祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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19.敗者

 ゼノンの纏う刺々しい空気に、ルインは一瞬怯んだ。だが、彼女は臆することなく、治療者としての務めを果たそうと、言葉を続ける。

 

「無理をしてはいけません。あなたの体は、ひどく消耗しています。お願いですから、ご自身の体を労って……」

 

 その言葉は、純粋な善意と心配から発せられていた。しかし、ゼノンにとっては、己の惨めな敗北を改めて突きつけられているのと同じことだった。彼はルインの言葉を遮るように、低く、押し殺した声で問うた。

 

「……何故、俺はここにいる」

 

 ようやく発せられた声は、長い渇きでひどく掠れていたが、その底にある威圧感は些かも衰えていなかった。それは質問の形をした詰問だった。

 

「……覚えて、いらっしゃらないのですか?」

 

「質問に答えろ」

 

 短く、切り捨てるような言葉。そこに、会話を成立させようという意志は微塵も感じられない。ルインは彼の威圧的な態度に身をすくませたが、それでも、見たままの事実を誠実に伝えようと、必死に言葉を紡ぎ始めた。

 

「……あなたをここに運んでこられた方が、いらっしゃったからです」

 

「誰だ」

 

 即答だった。ゼノンの問いに一切の無駄はない。ルインはわずかに躊躇うように視線を伏せたが、やがて事実をありのままに告げた。

 

「黒い髪の……旅の、方でした。右目に眼帯をされた、あなたと同じくらいの年頃の……」

 

 彼女の脳裏に、あの日の光景が蘇る。

 北門が破られ、街が魔物の大群に飲み込まれようとしていた、あの時。誰もが死を覚悟したその時、突如として魔物たちの動きが変わったのだ。

 彼らは街を破壊することも、人々を襲うこともやめ、まるで何か途轍もなく恐ろしいものから逃れるかのように、我先にと街の外へと駆け出していった。その恐慌状態の波が過ぎ去った後、バルドに残されたのは、破壊された街並みと、おびただしい数の負傷者、そして、訳の分からないまま呆然と立ち尽くす人々だけだった。

 

「私たちが負傷者の救護にあたっていると……その方が、あなたを背負って、ここに。その方はとても落ち着いた様子で、『この人を頼む』とだけ……」

 

 その旅の男の姿を、ルインは今も鮮明に思い出すことができた。

 自分とそう変わらない年頃に見える、黒い髪と黒い瞳の少年。その右目には、何かを隠すように痛々しい眼帯が巻かれていた。物腰はどこまでも穏やかで、言葉遣いも丁寧。だが、その佇まいのどこかに、ルインは得体の知れない何かを感じ取っていた。まるで、底の知れない深淵を覗き込んでいるかのような、漠然とした不安。

 彼は、ルインたちにゼノンを預けると、一つだけ言い残して去っていったという。

 

「その方は、おっしゃっていました。『彼が、たった一人で魔物の大群を食い止め、その元凶を討ち果たした』と。そして、『その代償として、これほどの深手を負ったのだ』と……」

 

 当時、その場にいた衛兵たちや、他の教団員たちは、その言葉を疑わなかった。

 街の危機に颯爽と現れ、その身を犠牲にして人々を救った、名も知れぬ勇者。その男の語る英雄譚は、混乱の極みにあった人々の心に、希望の光を灯すには十分すぎるほど魅力的だったのだ。

 バルドに集っていた他の傭兵勇者たちは、戦況の悪化をみるや、蜘蛛の子を散らすように南門から逃げ出していた。その一方でただ一人、街を見捨てず、名も告げずに魔物と戦った者がいた。それはまさしく、人々が思い描く「英雄」の姿そのもの。

 

 だからこそ、ルインは信じていた。

 広場で会った時の、あの冷たく突き放すような態度は、彼の本心ではなかったのだと。彼は、彼なりのやり方で、この街を、人々を守ろうとしてくれていたのだと。

 彼女は、僅かな希望と、そして淡い尊敬の念を込めて、目の前の男を見つめた。

 

「あなたのおかげで、この街は救われました。誰もが、あなたに感謝していま……」

 

 その言葉が、終わる前に。

 

「違う」

 

 地を這うような、低い声が、彼女の言葉を否定した。

 ゼノンは、ゆっくりと顔を上げていた。その瞳に宿っていたのは、英雄としての誇りでも、人々を救った安堵でもない。

 そこにあったのは、ただ、どこまでも昏く、燃え盛る屈辱の色だけだった。

 

「俺は――俺は、負けた」

 

 その声は、事実をただ淡々と述べているだけだった。だが、その奥には、腸が煮え繰り返るような怒りと、己の無力さへの苛立ちが、マグマのように渦巻いている。

 

「俺は負けた。奴は立ち去った。それだけだ」

 

 英雄などではない。救世主など、断じて違う。街を救ったのが誰かと言うなら、それは地獄を喚んだあの男。

 自分はあの男の掌の上で無様に踊らされ、弄ばれ、そして最後には、飼い殺しにされるという最大の屈辱を与えられた――ただの敗北者だ。

 人々が感謝している? 街が救われた?

 だからどうした。

 全ては、奴の遊戯の結果に過ぎない。自分は、そのための道化を演じさせられただけだ。

 その事実が、ゼノンの心を再び灼く。

 

「イビル……ッ!!」

 

 歯軋りと共に、憎い敵の名を吐き出す。

 その凄まじいまでの憎悪と怒りの奔流を目の当たりにして、ルインは息を呑んだ。

 何かがおかしい。彼女が聞かされていた話と、目の前の男の言葉は、あまりにもかけ離れている。

 困惑するルインの様子を、ゼノンは意にも介さない。彼の心は、再び猛り狂う炎だけで満たされていた。

 

「……その、イビル、という方が……」

 

 ルインが、おそるおそる口を開いた。

 

「あなたを運んできた、あの方のこと、でしょうか……?」

 

 黒髪、穏やかな物腰。――そして、自分をあの廃城からバルドまで連れてこられる者。

 間違いない。自分をここに運んできたのはイビルだ。

 それを理解したゼノンの全身から放たれる圧が、さらに数段増した。ルインは思わず息を呑む。目の前の男の瞳の奥で、制御不能の嵐が荒れ狂い始めるのを、肌で感じ取ったからだ。

 

「そ、その方が、あなたにこれを、と……。あなたが目を覚ましたら、必ず渡すように言付かって……きゃっ!?」

 

 ルインが取り出した丁寧に畳まれた手紙を、ゼノンは飢えた獣のように奪い取る。

 怯える彼女に目もくれず、ゼノンは破り捨てるほどの勢いで手紙を開いた。

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