祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
血と肉片が混じり合った床の染みから、ゼノンは無感情に視線を上げた。その矛先が向けられたのは、無様に尻餅をついたまま、恐怖にわななくカトリーヌだった。
先程までの女王然とした威厳は見る影もない。そこにはただ、絶対的な暴力の前に膝を屈した、哀れな敗者がいるだけだった。
「ひぃ……!く、来るな……!来ないで……!」
カトリーヌは後ずさりながら、恐怖に引きつった声で懇願した。だが、ゼノンの足は止まらない。彼は、壊れた玩具へと近づく子供のように、淡々とした足取りで距離を詰めていく。その一歩一歩が、カトリーヌの心臓を鉄槌で打ち付けるかのような恐怖となって響いた。
追い詰められた獣は、最後の牙を剥く。
ゼノンが間合いに入った瞬間、カトリーヌは絶叫した。
「わたくしに触るな、下郎ッ!!」
彼女の胸元で、空っぽの鳥かごの紋章が、これまでにないほどの激しい光を放った。ヘクターを守っていたものとは比較にならない、分厚く、強固な光の壁が彼女の全身を卵のように包み込む。それはもはや聖域などという生易しいものではなく、侵入者を拒絶するためだけに構築された、絶対不可侵の要塞だった。
その光の檻の中から、カトリーヌは狂ったように笑い始めた。
「ハッ……ハハハ!見たかしら、馬鹿め!これがわたくしの『聖域』の真の力!ヘクターにかけていたものとは訳が違うわ!この鳥籠は、わたくし自身を守るためだけの完璧な結界!誰にも!何者にも破れはしない!お前のような虫けらに、指一本触れさせるものですか……!」
安全地帯を確保したことで、彼女の心に、僅かながら余裕が戻ってきたようだった。それはすぐに、歪んだ優越感へと変わり、再び彼女の口を滑らかにさせる。
「そうよ!お前はもう終わり!この結界に手も足も出ず、ただここでわたくしの前にひれ伏すしかないのよ!無様ね、本当に!さっきの威勢はどうしたのかしら!?ああ、そう、わかったわ!どうせあの籠手も、もう使えないのでしょう?大方、一度きりの使い捨てか何か……」
自信を取り戻したカトリーヌの罵倒は、堰を切ったように止まらない。ゼノンは、そんな彼女のヒステリックな叫びを、ただ黙って聞いていた。その手から無骨な籠手が消え、代わりに握られていたのは針のように細く、鋭い刺剣だった。銀色の刀身は、月光を反射する蜘蛛の糸のように、どこか非現実的な美しさを宿している。それもまた、ゼノンのための魔導具の一つ。
「……何よ、その貧相な針は。そんなもので、わたくしの結界を破れるとでも?馬鹿も休み休み言いなさ……」
彼女の言葉が、途中で途切れた。
「――ッ!?」
唐突に、右足に走る、灼けるような激痛。
カトリーヌの美しい顔が、信じられないものを見たかのように驚愕と苦痛に歪んだ。彼女は恐る恐る視線を落とす。そこには、ありえない光景が広がっていた。
彼女の右足の甲。上等な革靴を貫き、そこから、先程ゼノンが手にしていた刺剣の切っ先が、血に濡れて覗いていたのだ。
理解が追いつかない。なぜ?どうして?完璧なはずの結界は、確かにそこに存在している。傷一つついていない。ゼノンは、結界の外、数歩離れた場所に立ったまま動いていない。
それなのに、なぜ彼の持つ剣が、自分の足を貫いているのか。
カトリーヌが混乱の極みで金切り声を上げた瞬間、ゼノンは何でもないことのように手首を返し、刺剣をすっと引き抜いた。剣は何の抵抗もなく、結界を通り抜けて彼の手元へと戻ってくる。足の甲には、生々しい穴が穿たれていた。
「ぎゃあああああっ!!!」
遅れてやってきた激痛に、カトリーヌの絶叫が倉庫に響き渡った。刺剣。その能力は、物理的な法則を無視し、持ち主が「ここを突け」と念じた空間へと、切っ先だけを転移させるというもの。結界だろうが、鎧だろうが、その厚みや硬度は一切関係ない。それは、絶対に防ぐことのできない凶刃だった。
「な……な……なんなのよ、これ……」
カトリーヌは傷口を押さえ、ぜえぜえと荒い息をつきながら、信じられないものを見る目でゼノンを睨んだ。
ゼノンは、そんな彼女の混乱と苦痛には一切の興味を示さなかった。彼は再び、静かに問う。
「黒髪黒目の勇者は何処へ行った」
「い、いや……いやよ!誰がお前なんかに……!」
ゼノンは答えなかった。ただ、無言で刺剣を振るう。
瞬間、カトリーヌの左肩に、再び灼けるような痛みが走った。見れば、そこにも寸分違わぬ血塗れの穴が開いている。
「あぐっ…!があっ……!!」
拷問。ゼノンは、情報を引き出すという目的のためだけに、淡々と彼女の体を傷つけていく。そこに、サディスティックな喜びはない。憎悪の感情すらない。ただ、錠を開けるために鍵を回すような、無機質な作業があるだけだった。その感情の欠如こそが、カトリーヌをより一層深い恐怖の底へと叩き落とした。
「もう一度聞く。勇者はどこへ行った」
「わ、わだじは……しら……知らな……!」
言葉が終わる前に、右の太腿に三つ目の穴が開く。
もはや悲鳴を上げる気力もない。眩く輝き、全てから護られる筈の結界の内側で、彼女は一方的に嬲られているのだ。それは、この上なく残酷で、皮肉な地獄だった。
血と涙と涎にまみれた顔を上げたカトリーヌの視線の先。逆光の中でゼノンの左目だけが鬼火のように揺らめいていた。
息を呑んだ彼女は、ようやく観念したようにか細い声で囁いた。
「き……北よ……!ま、真っ直ぐ……北……!」
「……目的は」
「し、知らない……!本当に……!」
左腕に、四つ目の穴が開く。カトリーヌはひきつった喘ぎを漏らした。
ゼノンの拷問は続く。それは決して、彼女が快楽を覚えるような、甘い痛みなどでは無い。肉を抉られ、骨に届くような、純粋な破壊の痛み。彼は情報を吐かせるために必要な、最低限にして最大限の苦痛を、的確に与え続けているだけなのだ。
「何か言っていたか」
「い、言ってたわ!言ってたから……!もう……やめて……!」
カトリーヌは半狂乱で叫んだ。彼女の脳裏に、あの黒髪黒目の少年が、魔物の大群を前にして浮かべた、穏やかで、それ故にどこまでも不気味な笑みが蘇る。
「あの男は……笑ってたのよ!『足りない』って…!『君たちじゃ僕を満たせない』って…!」
彼女は必死に言葉を絞り出す。目の前の恐怖から逃れる為に。
「『もっと怖がってもらおうかな』って……!そう言って…!あいつは…!」
――もっと怖がってもらおうかな。
その言葉が、ゼノンの耳に届いた瞬間。
彼の内側で、辛うじて理性の鎖で繋ぎ止められていた何かが音を立てて切れた。
故郷を焼き尽くす炎の中で、あの男は言ったのだ。
『綺麗だよね。君たちの絶望と恐怖って』
何も、変わっていない。あの男は、今も同じなのだ。人々の恐怖と悪意を糧に、ただ己が愉悦のためだけに、災厄を振りまき続ける。
「イビル……」
ゼノンの口から、地の底から響くような声が漏れた。
そうだ、奴ならやりかねない。人々の恐怖と悪意。それらを最大限に引き出すためならば、魔王軍をすら利用するだろう。この街が襲われているのも、北門から溢れ出したという魔物の群れも、全てはあの男が仕組んだ、壮大な戯曲の序章に過ぎないのかもしれない。
ゼノンは、刺剣を構え直した。その切っ先は、カトリーヌの心臓へと、真っ直ぐに向けられている。
彼女は、その切っ先に、自らの死をはっきりと予感した。
「ま、待って!知ってることは全部話したわ!だ、だから……助け……」
無言の銀閃が、彼女への最後の宣告だった。
完璧なはずの光の鳥籠は、最後まで破られることなく主を守り続けていたが、その守りは何の意味もなさなかった。カトリーヌの左胸に空いた穴から、命が溢れ出す。
絶対的な聖域に守られていたはずの女王は、安全だったはずの鳥籠の中で無様に息絶えた。
その直後。
北の方角から、これまでとは比較にならない、巨大な金属の破壊音が轟いた。大地が、微かに揺れる。北門が、ついに破られたのだ。
直後、地を揺るがす無数の足音と、おびただしい数の魔物の咆哮が、一気に街の中へと流れ込んできた。
だが、その魔物たちの行動は、どこか奇妙だった。破壊の限りを尽くし、人間を食い荒らすという、彼らの本能的な行動とは全く違う。
倉庫の入り口からなだれ込んできた数体のゴブリンは、隅で震える市民たちには目もくれず、ただ南へ、南へと、必死の形相で駆け抜けていく。その瞳には、戦意や飢えではなく、純粋な恐怖の色だけが浮かんでいた。
まるで、北にいる何か、途轍もなく恐ろしい存在から、逃げるためだけに。
イビルの言葉と、魔物たちの異常な行動。
カトリーヌから得た情報が、ゼノンの頭の中で一つの結論へと繋がった。
奴は、魔王領で何かをした。魔物たちが恐慌をきたし、逃げ惑うほどの、何かを。そして今、奴はこの街そのものを舞台に、自らの糧となる「恐怖」と「悪意」を収穫しようとしているのだ。
「――イビル……!!」
ゼノンの背後で、外套が大きく膨れ上がった。それは布ではない。分厚い革を打ち合わせるような鈍い音と共に、禍々しいコウモリのような一対の翼が、彼の背中から広げられた。生物の筋肉のようでありながら、金属の装甲のような硬質さを併せ持った、異形の翼。
翼が一振りされると、凄まじい風圧が倉庫内を吹き荒れる。
ゼノンの体が砲弾のように撃ち出された。彼は瓦礫と化した倉庫の天井を突き破り、黒煙が立ち上る混沌の空へと舞い上がる。
地上では、突如として空に現れたその異形の姿に、誰もが言葉を失い、天を仰いでいた。
市民たち、戦う騎士たち、そして、魔物たちさえも。
隅の物陰で、かろうじて生き延びた一人の老婆が、震える指で空を指さした。
「……あれは……」
その目に映るのは、勇者でもなければ、女神の使徒でもない。
ただ、復讐の炎をその身に宿し、獲物だけを目指して飛翔する、黒い影。
「……悪魔だ」
その呟きは、誰の耳に届くこともなく、終末を告げるかのような魔物の咆哮に掻き消されていった。