祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
太陽が西の稜線にその身を沈め始めると、どこまでも続いていた青空は、燃えるような橙色と、深く冷たい藍色のグラデーションに染め上げられていった。昼間の灼けるような日差しは急速にその勢いを失い、代わって肌寒い風が荒野を吹き抜ける。夜の帳が、ゆっくりと大地を覆い尽くそうとしていた。
のろのろと歩き続けていたルインは、ついにその場に膝をついた。
もはや一歩も動けない。鉛のように重い両足は感覚を失い、喉はひび割れた大地のように乾ききっている。遠くに見えていたはずのゼノンの背中は、とうの昔に地平線の彼方へと消えてしまっていた。
完全に、取り残された。
その事実が、ずしりと彼女の心にのしかかる。わがままだと覚悟はしていた。足手まといになるとも分かっていた。それでも、いざこうして一人きりになると、心細さと己の不甲斐なさが、涙となって溢れそうになる。
「……ううん」
ルインは、汚れた袖で目元を乱暴に拭った。泣いている暇はない。
彼もきっとどこかで野営しているはずだ。今は追いつけなくても、夜が明けたら彼の残した足跡を辿って追いかければいい。そのためには、まず今夜を生き延びなければ。夜になれば飢えた獣や魔物が活動を始める。
彼女は、最後の力を振り絞って立ち上がった。
ここで夜を明かさなければならない。魔物や、あるいは、もっと悪質な何かに襲われる前に。
教団で習った、最低限の野営の知識。それを頼りに、彼女は近くに落ちていた枯れ木や小枝を集め始めた。傷だらけの指先で、火打ち石を打ち鳴らす。
「お願い……ついて……」
祈るような気持ちで、何度も石を打ち合わせるルインの祈りに応えたかのように、小さな音と共に、か細い火種が生まれた。
ルインは安堵のため息をつくと、その小さな希望の光を絶やさぬよう、慎重に、細い小枝をくべていく。やがて火はぱちぱちと音を立てて燃え上がり、彼女の周囲にかすかな暖かさと、心強い光の輪を作った。ルインはその光をじっと見つめながら、布の包みから硬くなったパンを取り出した。
ゼノンが一度も口をつけることのなかった、二人分の食料。
それを一人でかじり、水筒に残っていた僅かな水を一口だけ飲みながら、彼女は自問する。
彼は、今頃どうしているのだろう。
何も知らない。名前さえも。
あの人が、何かに苦しんでいることだけは分かる。何が彼をあそこまで駆り立てているのか、自分には分からない。
自分が無力であることは分かっている。足手まといだという自覚もある。
それでも。
それでも、放っておけない。ただ彼に生きていて欲しかった。その願いが、彼女をここまで歩かせてきた原動力だった。
(……追いつかないと)
パンを飲み込み、彼女が改めて決意を固めた時。
すぐ近くで、誰かが小枝を踏みしめる音がした。
ルインの体が、弾かれたように硬直する。心臓が、大きく跳ねた。
まさか。
期待と、不安。二つの相反する感情が、彼女の胸の中で渦巻く。
戻ってきてくれたのだろうか。
ルインは、弾かれるように音のした方へと振り返った。
「あの……!」
だが、闇の中から姿を現したのは、彼女が待ち望んでいた黒い外套の男ではなかった。
そこに立っていたのは、見知らぬ大柄な男だった。
山賊と見紛うばかりの、屈強な体躯。着ている革鎧はあちこちが擦り切れ、使い込まれている。無精髭に覆われた顔には、不遜で、粘つくような笑みが浮かんでいた。闇の中で、そのぎらついた目が、獲物を見つけた肉食獣のように光っている。
ルインの血の気が、さっと引いていく。
ただの旅人ではない。この男の全身から放たれる、荒々しく、暴力的な雰囲気。それが、彼女の本能に警鐘を鳴らしていた。
男は、ルインの恐怖など意にも介さず、ゆっくりと光の輪の中へと足を踏み入れてくる。
そして、その胸元が焚き火の明かりに照らし出された時、ルインは息を呑んだ。
そこには、紛れもなく『勇者』の証である紋章が刻まれていた。
猪の牙を模した、禍々しい意匠が。
「よぉ、嬢ちゃん。こんなとこで一人とは、物騒じゃねえか」
男の声は、その風貌に似合わず、妙に馴れ馴れしかった。その瞳は、ルインを頭のてっぺんから足の先まで、品定めするようにいやらしく舐めまわしている。
「ま、俺様みたいな『勇者』がいりゃあ、安心ってもんだがな」
男は、自らの胸の紋章をこれ見よがしに親指で示すと、下卑た笑みを浮かべた。
ルインは後ずさろうとして、背後の岩にぶつかった。逃げ場は――ない。
「ひひ……そんなに怯えなさんな。なあに、取って食おうってわけじゃねえ。大丈夫だ、俺様が優しく慰めてやるよ。もちろん、アンタの持ってるモン、全部いただいた後でな」
ルインは、恐怖に足がすくみ、動くことができない。逃げなければ、と頭では分かっているのに、体は鉛のように重く、言うことを聞かなかった。
助けを呼びたくても、ここは荒野の真ん中。誰も、来ない。
絶望が、ルインの心にゆっくりと染み渡って行った、その刹那。
「――そこを、退け」
闇の中から、第三者の声が響いた。それは、男に対する警告だった。
声は、低く、温度のない、地を這うような響きを持っていた。
振り返った勇者の男と、恐怖に震えるルインの目に、同じ光景が映る。
焚き火の光が届かない、夜の闇。
その闇よりもなお暗い、黒い外套をまとった人影が、音もなく立っていた。ルインが待ち望んでいたはずの、しかし最も現れるはずのない影が。
「あぁ?」
勇者の男が、不快げに眉をひそめる。
暗がりから姿を現したゼノンは、一切の感情も見せず、立ちはだかる男と、その向こうの怯える影を見ていた。
「なんだテメェは……あぁ、こいつの連れか? なら、ちょうどいい。テメェを殺して、その女は俺様がいただく。異論はねぇよなぁ?」
勇者の男は、ゼノンの破壊された右腕を一瞥すると、侮蔑的に鼻を鳴らす。片腕の、ひょろりとした男。楽勝だ。彼はそう確信していた。
ゼノンは何も言わず、その瞳の奥で昏い光を揺らめかせていた。男の胸元の紋章を見据えたまま。