祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

17 / 21
17.敗北

 イビルの言葉は、鋭利な刃となってゼノンの心を抉り続けた。恐怖。不純物。見通しの甘さ。その一つ一つが、彼が積み上げてきた復讐への覚悟を、まるで砂の城のように崩していく。

 だが、その心に開いた傷口から流れ出したのは、絶望の涙ではなかった。

 握りしめた短剣の、内部で煌めく欠けた雪の結晶。彼女の最後の笑顔。業火に焼かれる故郷の風景。その全てが、再びゼノンの魂に火をつけた。

 

 恐怖だと?

 不純物だと?

 違う。断じて違う。

 

 ゼノンの内なる炎が、再び燃え盛る。それは純粋な憎悪ではなかったのかもしれない。恐怖に、後悔に、失われたものへの愛惜に、あらゆる感情が濁流のように渦巻いている。だが、その全ての奔流が向かう先は、ただ一つ。

 眼前の男の、死。

 それが、不純だというのなら――。

 

「――上等だ」

 

 地の底から響くような声が、ゼノンの唇から漏れた。彼は顔を上げる。その瞳に宿っていたのは、もはや狂気とも呼べるほどの、凄絶な光だった。

 

「俺の全てを以て、貴様を殺す!」

 

 絶叫と共に、ゼノンは最後の一歩を踏み出した。起動しないのならば、それでいい。この短剣がただの塊だというのなら、それで殴り殺すまで。

 残された左腕に全霊を込め、握りしめた短剣を棍のように振りかぶる。狙いはイビルの顔面。たとえ相打ちになろうとも、この男の顔に一太刀でも――否、一撃でも叩き込む。その一念だけが、彼の最後の行動原理だった。

 

 その捨て身の一撃を、しかしイビルは避けなかった。

 彼はただ、静かにそこに立っていた。そして、ゼノンの最後の抵抗を、まるで慈しむかのように、穏やかな瞳で見つめている。

 ゼノンの拳が、イビルの顔面に届く、寸前。

 

「やっぱり君は最高だ、ゼノン」

 

 優しい声。

 次の瞬間、視界が反転した。

 凄まじい衝撃が全身を襲い、ゼノンの体は木の葉のように吹き飛ばされる。何が起きたのか理解するよりも早く、背中が瓦礫の山に叩きつけられ、肺から全ての空気が絞り出された。

 ただ、イビルの放った無造作な拳。それだけが、ゼノンの最後の抵抗を、いとも容易く粉砕したのだ。

 

 視界が明滅し、耳鳴りが思考を掻き乱す。もはや指一本動かすこともできず、ただ仰向けに倒れたまま、夕闇に染まっていく空をぼんやりと見上げることしかできない。

 左手から、短剣が滑り落ちる。カラン、と乾いた音を立てて、欠けた雪の結晶は地面に転がった。

 

 ゆっくりとした足音が近づいてくる。

 イビルが、地に伏したゼノンの顔を覗き込んできた。その顔には、満足げな、それでいてどこか名残惜しそうな、複雑な笑みが浮かんでいた。

 

「素晴らしい憎しみだったよ。うん、最高だった。恐怖に負けず、絶望もせず、最後まで僕を殺そうとした。本当に、君は僕が今まで出会った誰よりも、素晴らしい」

 

 その声は、心からの賞賛に聞こえた。だが、それは敗者であるゼノンにとって、最大の屈辱でしかなかった。

 

「だから……殺さないであげる」

 

 耳元で、悪魔が囁いた。

 

「君を生かしておけば、君の憎しみはもっともっと大きくなる。僕への恐怖を乗り越えて、もっと純粋で、もっと強くて、もっと美しい憎しみへと成長するだろう。それはね、きっと僕を今よりもずっと強くしてくれるんだ」

 

 生きろ、とイビルは言った。

 それは、慈悲ではない。再戦の機会を与えるという温情でもない。

 

「だから、もっと強くなって。そして、また僕の前に現れてほしいな。次に会う時まで、もっともっと、僕を憎んでおいてよ」

 

 ただ、自分の糧として、より美味しくなるために熟成を待つという、家畜を見る目だった。

 それは、再会を約束する恋人のような、優しい響きを持っていた。

 

「……き、さま……」

 

 喉から絞り出した声は、血の泡と共に消えた。怒りが、憎しみが、屈辱が、再び彼の内側で荒れ狂う。立ち上がりたい。この男を、今すぐ、この手で八つ裂きにしたい。

 だが、彼の体はもう、その燃え盛る魂の器としての役割を果たせなくなっていた。

 

「待ってるよ、ゼノン」

 

 屈辱以外の何ものでもない。

 ゼノンの喉の奥で、最後の怒りが滾った。だが、その激情が体を動かす前に、彼の意識は途切れ、深い闇の中へと沈んでいく。

 傷ついた雪晶の上で、髑髏が満足げに嗤っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。