祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
焚き火の炎が揺らめき、二つの影を地面に長く伸ばしていた。一つは、目の前の獲物を前にして傲岸不遜に佇む、牙の紋章を持つ勇者の影。そしてもう一つは、闇の中から現れ、その全てを無に帰すかのように静かに立つ、ゼノンの影。
張り詰めた空気を破ったのは、ゼノンの呟きだった。それは問いかけのようでもあり、単なる事実の確認のようでもあった。
「……勇者か」
その言葉を聞いた男は、待ってましたとばかりに胸を張り、猪の牙の紋章をこれ見よがしに見せつけた。
「そうよ! 俺様こそが女神様の祝福を受けし勇者、ギデオン・ザ・ファング様さ! ひれ伏しな、片腕野郎! そうしたら、苦しまずに殺してやってもいいぜ?」
彼はゼノンの破壊された右腕を顎でしゃくり、心底愉快そうに下卑た笑い声を上げた。勇者。その称号が、絶対的な強さと特権の証であると、彼は微塵も疑っていない。
「なら――」
言葉を受けたゼノンの顔に、表情の変化はない。だが、その瞳の奥に宿る昏い光が、さらにその深度を増した。
「死ね」
宣告は声というよりも、風の音に近かった。ギデオンがその言葉の意味を理解するよりも早く、ゼノンの体が動く。
音もなく踏み込み、地面を滑るように距離を詰め、ギデオンの腹部へと容赦のない蹴りを叩き込んだ。
鈍い衝撃音。男の巨体が潰れた蛙のような悲鳴と共にくの字に折れ曲がり、後方へと吹き飛ばされる。地面を数度バウンドし、土埃を上げながら無様に転がった。
「が……はっ……て、め……」
男は腹を押さえ、激しく咳き込みながらも、信じられないものを見る目でゼノンを睨みつけた。まさか、一撃で。この自分が、こんなひょろりとした男に。その事実は、ギデオンの肥大化したプライドを酷く傷つけた。
怒りと屈辱に顔を歪ませた男が、咆哮する。
「よくもやったな、クソがァッ!!」
ギデオンは咳き込みながらも右手を前に突き出した。その胸元で、猪の牙の紋章が禍々しい光を放つ。
光の中から、彼の身長ほどもある長大な槍が姿を現した。穂先は猪の牙のように鋭く湾曲し、石突の部分にはおぞましい装飾が施されている。女神の祝福によって生み出されたとは思えない、ただ殺戮のためだけに存在する凶器。
「死ねやぁ!!」
槍を握りしめ、ギデオンは雄叫びを上げてゼノンへと突進した。大地を揺るがすような突進は、さながら暴走する猪のよう。繰り出された槍の突きは、風を切り裂き、唸りを上げてゼノンの心臓へと迫った。
対するゼノンは、回避も防御もせず、ただ静かに外套の内側へと左手を差し入れた。
迫る死の一撃。それを見守るルインが、息を呑む。
槍がゼノンの体を貫く、その寸前。
ゼノンの左手が、閃光のように振るわれた。甲高い金属音が辺りに響き渡る。
ギデオンの渾身の突きは、ゼノンが握る奇怪な形状の武器によって弾かれていた。
それは、武器と呼ぶにはあまりにも異形だった。黒曜石を削り出したかのような、三本の禍々しい鉤爪。持ち手の部分は歪にねじれ、まるで悪魔の腕そのものをもぎ取ってきたかのようだ。
体勢を崩したギデオンの胴体に、ゼノンの鉤爪が浅く、しかし鋭く食い込んだ。
「ぐっ……!」
革鎧が引き裂かれ、肉が抉れる感触。ギデオンは呻き声を上げながら後方へ飛び退き、傷口を押さえた。じわりと血が滲んでいるが、傷自体は深いものではない。
「この野郎……!」
ギデオンは傷口を睨みつけると、再び槍を構え直した。今度は、突きではなく、薙ぎ払い。荒野の風を唸らせ、横一文字に振るわれた槍が、ゼノンの胴体を両断せんと迫る。
ゼノンは身をかがめてそれをやり過ごすと、返す刃ならぬ鉤爪で、ギデオンの太腿を切り裂いた。
再び、浅い傷。
戦闘は、奇妙な膠着状態に陥った。
ギデオンの放つ槍の一撃一撃は、まさしく必殺の威力を持っている。だが、その全てが、ゼノンの神業のような体捌きと、鉤爪による的確な迎撃によって、紙一重で逸らされていく。
一方で、ゼノンの攻撃は、ギデオンに致命傷を与えるには至らない。鉤爪が何度も彼の体を掠め、そのたびに新しい切り傷を刻みつけてはいくが、そのどれもがかすり傷程度のものだった。
「はっ! どうした、どうしたァ!? さっきの威勢はどこへ行ったんだ、あぁ!?ちまちまちまちまと、虫が刺すみたいなことしかできねえのかよ!」
次第に、ギデオンの顔に余裕の笑みが戻り始めていた。
この片腕の男は、確かに動きは素早い。だがそれだけだ。決定的な一撃を放つ力も、武器も持ってはいない。いずれ体力が尽きれば、自分の槍の錆となるだけの存在。彼はそう確信し始めていた。
「いいぜ、もっと斬りつけてきな! この程度の傷、あの女に祈祷でもさせればすぐに治らァ! てめえが疲れてへばるのが先か、俺様の槍がてめえの心臓をぶち抜くのが先か、勝負と行こうじゃねえか!」
ギデオンは哄笑しながら、さらに槍の振りを激しくする。
その猛攻の最中、ゼノンはただ黙々と攻撃を捌き続けていた。彼は、ギデオンを少しずつ、少しずつ、焚き火の光から遠ざけていく。
その事実に最初に気づいたのは、渦中のギデオンではなく、恐怖の中で戦いを見つめていたルインだった。
最初、戦闘が始まった場所は、彼女が座り込んでいた岩のすぐそばだった。だが、いつの間にか、二人の男は十数歩も離れた場所で斬り結んでいる。
ルインは、唇を強く噛み締めた。
彼は、自分を守っているのではない。ただ、戦いの邪魔になる存在を、安全な場所へ“移動”させているだけだ。そうに違いない。
それでも、結果として彼に余計な負担を強いていることに変わりはなかった。自分がここにいなければ、彼はもっと自由に戦えたはずだ。
(……私は、また……)
歯がゆさに、指先が白くなるほど強く握り締められる。
今、自分にできることはないのか。いや、ある。教団で学んだ、癒しの祈祷。そして、わずかながら、味方の力を増幅させる祝福の祈りも。
「……っ!」
ルインは、意を決して立ち上がろうとした。だが、恐怖で固まった足は、まだ言うことを聞かない。祈りの言葉を紡ごうとしても、震える唇からは、か細い息が漏れるだけだった。
誰にも届かない、無力な祈り。
そんな彼女の葛藤を知る由もなく、二人の男の戦いは続いていた。
ギデオンの体には、すでに無数のかすり傷が刻まれている。だが、彼の勢いは衰えるどころか、ますます増していく。
「これで……終わりだぁっ!!」
渾身の力を込めた突きが、ゼノンへと放たれる。
ルインの悲鳴が闇を裂く中で、彼はその一撃を静かに見つめていた。