みに揺れる膝が、彼の恐怖を隠しきれずにいた。それでも、彼はカウンターの陰、厨房へと続く扉の前に立つ娘の姿から、決して視線を逸らさなかった。その全身が、まるで穢れた空間と獣じみた視線から娘を隠す盾であるかのように、固くこわばっている。父親としてのかすかな矜恃だけが、恐怖に砕けそうな心を支えていた。

 

「言い訳か?ああ?」

 

 ガイが席を立ちかけ、その巨躯が暖炉の光を遮る。亭主が息を呑んだその時だった。

 

「まあ待て、ガイ。こいつをあまりいじめてやるな。備え付けの氷がなけりゃ冷やしようもあるまい」

 

 男たちの中央、最も上等な椅子にふんぞり返って座る男が、なだめるように言った。額には、左右の皿が大きく傾いた歪な天秤の紋章。三人のリーダー格である、アルガス・ザ・バンディット。彼の言葉には、有無を言わせぬ奇妙な圧があった。

 

「だがアルガス、こいつらの態度はなっちゃいねえ。俺たちは女神様に選ばれた勇者だぜ?もっと敬意ってもんがあるだろうが」

 

「敬意は恐怖から生まれる。こいつらはもう十分に俺たちを恐れているさ。そうだろう、亭主?」

 

 アルガスが薄笑いを浮かべて亭主に視線を送る。亭主はただ、小さく頷くことしかできなかった。肯定も否定も、この男たちの前では意味をなさない。彼らが求めるのは服従だけだ。

 

 もう一人、暖炉のそばで壁に寄りかかっていた男が、ねちっこい笑みを浮かべた。

 

「だったらよぉ、アルガス」

 

 男はそう言うと、ねっとりとした視線を亭主の背後、隠れるように立つ娘へと向けた。

 

「酒が駄目なら、別の『酌』を頼むのも一興じゃねえか? なあ、お嬢ちゃん」

 

 男の名はウィル・ザ・ローグ。首筋には、鍵穴の形をした紋章が刻まれている。彼のいやらしい視線は、娘の服の合わせ目や、カウンターの奥に置かれた金庫をいやらしく舐めるように動き、紋章が持つ意味を雄弁に物語っていた。

 

「ひっ…」

 

 娘の肩が小さく跳ねる。亭主は即座に娘の前に立ち、その全身で守るように壁となった。

 

「娘は…!娘だけはご勘弁を!」

 

「いいじゃないか、少し酌をさせるだけだ」

 

 ウィルが一歩、また一歩と距離を詰める。その動きはしなやかで、獲物を嬲る蛇を彷彿とさせた。

 

「やめておけ、ウィル」

 

 再び、アルガスの制止の声が響く。その一言に、亭主と娘に一瞬の安堵が過ぎる。だが、それは次のアルガスの言葉に呆気なく吹き飛ばされた。

 

「獲物を食い荒らすのはいい。だが、遊びすぎて肝心の仕事に差し支えるのはご免だ。俺たちはこの村でしばらく『厄介払い』をして、正当な報酬を頂くんだからな」

 

「ちぇっ。相変わらず固いなぁ、リーダーは」

 

 ウィルは不満げに舌打ちをしたが、素直に引き下がった。彼らは一応、このアルガスという男の指揮下で動いている。たとえその行動が悪党そのものであっても、彼らなりの規律と力関係が存在するらしかった。

 

 アルガスは満足げに頷くと、再び亭主に向き直る。

 

「さて、亭主。部屋は一番いい部屋を用意できているだろうな?食事も村一番のものを。もちろん、代金は我らがこの村の平和を守る『必要経費』から支払われる。つまり、お前たちが供出する金の中から、ということだ。文句はないな?」

 

 それは問いかけの形をした命令だった。亭主は唇を噛み締め、無力感に打ちひしがれながらも、こくりと頷いた。勇者――かつては魔王を打ち払い、人々を救うと信じられていた女神の使徒。だが、その称号が意味を変えて久しかった。女神の祝福はいつしか乱発され、その紋章は、力なき者から搾取するための印へと成り下がってしまったのだ。彼らは「勇者」というだけで何をしても許される特権階級であり、逆らうことはすなわち、女神への反逆と見なされかねないのだ。

 

「はっ!最高だぜ、勇者ってのは!」

 

 ガイが、手近にあった酒瓶をラッパ飲みしながら哄笑した。

 

「俺たちに逆らえる奴なんて、どこにもいやしねえ!」

 

「ほう。威勢がいいな、ガイ」

 

 アルガスが静かに、だが面白がるような声で言う。

 

「では、最近よく聞く『勇者殺し』とやらがお前の前に現れても、同じことが言えるか?」

 

 その言葉に、ウィルが壁から身を起こし、ガイが酒瓶を勢いよく降ろす。宿屋の空気とは異質な、冷たい緊張が走った。

 

「はっ!そいつが俺たちの前に現れたら、返り討ちにしてやるさ!俺のこの紋章は、ただの飾りじゃねえんだからな!!」

 

 ガイが顔を赤くして、自慢げに左肩の紋章を叩く。彼の能力は、単純な肉体強化。その剛腕は、並の騎士など赤子同然に捻り潰せる。

 

「どうだかなぁ」

 

 ウィルが嘲るように鼻を鳴らした。

 

「東の街でやられた『ゴードン・ジ・アイアンスキン』の話は聞いたか? 自慢の紋章ごと心臓を抉り出されたらしいぜ。女神様の祝福なんざ目でもないみたいに、さ」

 

「所詮は尾ひれのついた噂話だ。ゴードンとやらが、お前のように調子に乗って油断しただけだろうよ」

 

 その目には二人への侮蔑と、かすかな警戒の色が浮かんでいた。彼らが振りかざす「勇者」という名の暴力。それが、まったく同じ「力」を持つ何者かによって、自分たちに向けられる可能性を、心のどこかでは恐れているように。

 

 だが、それも一瞬のこと。アルガスは再び尊大な笑みを取り戻し、テーブルに置かれた金貨袋を弄んだ。

 

「勇者殺しだろうが何だろうが、今の俺たちには関係ない。俺たちは祝福され、選ばれた存在だ。そうでない者どもは、ただ俺たちに傅き、富を差し出せばいい。それが、この世界の正しいあり方ってもんさ」

 

 額の天秤の紋章が、まるでその言葉に同意するかのように、鈍い光を放った。

 宿屋の片隅で、他の客たちはただ小さくなって、この嵐が過ぎ去るのを待っていた。いや、彼らが本当に待っているのは、外で荒れ狂う雨風の嵐ではない。この宿屋に居座る、人の心を失った「勇者」という名の災厄が、跡形もなく消え去ってくれることだった。

 亭主は、再び厨房の入口に立つ娘に目をやる。娘は恐怖に顔を青ざめさせながらも、父親を心配そうに見つめ返していた。その瞳の奥に宿る光だけは、決して獣たちに奪われてはならない。しかし、今の自分に何ができるというのか。亭主は、ただ拳を握りしめることしかできなかった。

 外では、雨脚がさらに強まっていた。まるでこの村の絶望を洗い流そうとするかのように。しかし、宿屋の中の淀んだ空気は、より一層重く、深く、そこにいる者たちの心に沈み込んでいく。希望の光など、どこにも見えなかった。

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