祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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11.狂信

 倉庫に満ちていたのは、絶対的な強者が弱者を嬲る、ぬるま湯のような支配の空気だった。だが、ゼノンの登場は、その空気を一瞬にして絶対零度の氷原へと変えた。

 カトリーヌを守るように立ちはだかったヘクターの狂信的な瞳が、侵入者であるゼノンを射抜く。その視線は、主の庭を荒らす害虫を見るそれに等しい。

 

「……何奴だ、貴様。ここは我らがカトリーヌ様の聖域。虫けらが気安く足を踏み入れていい場所ではないぞ」

 

 その声には、自分たちが「勇者」であり、絶対的な強者であるという揺るぎない確信が満ちていた。ゼノンは、そんなヘクターの警告を意にも介さず、ただ静かに一歩、また一歩と距離を詰めていく。その手は、腰に佩いた直剣の柄に、静かに添えられている。

 

「……答える気はない、か。まあよい」

 

 ヘクターが、ねじれた笑みを浮かべた。その目は、ゼノンをただの獲物として捉えている。

 

「カトリーヌ様の御前を汚したその罪、貴様の血で贖わせてやろう」

 

「待ちなさい、ヘクター」

 

 不意に、背後からカトリーヌの制止の声が響いた。彼女は椅子にふんぞり返ったまま、値踏みするようにゼノンを見ている。その目には恐怖など微塵もなく、ただ自分の玩具箱に紛れ込んだ、見たことのない虫を観察するかのような好奇心と侮蔑だけが浮かんでいた。

 

「わたくしに跪きもしないとは、随分と骨のある下郎じゃないの。気に入ったわ。お前、名は? 何の用があって、このわたくしの前に現れたのかしら?」

 

 それは問いかけの形をした命令だった。ひれ伏し、傅き、許しを乞え。彼女の態度が雄弁にそう語っている。だが、ゼノンは彼女の視線を受け止めるでもなく、ただその奥、壁際で震える市民たちへ向けられたのと同じ、無価値なものを見る目を向けただけだった。

 

「黒髪黒目の勇者は何処へ行った」

 

 だがゼノンから帰ってきたのは、先程と寸分違わぬ、温度のない声だった。彼は、目の前の二人を対等な対話相手として認識すらしていない。ただ、情報を引き出すべき道具としてしか見ていない。

 そのあまりにも傲岸不遜な態度に、カトリーヌの眉がぴくりと動いた。余裕に満ちていたその表情から、初めて笑みが消える。

 

「……なんですって?」

 

「二度言わせるな。北門から魔物の群れに突っ込んだという、黒髪黒目の勇者。その男の、正確な行先を答えろ」

 

 それは、交渉でも、取引でもない。一方的な要求。

 その言葉を聞いた瞬間、カトリーヌの顔からすっと血の気が引き、代わりに見るもおぞましい怒りの色が浮かび上がる。自分の存在を無視され、当然の敬意すら払われず、道具のように扱われる。女王を自任する彼女にとって、それは許しがたい最大の侮辱だった。

 

「……へクター」

 

 彼女の声は、先程までの甲高い響きを失い、蛇が地を這うような、低く冷たいものへと変わっていた。

 

「殺しなさい。ただし、すぐには殺すな。手足をもぎ、目玉を抉り、舌を引き抜いてから、この無礼者が自分の立場を理解するまで、ゆっくりと嬲り殺してやるのです」

 

「御意に、我が至高の君」

 

 ヘクターが、恍惚とした表情で応じた。主からの命令。それこそが彼の存在意義であり、至上の喜び。彼は右の掌に浮かぶ茨の冠の紋章を輝かせると、その狂気を剥き出しにして、一直線にゼノンへと襲いかかった。

 隅で見ていた市民が、短い悲鳴を上げた。だが、その悲鳴すら、次の瞬間に訪れるであろう暴力の予兆に過ぎなかった。

 

 床を蹴るヘクターの動きは、痩せたその体躯からは想像もつかないほど鋭い。彼は武器を持たず、ただその掌を、紋章を輝かせながらゼノンの顔面へと突き出した。

 ゼノンは、迫りくる脅威を前にしても、その表情を一切変えない。彼はただ、添えていた柄を握り締め、抜き放った剣閃が銀色の軌跡を描いた。ヘクターの腕を、肩口から断ち切るための、最短にして最速の一撃。

 しかし、剣がヘクターの体に触れる、寸前。

 硬質な音と共に、ゼノンの剣が不可視の壁に阻まれた。

 ヘクターの全身が、淡い光の膜に一瞬だけ包まれる。それは、彼の背後、椅子に座ったままのカトリーヌが胸元で輝かせている、空っぽの鳥かごの紋章から伸びた光の糸によって形成されていた。

 

「無駄よ、下郎」

 

 カトリーヌが、勝ち誇ったように唇の端を吊り上げた。

 

「わたくしの『聖域』に守られし者に、お前のようなナマクラが届くとでも思った? ヘクターは無敵。なぜなら、このわたくしがそう望んだのだから!」

 

 その言葉に呼応するかのように、ヘクターが狂的な笑い声を上げた。ゼノンの剣は、彼の肩口まであと数ミリというところで、確かに停止させられている。だが、完全ではない。研ぎ澄まされた剣先は、光の障壁をわずかに突破し、ヘクターの肩に浅い切り傷を刻みつけていた。

 血が、じわりと滲む。普通ならば、攻撃を防ぎきれなかった失態。だが、ヘクターの反応は真逆だった。

 

「クク……アハハハハハ!素晴らしい!実に、素晴らしいぞ貴様ッ!!」

 

 傷口から血が流れた瞬間、彼の右掌に浮かぶ茨の冠の紋章が、ひときわ強い光を放った。その光は彼の全身を駆け巡り、先程とは比較にならないほどの闘気が、その痩せた体から迸る。筋肉がみるみるうちに膨張し、血管が皮膚の上に醜く浮き上がった。

 ヘクター・ザ・マーター。彼の紋章が持つ能力は、自らが傷を負うことによって、その身を強化するというものだった。そして、カトリーヌの能力は、その傷が致命傷にならないよう調整するための、絶対的な防御壁。二つの紋章は、この歪んだ主従関係を完成させるために、まさしく完璧な形で組み合わさっていたのだ。

 

「カトリーヌ様の完璧な守りと!我が身を捧げる殉教の力!この二つが合わされば!我らは無敵!至高の存在なのだァッ!!」

 

 咆哮と共に、ヘクターがゼノンの剣を力任せに弾き返す。先程とは比べ物にならない膂力。ゼノンは後方へ数歩飛び、体勢を立て直した。

 ヘクターは止まらない。彼は、もはや人間とは思えぬ速度でゼノンに肉薄し、鉄槌と化した拳を叩き込む。ゼノンはそれを剣で受け流すが、一撃一撃が異常に重い。剣を伝って、腕に痺れるような衝撃が走る。

 カトリーヌの聖域は、常にヘクターを守り続けていた。だが、その守りは完璧ではない。ゼノンの繰り出す鋭い斬撃のいくつかは障壁を貫通し、ヘクターの体に新たな傷を刻みつけていく。腕に、足に、胴に、次々と赤い線が走る。だが、その全てが致命傷には程遠い。

 そして、傷が増えるたび、ヘクターの力は増大していく。彼の瞳から理性は失われ、ただ目の前の敵を破壊することだけを目的とした、狂気の獣へと変貌していく。

 

「もっとだ!もっと傷を!もっと痛みを!この身に刻めェッ!!」

 

 傷つき、血を流すことに、彼は純粋な悦びを見出している。その狂気は、見ている市民たちを恐怖のどん底へと叩き落とした。

 カトリーヌは、そんな彼の姿を、恍惚とした表情で見つめている。自分が作り出した最強の番犬が、無礼な侵入者を蹂躙していく。これ以上ない、甘美な光景だった。

 

「いい気味だわ、下郎。どう? 自分の力が一切通用しない気分は。今ならまだ間に合うわ。その剣を捨て、地面に這いつくばってわたくしの靴を舐めれば、命だけは助けてあげなくもないわよ?」

 

 嘲笑が倉庫に響く。

 だが、その狂乱の只中にあって、ゼノンの表情だけは、変わらず氷のように静かだった。

 彼は、猛攻を捌きながら、ただ冷静に相手を分析していた。防御と強化のコンビネーション。厄介ではあるが、穴はある。防御は完璧ではなく、強化にも限界があるはずだ。だが、その限界点を探るまでもない。

 この茶番に、付き合ってやる時間はなかった。

 ヘクターの振り下ろした拳を、ゼノンは今度は剣で受け流さず、体を捻って最小限の動きで回避した。空を切ったヘクターの拳が、すぐそばの石壁を粉砕する。

 

「どうしたァ!剣で受け止めることすらできなくなったかァ!?」

 

 勝ち誇ったヘクターが、勝利を確信したかのように哄笑する。目の前の男は、もはや自分の圧倒的な力の前に、ただ逃げ惑うことしかできない虫けらだ。彼はそう確信していた。

 その、ほんの一瞬生まれた隙。ゼノンは、外套の袖の内側で、両の拳を固く握りしめた。

 その両腕にはいつの間にか、黒鉄色の無骨な籠手が装着されていた。表面には複雑な魔術回路のような紋様が刻まれ、内側から淡い光が明滅している。それはゼノンのために作られた、数多の魔導具の一つだった。

 

「終わりだァッ!!」

 

 追撃の拳を叩き込もうと、ヘクターがさらに踏み込む。

 その足元へ――ゼノンは身を屈め、籠手を装着した片方の拳を強く石畳に叩きつけた。

 轟音が響く。空気が震えるような、低く重い唸り。同じように、もう片方の拳も。

 ゼノンの拳を中心に、石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

 

「ハッ!ついにマトモに攻撃することもできなくなったか!哀れな奴め、地面に八つ当たりとはなァ!!」

 

 ヘクターはその不可解な行動を、ゼノンが恐怖のあまり錯乱したのだと断じた。彼は嘲笑を浮かべながら、その首をねじ切ろうと、さらに一歩、足を踏み出そうとして――。

 

「……ん?」

 

 ――その足が、上がらないことに気づいた。まるで、見えない足枷をはめられたかのように。 

 ヘクターは眉を潜め……直後に、その表情は驚愕へと塗り替えられた。

 

「な……んだ!これはァ!?」

 

 異常は、それだけでは終わらなかった。

 ヘクターの体が、ミシミシと軋む音を立て始める。立っていることすら困難になり、彼の膝ががくりと折れた。

 ゼノンが両の拳を引き戻す。彼の腕に装着された籠手が、先程よりも強く、不気味な唸りを上げている。籠手に刻まれた紋様が、蒼黒い光を放ち始めていた。

 

「ぐ……う、おおおおおおっ!?」

 

 ヘクターが、苦悶の絶叫を上げた。

 何が起きているのか理解できない。だが、彼の体には、まるで天が丸ごと落ちてきたかのような、圧倒的な圧力がかかっていた。傷による強化も、女神の祝福も――カトリーヌの聖域さえも、この理不尽なまでの力の前では何の意味もなさない。

 彼の屈強なはずの体は、ただただ上から押さえつけられ、石畳の床へと無慈悲に押し込まれていく。それは物理的な攻撃ではない。ゼノンを中心に展開された、局所的な重力異常。籠手に秘められたその能力が、ヘクターの存在そのものを、押し潰そうとしていた。

 

「か、カトリーヌ……さま……!」

 

 床に這いつくばりながら、ヘクターは必死に主へと手を伸ばす。だが、その声も、もはや圧潰していく肺から絞り出された、か細い呻きにしか聞こえない。

 骨が砕けるおぞましい音が、静かになった倉庫に響き渡る。

 べちゃり、という水気の多い音を立てて、かつてヘクター・ザ・マーターだったものは、床の染みへと成り果てた。強化された筋肉も、狂信に燃えていた瞳も、輝いていた紋章も。その全てが。

 呆気ない、幕切れだった。

 

「……あ」

 

 その一部始終を、カトリーヌは椅子に座ったまま、呆然と見ていた。

 理解できない。何が起きたのか、まったく理解できなかった。

 自分の無敵の番犬が、最強の騎士が、触れられもせずに、ただの一方的な力によって、虫のように潰された。その信じがたい光景が、彼女の女王然とした仮面を、音を立てて粉々に砕いていく。

 ゼノンが、ゆっくりと彼女の方へと顔を向けた。

 その無感情な瞳が、自分を捉えた瞬間。

 

「ひっ……!」

 

 カトリーヌの喉から、みっともない悲鳴が漏れた。

 恐怖が、ようやく彼女の思考を支配したのだ。彼女は椅子から転げ落ちるように立ち上がると、もつれる足で後ずさる。だが、積み上げられた物資の山に足を取られ、彼女は無様に床へと尻餅をついた。

 豪奢だった服は土と埃にまみれ、手入れの行き届いた髪は乱れ、気高く吊り上がっていたはずの唇は、恐怖に歪んでわなないている。先程までの威厳など、もはやどこにも残ってはいなかった。

 そこにはただ、自分に迫る死を前に、無様に怯えるだけの、哀れな女がいるだけだった。

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