祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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2.殺意

 宿屋の淀んだ空気は、もはや雨音に紛れることもなく、息詰まるほどに濃密だった。あれほど世界を叩きつけていた雨が、いつの間にか囁くような小雨へと変わっていたからだ。だが、その静けさが、かえって亭内に満ちる恐怖を際立たせる。アルガスたちの下品な笑い声と、客たちの押し殺した息遣い、そして亭主が娘を庇うように立つ背中の、絶望的な硬直。そのすべてが、煮詰まった闇の中でより一層明確になっていく。

 希望の光など、どこにも見えなかった。そのはずだった。

 油の切れた蝶番が、悲鳴に似た音を立てた。宿屋の扉が、外からゆっくりと、静かに開かれたのだ。暴力的な蹴りでも、慌ただしい駆け込みでもない。ただ、そこにあるべき扉が、あるべきように開かれた。それだけのことに、宿屋にいた全員の視線が吸い寄せられる。

 入ってきたのは、一人の男だった。旅人なのだろう、使い古された革の外套をまとい、フードを目深にかぶっているせいで顔は窺えない。降り続く雨に濡れた外套の裾から、ぽた、ぽたと冷たい滴が床に落ちて染みを作っていく。その音だけが、やけに大きく響いた。まるで冬の墓場から歩いてきたかのような凍てつく死の気配が、ただでさえ冷え込んでいた宿屋にさらなる冷たさを齎す。それまで支配的だった勇者たちの騒ぎ声がぴたりと止み、静寂が空間を支配した。

 

「おい、なんだてめえは」

 

 最初に沈黙を破ったのは、やはりガイだった。不機嫌さを隠そうともせず、椅子から腰を浮かす。新参者に対する威嚇。この宿屋が今、自分たちの支配下にあることを示すための、獣じみた縄張り意識の現れだった。

 

 男は答えない。フードの下の闇が、ただ黙って勇者たちを見つめているようだった。男はゆっくりと扉を閉めると、宿屋の中を見渡し、その視線が一瞬だけ、カウンターの陰で震える亭主と娘の上を滑った。それは誰にも気取られぬほど些細な動きだったが、その視線が、再び中央のテーブルに座る三人に戻った時、宿屋の空気は張り詰めた弓弦のように緊張した。

 

「無視してんじゃねえぞ、コラ!」

 

 ガイが完全に立ち上がる。彼の肩にある砕けた盾の紋章が、暖炉の火を反射して鈍く光った。だが、その威圧にも男は動じない。ただ、ゆっくりと腰に佩いた直剣に手を伸ばした。その拍子に、男の左手が露わになる。

 その手の甲に刻まれていたものを、アルガスは見逃さなかった。

 それは、紛れもない勇者の紋章。冷たく、研ぎ澄まされた美しさを持つ、雪の結晶。だが、その神聖であるはずの紋章の上には、まるで冒涜するかのように、深く、禍々しい三本の爪痕が刻みつけられていた。

 

「……お前、勇者か?」

 

 アルガスの声には、戸惑いと警戒が滲んでいた。勇者は、互いの紋章が放つ特有の気配でその存在を感知できるものだ。しかし、目の前の男が放つのは、紋章の気配とは似ても似つかぬ、底知れない冷気と死を思わせる静寂だけだった。

 

「面白ぇ!」

 

 アルガスの困惑をよそに、ガイが獣のように嗤った。単純な彼にとって、相手が何かは些細な問題だった。自分たち以外の勇者は、すべて叩き潰すべき障害か、利用すべき駒でしかない。

 

「どこの馬の骨か知らねえが、いい度胸だ!この俺に!ガイ・ザ・ブルーザー様に!喧嘩を売りに来たってことだよなあ!?」

 

 左肩の紋章が、ひときわ強い光を放つ。女神の祝福が、ガイの筋肉を岩のように膨張させた。床板が彼の体重に軋む。それは、ただの威嚇ではない。純粋な破壊の衝動。彼は哄笑を上げながら、一直線に男へと突進した。常人ならばその突風だけで吹き飛ばされ、屈強な騎士でさえ、直撃すれば骨も残らないであろう必殺の突撃。

 しかし男は動かなかった。死を覚悟したかのように。あるいは、向かってくる脅威など存在しないかのように。ただ静かにそこに佇んでいる。ガイの拳がその顔面を捉える、寸前。

 男の身体が、陽炎のように揺れた。

 最小限の動き。まるで予め攻撃が来ることが、その軌道さえもが分かっていたかのような神がかり的な回避。轟音を立てて壁にめり込むガイの拳を尻目に、二つの影が交差する。

 雨音に混じって、澄んだ音が響く。

 岩のような頭部が一拍遅れて胴体から離れ、ごとりと鈍い音を立てて床を転がっていく。

 

「……あ?」

 

 ガイの口から漏れたのは、そんな間の抜けた声とも空気ともいえないものだった。

 おびただしい量の血が、砕けた床板にじわじわと染み込んでいく。

 見開かれた目は、ただ虚空を見つめていた。

 

「ブルーザー、か……その二つ名は、お前で七人目だ」

 

 男は、いつの間にか鞘から抜いていた剣を、軽く振って血糊を払う。

 ぽつりと転がった冷たい言葉の意味も、自分が死ぬことさえも理解できぬまま、彼の巨体は二度と動くことはなかった。

 静寂。先程までのものとは質の違う、死に彩られた沈黙が宿屋を支配した。血の鉄臭い匂いが、暖炉の煙と混じり合って鼻をつく。

 

「ガ、ガイ…?」

 

 ウィルが呆然と呟く。アルガスもまた、言葉を失っていた。女神の祝福で強化されたガイが。射掛けられた矢を跳ね返したことすらあるガイが、たったの一太刀で? ――ありえない。

 

「てめえええええええッ!!」

 

 恐怖は人間を狂乱させる。ウィルは裏返った叫び声を上げ、歪んだ顔で首筋の鍵穴の紋章を輝かせる。

 男の持つ剣が掻き消え、ウィルの手の中に現れた。

 

「ガイを……よくも!!」

 

 彼の能力は、錠前だけでなく「所有」という概念にも干渉する。他人の得物を『解錠』し、自らの手元へ転移させるのだ。

 あとは武器を失い、無力になった相手を甚振るだけ。

 そのはず、だった。

 

「……なんだよ、これ?」

 

 手にした剣の感触に、ウィルは眉をひそめた。ずしりとした重みはある。だが、これは――ただの、鉄の棒切れ。鍛冶屋の店先で二束三文で売られているような、粗末な数打ちの剣。こんななまくらで、ガイをあっさりと?

 

 その、ほんの僅かな混乱が命取りだった。

 

 ウィルが手にした剣に気を取られた瞬間、武器を失ったはずの男――ゼノンは、既に眼前に迫っていた。何の感慨も、怒りも浮かんでいない、氷のように冷たい瞳。

 鈍い衝撃音と共に、ウィルの視界が激しく揺れた。鼻の骨が砕ける感触と激痛。靴底が容赦なく顔面に叩き込まれ、彼はみっともない悲鳴を上げて床に倒れ込んだ。

 

「ぎゃああああああッ!!」

 

 ゼノンは倒れたウィルを見下ろし、その手を、指を、無慈悲に踏みつけた。メキメキと骨が砕けるおぞましい音が、ウィルの絶叫にかき消される。

 

「や、やめ……あああっ!!」

 

 苦痛に耐えかねたウィルが手放した剣を、ゼノンは何でもないことのように拾い上げる。その切っ先が、命乞いをするウィルに向けられた。

 

「や、やめっ!ごめんなさい!もうしません!許し――!」

 

 ゼノンは、彼の命乞いを最後まで聞く気はなかった。まるで邪魔な虫を潰すかのように何の躊躇もなく、剣をその心臓へと突き立てる。他人の所有物を『解錠』し、奪い続けた男の命の錠が、粗末な鉄の鍵によってこじ開けられ、壊されていく。さらに抉るように捻り、完全にその命が尽きたことを確認してから、無造作に引き抜く。びくん、とウィルの身体が一度だけ大きく痙攣し、二度と動かなくなった。

 カウンターの奥で、亭主は声にならない悲鳴を飲み込み、娘の目を固く覆っていた。目の前で繰り広げられるのは、悪党がさらに凶悪な獣に喰われる地獄。それは、この宿屋に満ちていた恐怖を別の恐怖で塗り替えるだけであり、救いではなかった。

 この惨状を、アルガスは全身を硬直させながら見つめていた。ガイの首が落とされ、ウィルが嬲り殺される。その間、わずか数十秒。もはや恐怖を通り越して、現実感がなかった。目の前の男は狂っている。自分たちがこれまで恃みにしてきた「勇者」という肩書も、紋章の力も、この男の前では何の意味もなさない。

 アルガスの脳裏に、先程自分が否定した言葉が過ぎる。『勇者殺し』。

 その単語が浮かび、ゼノンと目が合った瞬間、彼の全身を支配したのは純粋な生存本能だった。

 殺される、という確信だけが彼を突き動かす。

 考えるよりも先に身体が動いていた。アルガスは椅子を蹴倒すと、一直線に窓へと走り、なりふり構わずその身を躍らせる。けたたましい音を立てて窓ガラスが砕け散り、彼は濡れた地面に転がるように着地した。いつの間にか雨は完全に止み、雲の切れ間から青白い月光が差し込んでいる。

 

 ゼノンはべっとりと付着した血を無造作に一振りして払いながらも、もつれる足で逃げていく、三人目の勇者の背中から目を離すことはなかった。

 彼の瞳に焦りの色はない。ただ、逃げる獲物を捉えた狩人の、どこまでも冷徹な光だけが宿っている。窓の外を見据えたまま、ゼノンは左目を閉じる。その瞼の奥で、蒼黒い光が湧き上がった。

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