祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
22.荒野
乾いた風が、荒野を渡っていく。
城塞都市バルドを出て、南へ向かい始めてから、すでに幾日が過ぎていた。見渡す限り続くのは、赤茶けた大地と、風化して奇妙な形になった岩々ばかり。空はどこまでも高く、青く澄み渡っているが、その下に広がる光景は生命の息吹に乏しく、ひどく殺風景だった。
そんな荒野を、二つの影が歩いていた。
先を行くのは、黒い外套をまとった男、ゼノン。破壊された右腕を力無く垂らし、左手は常に腰のあたり、そこにないはずの剣の柄を探るかのように置かれている。その歩みは機械のように正確で、一切の感情も、疲労の色も見せなかった。
そして、その後ろを、少しだけ距離を置いてついてくる影が一つ。白い僧衣をまとった少女、ルイン。彼女の足取りは、ゼノンのそれとは対照的に、ひどく頼りなかった。時折、石くれに足を取られてはよろめき、そのたびに息を整える。その顔には、隠しようのない疲労の色が濃く浮かんでいた。
旅が始まって最初の数日間、ルインは何度か、ゼノンに話しかけようと試みていた。
最初に声をかけたのは、バルドを出て半日ほどが過ぎた頃だった。沈黙に耐えかねたように、彼女はおずおずと、先を歩く背中に問いかけた。
「あの……差し支えなければ、お名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか……?」
返事は、なかった。ゼノンは振り返りもせず、ただ前だけを見て歩き続ける。彼女の声など、まるで風の音にでもかき消されたかのように。
それでも、ルインは諦めなかった。
さらに数時間後。乾ききった喉を潤すために、水筒の水を一口飲んだ彼女は、再び声をかけた。
「南へ、向かわれているのですよね……? 何か、目的が、おありなのですか……?」
やはり、返事はない。
夜になり、岩陰で仮眠をとる時もそうだった。ルインが持ってきたなけなしの食料を分け与えようとしても、ゼノンは干し肉を無言でかじるだけで、彼女の差し出すパンには一瞥もくれなかった。
何度、拒絶されても。何度、無視されても。
彼女は、まるでそれが自分に課せられた試練であるかのように、健気に話しかけ続けた。体調を気遣う言葉。旅の経験の浅さを詫びる言葉。他愛のない、天気の話。
その全てが、ゼノンという名の沈黙の壁に吸い込まれて消えていった。
やがて、ルインも悟ったのだろう。
この男は、他者との関わりを、一切拒絶している。言葉は、届かない。
彼女が話しかけるのをやめてから、二人の間には、本当の意味での完全な沈黙が訪れた。
それは、旅の四日目のことだった。
聞こえるのは、互いの足音が乾いた土を踏む音と、荒野を吹き抜ける風の音だけ。まるで、世界に二人だけが取り残されてしまったかのような、静寂に満ちた旅路だった。
ゼノンは時折、空を仰いだ。
この空を、魔導の翼で翔けることができたなら。この延々と続く荒野など、わずか数時間で越えられるだろう。一刻も早く、あの忌々しい外道共の元へ辿り着き、この腕を、失った全ての武装を再生させなければならない。イビルを殺すための準備を、整えなければ。焦燥感が、彼の心を内側から灼く。
だというのに、なぜ、自分はこうして地に足をつけ、歩いているのか。
――片腕では、バランスが取れないからだ。
彼は心中で、そう結論付けた。破壊された右腕。傷ついた肉体。そんな状態で無理に飛べば、墜落するのが関の山だ。それは、論理的で、正しい自己分析のはずだった。
あの青い空を、憎しみだけを羅針盤にして飛んでいた時、彼の心に迷いはなかった。だが、今は違う。地に足をつけ、一歩一歩進むこの旅路は、思考に無駄な余地を与えすぎた。
ふと、彼の視線が、遥か後方を喘ぎながらついてくる白い影を捉えた。
必死に、ただひたすらに、彼の背中を追いかけてくる少女。
その姿が、ゼノンの記憶の底に眠る、最も柔らかな部分を、無遠慮に掻き乱した。
『待って!……また、無茶ばかりして……!』
古い記憶。
まだ彼が故郷の村で、英雄として笑っていた頃。魔物との戦いで深手を負いながらも、平然と振る舞う彼に向かって、息を切らしながら駆け寄ってくる少女がいた。その手にはいつも、手製の薬と、綺麗な水。彼女は、彼の無謀をいつも心配し、少しだけ怒ったように眉を寄せながらも、その傷を甲斐甲斐しく手当てしてくれた。
『あなたが強いのは、知っています。でも、だからといって、ご自分を大切にしなくていい理由にはなりません……!』
その声は、真っ直ぐで、どこまでも優しかった。
石につまずいて膝をつくルインの姿が、ゼノンの記憶の底に眠る、最も柔らかな部分を無遠慮に掻き乱す。
胸の奥が僅かに痛んだ。
凍てついたはずの何かが、融け出すかのような錯覚。
ゼノンは、その感傷を、憎悪で無理やり握り潰した。
奥歯を強く噛みしめる。顎の筋肉が、怒りにこわばった。
弱さだ。
その甘さが、その温もりが、今の自分を蝕む毒となる。イビルが指摘した、『恐怖』という不純物。その根源は、失われたものへの執着、人間としての情。それらを断ち切らなければ、奴には届かない。あの刃は、決して目覚めることはない。
イビルを殺す。
感傷に浸っている暇など、ありはしない。
思考を呪文のように心の中で繰り返す。冷たい憎悪の氷で、心の揺らぎを再び固めていく。
そうだ、この女が勝手についてきているだけだ。自分がペースを合わせる義理などない。足手まといだと言ったはずだ。ここで脱落しようが、獣に喰われようが――知ったことではない。
彼は、自らの心を非情に塗り固めると、意図的に歩く速度を上げた。
後方から聞こえてくる、ルインのか細い呼吸が、さらに苦しげなものになった気がしたが、彼はそれを無視した。
それからの旅は、ゼノンにとってはただの移動であり、ルインにとっては過酷な苦行だった。
ゼノンのペースは、一切落ちることがない。夜明けと共に歩き始め、陽が真西に傾き、闇が全てを覆い尽くす寸前まで歩き続ける。休息は、必要最低限。食事も、歩きながら干し肉を口に放り込むだけ。それは、人間の営みというよりも、目的のためだけにプログラムされた機械の行軍に近かった。
孤児院と教団の施設でしか暮らしたことのないルインにとって、それは想像を絶する過酷さだった。
僧衣の下の足は、とうの昔に豆が潰れ、血が滲んでいる。喉は常に渇き、肺は悲鳴を上げていた。空腹よりも、睡眠不足よりも、ただひたすらに歩き続けるという単調な苦痛が、彼女の精神を少しずつ削り取っていく。
何度も、もう無理だと思った。
何度も、その場に崩れ落ちてしまいたいという衝動に駆られた。
だが、そのたびに、彼女は先を行く男の背中を見た。
破壊された右腕。時折、苦痛に歪む横顔。彼もまた、満身創痍のはずなのだ。それでも、彼は一言も弱音を吐かず、足を止めない。その姿が、ルインの折れそうな心を、かろうじて支えていた。
(私が……決めたこと……)
わがままなのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
この旅についていくと決めたのは、自分自身だ。ここで脱落するのは、自分の覚悟がその程度だったということに過ぎない。
彼女は、ふらつく足に力を込め、必死に前へ進んだ。
だが、肉体の限界は、精神力だけではどうにもならない。
徐々に、ゼノンとの距離が開き始めた。
最初は数歩だったその差は、やがて十数歩になり、いつしか彼の背中が、米粒のように小さく見えるほどになっていた。
「はぁ……っ、ぁ……」
荒い息は、荒野の風にかき消され、誰の耳にも届かない。
ゼノンは、一度も振り返らなかった。
彼が気付いていないはずはなかった。背後から聞こえてくる足音が、徐々に遠ざかっていくのを。彼女の息遣いが、どんどん苦しげになっていくのを。
だが、彼は意に介さない。あるいは、意に介さないように、自分に強く命じている。
非情であれ。冷酷であれ。情けは、弱さだ。
やがて背後の気配が、息遣いが、足音が完全に消え去った。彼は、また一人になった。
ゼノンは、それでも足を止めなかった。
ただ、彼の歩く速度が、ほんのわずかだけ、無意識に落ちていたことに、彼自身はまだ、気づいていなかった。