祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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24.牙閃

 焚き火の炎が揺らめき、二つの影を地面に長く伸ばしていた。一つは、目の前の獲物を前にして傲岸不遜に佇む、牙の紋章を持つ勇者の影。そしてもう一つは、闇の中から現れ、その全てを無に帰すかのように静かに立つ、ゼノンの影。

 張り詰めた空気を破ったのは、ゼノンの呟きだった。それは問いかけのようでもあり、単なる事実の確認のようでもあった。

 

「……勇者か」

 

 その言葉を聞いた男は、待ってましたとばかりに胸を張り、猪の牙の紋章をこれ見よがしに見せつけた。

 

「そうよ! 俺様こそが女神様の祝福を受けし勇者、ギデオン・ザ・ファング様さ! ひれ伏しな、片腕野郎! そうしたら、苦しまずに殺してやってもいいぜ?」

 

 彼はゼノンの破壊された右腕を顎でしゃくり、心底愉快そうに下卑た笑い声を上げた。勇者。その称号が、絶対的な強さと特権の証であると、彼は微塵も疑っていない。

 

「なら――」

 

 言葉を受けたゼノンの顔に、表情の変化はない。だが、その瞳の奥に宿る昏い光が、さらにその深度を増した。

 

「死ね」

 

 宣告は声というよりも、風の音に近かった。ギデオンがその言葉の意味を理解するよりも早く、ゼノンの体が動く。

 音もなく踏み込み、地面を滑るように距離を詰め、ギデオンの腹部へと容赦のない蹴りを叩き込んだ。

 鈍い衝撃音。男の巨体が潰れた蛙のような悲鳴と共にくの字に折れ曲がり、後方へと吹き飛ばされる。地面を数度バウンドし、土埃を上げながら無様に転がった。

 

「が……はっ……て、め……」

 

 男は腹を押さえ、激しく咳き込みながらも、信じられないものを見る目でゼノンを睨みつけた。まさか、一撃で。この自分が、こんなひょろりとした男に。その事実は、ギデオンの肥大化したプライドを酷く傷つけた。

 怒りと屈辱に顔を歪ませた男が、咆哮する。

 

「よくもやったな、クソがァッ!!」

 

 ギデオンは咳き込みながらも右手を前に突き出した。その胸元で、猪の牙の紋章が禍々しい光を放つ。

 

 光の中から、彼の身長ほどもある長大な槍が姿を現した。穂先は猪の牙のように鋭く湾曲し、石突の部分にはおぞましい装飾が施されている。女神の祝福によって生み出されたとは思えない、ただ殺戮のためだけに存在する凶器。

 

「死ねやぁ!!」

 

 槍を握りしめ、ギデオンは雄叫びを上げてゼノンへと突進した。大地を揺るがすような突進は、さながら暴走する猪のよう。繰り出された槍の突きは、風を切り裂き、唸りを上げてゼノンの心臓へと迫った。

 対するゼノンは、回避も防御もせず、ただ静かに外套の内側へと左手を差し入れた。

 迫る死の一撃。それを見守るルインが、息を呑む。

 槍がゼノンの体を貫く、その寸前。

 ゼノンの左手が、閃光のように振るわれた。甲高い金属音が辺りに響き渡る。

 ギデオンの渾身の突きは、ゼノンが握る奇怪な形状の武器によって弾かれていた。

 それは、武器と呼ぶにはあまりにも異形だった。黒曜石を削り出したかのような、三本の禍々しい鉤爪。持ち手の部分は歪にねじれ、まるで悪魔の腕そのものをもぎ取ってきたかのようだ。

 体勢を崩したギデオンの胴体に、ゼノンの鉤爪が浅く、しかし鋭く食い込んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 革鎧が引き裂かれ、肉が抉れる感触。ギデオンは呻き声を上げながら後方へ飛び退き、傷口を押さえた。じわりと血が滲んでいるが、傷自体は深いものではない。

 

「この野郎……!」

 

 ギデオンは傷口を睨みつけると、再び槍を構え直した。今度は、突きではなく、薙ぎ払い。荒野の風を唸らせ、横一文字に振るわれた槍が、ゼノンの胴体を両断せんと迫る。

 ゼノンは身をかがめてそれをやり過ごすと、返す刃ならぬ鉤爪で、ギデオンの太腿を切り裂いた。

 再び、浅い傷。

 戦闘は、奇妙な膠着状態に陥った。

 ギデオンの放つ槍の一撃一撃は、まさしく必殺の威力を持っている。だが、その全てが、ゼノンの神業のような体捌きと、鉤爪による的確な迎撃によって、紙一重で逸らされていく。

 一方で、ゼノンの攻撃は、ギデオンに致命傷を与えるには至らない。鉤爪が何度も彼の体を掠め、そのたびに新しい切り傷を刻みつけてはいくが、そのどれもがかすり傷程度のものだった。

 

「はっ! どうした、どうしたァ!? さっきの威勢はどこへ行ったんだ、あぁ!?ちまちまちまちまと、虫が刺すみたいなことしかできねえのかよ!」

 

 次第に、ギデオンの顔に余裕の笑みが戻り始めていた。

 この片腕の男は、確かに動きは素早い。だがそれだけだ。決定的な一撃を放つ力も、武器も持ってはいない。いずれ体力が尽きれば、自分の槍の錆となるだけの存在。彼はそう確信し始めていた。

 

「いいぜ、もっと斬りつけてきな! この程度の傷、あの女に祈祷でもさせればすぐに治らァ! てめえが疲れてへばるのが先か、俺様の槍がてめえの心臓をぶち抜くのが先か、勝負と行こうじゃねえか!」

 

 ギデオンは哄笑しながら、さらに槍の振りを激しくする。

 その猛攻の最中、ゼノンはただ黙々と攻撃を捌き続けていた。彼は、ギデオンを少しずつ、少しずつ、焚き火の光から遠ざけていく。

 

 その事実に最初に気づいたのは、渦中のギデオンではなく、恐怖の中で戦いを見つめていたルインだった。

 最初、戦闘が始まった場所は、彼女が座り込んでいた岩のすぐそばだった。だが、いつの間にか、二人の男は十数歩も離れた場所で斬り結んでいる。

 ルインは、唇を強く噛み締めた。

 彼は、自分を守っているのではない。ただ、戦いの邪魔になる存在を、安全な場所へ“移動”させているだけだ。そうに違いない。

 それでも、結果として彼に余計な負担を強いていることに変わりはなかった。自分がここにいなければ、彼はもっと自由に戦えたはずだ。

 

(……私は、また……)

 

 歯がゆさに、指先が白くなるほど強く握り締められる。

 今、自分にできることはないのか。いや、ある。教団で学んだ、癒しの祈祷。そして、わずかながら、味方の力を増幅させる祝福の祈りも。

 

「……っ!」

 

 ルインは、意を決して立ち上がろうとした。だが、恐怖で固まった足は、まだ言うことを聞かない。祈りの言葉を紡ごうとしても、震える唇からは、か細い息が漏れるだけだった。

 誰にも届かない、無力な祈り。

 そんな彼女の葛藤を知る由もなく、二人の男の戦いは続いていた。

 ギデオンの体には、すでに無数のかすり傷が刻まれている。だが、彼の勢いは衰えるどころか、ますます増していく。

 

「これで……終わりだぁっ!!」

 

 渾身の力を込めた突きが、ゼノンへと放たれる。

 ルインの悲鳴が闇を裂く中で、彼はその一撃を静かに見つめていた。

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