祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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16.切札

 瓦礫の山から、影が揺らめくように立ち上がった。

 右腕は無惨に破壊され、油と機械部品をだらだらと零しながら垂れ下がっている。全身は打撲と裂傷に覆われ、口からこぼれた血が顎を伝い、地面に赤い染みを作っていたが、その瞳に宿る光だけは些かも衰えてはいなかった。

 

 否。その光は、これまで以上に禍々しく、昏く燃え上がっていた。

 左手に握られているのは、刃を持たないガラス細工のような短剣。夕陽を浴びて、その内部に封じられたものが鈍い輝きを放っている。それは、砕け、一部が欠損した雪の結晶。

 

「へぇ……まだ立てるんだ。本当に、君は僕を愉しませてくれるね、ゼノン」

 

 イビルは、その姿に感心したように小さく拍手をした。彼の声には、侮蔑も嘲笑もなかった。ただ純粋な、極上の劇を見せられている観客のような賞賛の色だけが滲んでいる。

 

 ゼノンは答えない。ただ、ゆっくりと左手を持ち上げ、短剣の柄を強く握りしめる。

 これが最後の切り札。

 かつて協力者たちが授けてくれた、対勇者用の最終兵器。紋章の力を無効化し、女神の祝福そのものを殺すための刃。

 

『これは最後の手段だ。覚悟だけじゃ起動すらできねえ。必要なのは何もかも焼き払うぐらいの……怒りと、憎しみだ』

 

 改造手術と兵装の調整の合間に、あの胡散臭い男が言っていた。この刃を起動させるための鍵は、魔法の詠唱でも、物理的な機構でもない。ただ純粋な、燃え盛るほどの憎悪と殺意。それだけが、この刃に本当の意味での力を与えるのだと。

 故郷を焼かれ、家族を殺され、己の全てを奪われた。その憎悪を、この身を灼く激情を、ただの一点に収束させ、この刃に注ぎ込む。

 

 ゼノンは、瞳を閉じた。

 脳裏に、走馬灯のように光景が明滅する。

 故郷の村。雪解け水のせせらぎ。春の訪れを告げる花の香り。笑い合う友人たち。厳しくも優しい父の背中。温かい食事を用意してくれる母の手。

 そして――。

 

『綺麗……。まるで、本物の雪の結晶みたい』

 

 はにかみながら、そう言って微笑んだ少女の顔。

 かつてゼノンが魔法で生み出した、決して融けることのない氷の髪飾り。不器用な手でそれを彼女の髪に留めてやった時の、照れくさそうな、それでいて心からの喜びに満ちた笑顔。ささやかで、かけがえのない、守りたかった日常。

 

 それら全てが、一瞬にして業火に呑まれた夜。

 

 あの夜、全ては灰になった。

 燃え盛る家々。逃げ惑う人々。そして、イビルの手によって、無惨に命を奪われた彼女の姿。

 瓦礫の中から見つけ出したのは、彼女の亡骸のそばに落ちていた、一部が欠けてしまったこの髪飾りだけだった。

 欠けた結晶。血に濡れた、愛しい人の亡骸。

 ゼノンの奥底で煮え滾っていた憎悪が、ついにその臨界点を超えて爆発した。

 

「――――イビルッ!!」

 

 全身全霊の憎悪を込めた絶叫と共に、ゼノンは左手に握った短剣をイビルへと突きつけた。

 体中の血液が沸騰し、骨の髄までが灼けるような激情。この憎しみこそが、この刃を目覚めさせるための鍵。

 

 しかし。

 何も、起こらなかった。

 

 ゼノンが突きつけた短剣は、ただのガラス細工のように、虚しく夕陽を反射しているだけだった。仄かに光を放ってはいるが、それは起動の兆候を示すものではない。内部の雪の結晶が、まるで今の主の心を映すかのように、ただ悲しくきらめいているだけだった。

 

「な――」

 

 ゼノンの思考が、完全に停止した。

 思考が空白になり、目の前の光景が色を失っていく。憎悪と殺意だけで成り立っていた彼の精神が、その土台から崩れ落ちていくような感覚。

 

「あっはははは! なんだい、それ! せっかくのクライマックスで、不発だってさ! 面白い、面白すぎるよ、ゼノン!」

 

 ひとしきり笑い転げた後、イビルは涙の滲んだ目元を指で拭うと、憐れむような、それでいて心の底から愉しんでいる目をゼノンに向け、そうしてゆっくりとゼノンに歩み寄ると、その顔を覗き込むようにして言った。

 

「ああ、そっか。なるほどね」

 

彼は無邪気にそう言うと、ふと思いついたように、ポンと手を打った。

 

「足りないんだってさ、まだ。君の憎しみじゃ、そのおもちゃを動かすには力不足だって」

 

「……足りない……だと……?」

 

 ようやく、ゼノンの口から、か細い声が漏れた。それは問いかけではなく、己の魂の叫びだった。

 これ以上の憎しみが、どこにあるというのか。

 

「うん。足りないよ、全然」

 

 イビルは、あっさりと肯定した。そして、まるで悪戯を思いついた子供のように、その瞳をきらめかせる。

 

「君の中にはね、まだ残ってるんだよ。僕を殺すには、邪魔なものが」

 

「……何が……」

 

「恐怖だよ」

 

 イビルの声は、悪魔の囁きのように甘く、それでいて残酷な響きを持っていた。

 

「僕に対する、恐怖がね」

 

 その言葉がゼノンの全身を貫いた。

 恐怖。そんなもの、とうの昔に憎悪で塗り潰したはずだった。死すら恐れず、ただ復讐のためだけに、人の身さえ捨てたのだ。今更、恐怖など。

 

「嘘だと思う?」

 

 イビルは、ゼノンの内心を正確に読み取り、さらに言葉を続けた。

 

「君は、僕に勝てないと、心のどこかで分かってる。あの夜、君の全てを僕が壊したあの時から、君の魂には、僕への恐怖が深く刻み込まれてるんだ。君がいくら憎しみでそれを覆い隠そうとしても、根っこの部分はなにも変わっちゃいない」

 

 イビルの指が、ゼノンの胸をトン、と軽く突いた。

 

「だから、君の憎しみは“純粋”じゃない。恐怖に汚染された、不純物だらけの憎しみだ。そんな濁った力じゃ、その綺麗な刃は動かせない。違うかい?」

 

 違う、と叫びたかった。だが、声が出ない。

 イビルの言葉は、ゼノン自身も気づいていなかった、心の最も深い場所にある真実を、無慈悲に抉り出していた。

 そうだ。この男を前にした時、体の奥底で微かに疼くものがあった。それは憎悪とは違う、もっと冷たく、粘りつくような感覚。あの夜に植え付けられた、絶対的な敗北の記憶。拭い去ることのできない、根源的な恐怖。

 自分が最も見たくなかった、認めたくなかった感情の正体を突きつけられ、ゼノンの呼吸が乱れる。

 

「ほらね、図星だろう?」

 

 人懐っこい笑みを浮かべたままだったイビルの顔から、拭い去られるように表情が消えていく。

 ゼノンが手に持ったままの『思い出』に視線をやって、イビルはつまらなさそうに肩を竦めた。

 

「綺麗な細工だね、これ。あの日、君の恋人だった子がつけてた髪飾りのかけら、かな? ふふ、ロマンチックだ。こんなものに最後の望みを託すなんて、君もまだまだ人間らしいところが残ってるじゃないか。――そんな綺麗なだけのもので、僕を殺せると思ったの?」

 

「俺、は……!」

 

 ゼノンの声と、イビルの心底がっかりしたようなため息だけが、静寂の中でやけに大きく響いていた。

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