祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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23.夜帷

 太陽が西の稜線にその身を沈め始めると、どこまでも続いていた青空は、燃えるような橙色と、深く冷たい藍色のグラデーションに染め上げられていった。昼間の灼けるような日差しは急速にその勢いを失い、代わって肌寒い風が荒野を吹き抜ける。夜の帳が、ゆっくりと大地を覆い尽くそうとしていた。

 のろのろと歩き続けていたルインは、ついにその場に膝をついた。

 もはや一歩も動けない。鉛のように重い両足は感覚を失い、喉はひび割れた大地のように乾ききっている。遠くに見えていたはずのゼノンの背中は、とうの昔に地平線の彼方へと消えてしまっていた。

 完全に、取り残された。

 その事実が、ずしりと彼女の心にのしかかる。わがままだと覚悟はしていた。足手まといになるとも分かっていた。それでも、いざこうして一人きりになると、心細さと己の不甲斐なさが、涙となって溢れそうになる。

 

「……ううん」

 

 ルインは、汚れた袖で目元を乱暴に拭った。泣いている暇はない。

 彼もきっとどこかで野営しているはずだ。今は追いつけなくても、夜が明けたら彼の残した足跡を辿って追いかければいい。そのためには、まず今夜を生き延びなければ。夜になれば飢えた獣や魔物が活動を始める。

 彼女は、最後の力を振り絞って立ち上がった。

 ここで夜を明かさなければならない。魔物や、あるいは、もっと悪質な何かに襲われる前に。

 教団で習った、最低限の野営の知識。それを頼りに、彼女は近くに落ちていた枯れ木や小枝を集め始めた。傷だらけの指先で、火打ち石を打ち鳴らす。

 

「お願い……ついて……」

 

 祈るような気持ちで、何度も石を打ち合わせるルインの祈りに応えたかのように、小さな音と共に、か細い火種が生まれた。

 ルインは安堵のため息をつくと、その小さな希望の光を絶やさぬよう、慎重に、細い小枝をくべていく。やがて火はぱちぱちと音を立てて燃え上がり、彼女の周囲にかすかな暖かさと、心強い光の輪を作った。ルインはその光をじっと見つめながら、布の包みから硬くなったパンを取り出した。

 ゼノンが一度も口をつけることのなかった、二人分の食料。

 それを一人でかじり、水筒に残っていた僅かな水を一口だけ飲みながら、彼女は自問する。

 

 彼は、今頃どうしているのだろう。

 何も知らない。名前さえも。

 あの人が、何かに苦しんでいることだけは分かる。何が彼をあそこまで駆り立てているのか、自分には分からない。

 自分が無力であることは分かっている。足手まといだという自覚もある。

 それでも。

 それでも、放っておけない。ただ彼に生きていて欲しかった。その願いが、彼女をここまで歩かせてきた原動力だった。

 

(……追いつかないと)

 

 パンを飲み込み、彼女が改めて決意を固めた時。

 

 すぐ近くで、誰かが小枝を踏みしめる音がした。

 ルインの体が、弾かれたように硬直する。心臓が、大きく跳ねた。

 まさか。

 期待と、不安。二つの相反する感情が、彼女の胸の中で渦巻く。

 戻ってきてくれたのだろうか。

 ルインは、弾かれるように音のした方へと振り返った。

 

「あの……!」

 

 だが、闇の中から姿を現したのは、彼女が待ち望んでいた黒い外套の男ではなかった。

 そこに立っていたのは、見知らぬ大柄な男だった。

 山賊と見紛うばかりの、屈強な体躯。着ている革鎧はあちこちが擦り切れ、使い込まれている。無精髭に覆われた顔には、不遜で、粘つくような笑みが浮かんでいた。闇の中で、そのぎらついた目が、獲物を見つけた肉食獣のように光っている。

 ルインの血の気が、さっと引いていく。

 ただの旅人ではない。この男の全身から放たれる、荒々しく、暴力的な雰囲気。それが、彼女の本能に警鐘を鳴らしていた。

 男は、ルインの恐怖など意にも介さず、ゆっくりと光の輪の中へと足を踏み入れてくる。

 そして、その胸元が焚き火の明かりに照らし出された時、ルインは息を呑んだ。

 

 そこには、紛れもなく『勇者』の証である紋章が刻まれていた。

 猪の牙を模した、禍々しい意匠が。

 

「よぉ、嬢ちゃん。こんなとこで一人とは、物騒じゃねえか」

 

 男の声は、その風貌に似合わず、妙に馴れ馴れしかった。その瞳は、ルインを頭のてっぺんから足の先まで、品定めするようにいやらしく舐めまわしている。

 

「ま、俺様みたいな『勇者』がいりゃあ、安心ってもんだがな」

 

 男は、自らの胸の紋章をこれ見よがしに親指で示すと、下卑た笑みを浮かべた。

 ルインは後ずさろうとして、背後の岩にぶつかった。逃げ場は――ない。

 

「ひひ……そんなに怯えなさんな。なあに、取って食おうってわけじゃねえ。大丈夫だ、俺様が優しく慰めてやるよ。もちろん、アンタの持ってるモン、全部いただいた後でな」

 

 ルインは、恐怖に足がすくみ、動くことができない。逃げなければ、と頭では分かっているのに、体は鉛のように重く、言うことを聞かなかった。

 助けを呼びたくても、ここは荒野の真ん中。誰も、来ない。

 絶望が、ルインの心にゆっくりと染み渡って行った、その刹那。

 

「――そこを、退け」

 

 闇の中から、第三者の声が響いた。それは、男に対する警告だった。

 声は、低く、温度のない、地を這うような響きを持っていた。

 振り返った勇者の男と、恐怖に震えるルインの目に、同じ光景が映る。

 焚き火の光が届かない、夜の闇。

 その闇よりもなお暗い、黒い外套をまとった人影が、音もなく立っていた。ルインが待ち望んでいたはずの、しかし最も現れるはずのない影が。

 

「あぁ?」

 

 勇者の男が、不快げに眉をひそめる。

 暗がりから姿を現したゼノンは、一切の感情も見せず、立ちはだかる男と、その向こうの怯える影を見ていた。

 

「なんだテメェは……あぁ、こいつの連れか? なら、ちょうどいい。テメェを殺して、その女は俺様がいただく。異論はねぇよなぁ?」

 

 勇者の男は、ゼノンの破壊された右腕を一瞥すると、侮蔑的に鼻を鳴らす。片腕の、ひょろりとした男。楽勝だ。彼はそう確信していた。

 ゼノンは何も言わず、その瞳の奥で昏い光を揺らめかせていた。男の胸元の紋章を見据えたまま。

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