祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
25.欠落
必殺。その確信があった。全身の力を、紋章の力を、そして殺意の全てを槍の穂先一点に集中させた、渾身の一撃。これまでのどの攻撃とも違う。岩をも砕く一撃が、憎き片腕野郎の心臓を貫くはずだった。
だが。
ギデオンは自らの体に起きた異変に、その瞬間に気づいた。
力が入らない。紋章から流れ込んでくるはずの力が、急速に萎んでいく。
突き出された槍はゼノンに当たる前から、明らかに勢いを失い始めていた。穂先が空気を切り裂く音はか細く、狙いは定まらない。
体の芯から力がごっそりと抜き取られてしまったかのようだった。器に空いた小さな穴から、大切な中身がとめどなく流れ出していくように。
「な……あ……?」
戸惑いの声が漏れる。ゼノンの昏い瞳が、ギデオンの混乱を嘲笑うかのように冷たく見据えていた。
失速した槍は脅威には程遠い。ゼノンは鉤爪を軽く振るうだけであっさりとそれを弾き、無防備にがら空きになったギデオンの胸元を再び切り裂いた。
それはまたしても、『かすり傷』だった。
致命傷には程遠い。だが、その最後の一撃で、ついに限界を迎えた。
ゼノンが振るった鉤爪は、斬りつけた対象から生命力と魔力を『削り取る』。一度に奪う量はわずかだが、傷を重ねるごとにその効果は増し、やがて相手は武器を振るう力さえ失う。
じわじわと、確実に、相手の全てを奪い尽くすための、悪趣味な処刑具。
ギデオンの手から力が抜け、重々しい金属音を立てて槍が地面に落ちる。女神の祝福を受けた武器が、無様に土に塗れていく。
膝が笑い、そのまま崩れ落ちるように地面に膝をつく。全身の筋肉が言うことを聞かない。呼吸が浅く、速くなる。指一本動かすことすら嫌になる程の倦怠感に襲われ、それでもギデオンは吠えた。
「てめえ……一体、何しやがった……!」
ゼノンは何も答えず、ゆっくりと間合いを詰めてくる。その一歩一歩が、まるで死刑執行人の足音のように、ギデオンの鼓膜に不気味に響いた。
「こ、の……クソ野郎が……っ!?」
ギデオンは震える手を、地に落ちた得物に向けて伸ばした。胸元の猪の牙が、明滅するかのように頼りなく光る。
その手が届く寸前で、槍は光の粒子となってはかなく霧散し、闇の中へと消えていった。
武器を保つだけの魔力がない。いや、違う。この体に残っていたはずの力が、全身の傷口から流れ出ていく。かすり傷だと嘲笑ったそれが、勇者の力を全て奪い取っていった。
伸ばした手を蹴り飛ばされ、ギデオンは受け身も取れずに転がった。
「ま、待て! 待ってくれ! 頼む! 見逃してくれ! 俺様は……俺は! 死にたくない! 俺はっ!」
命乞い。さっきまでの威勢は見る影もなく、ただの哀れな男が、地面に這いつくばって許しを乞うていた。
ゼノンは、そんな男の最後の言葉を、何の感情も浮かべない瞳で見下ろしたまま。
「――『勇者』に、生きる価値なぞない」
呟きは、誰に向けたものだったのか。目の前のギデオンにか。イビルにか。それとも。
「やめ……やめてください!」
その時、ルインの叫び声が響いた。
恐怖を振り絞り、ついに立ち上がった彼女は、よろめきながらも二人のもとへ駆け寄ろうとしていた。
「その人には、もう……戦う力はありません! これ以上の行いは……ただの殺戮です! 女神様は、そのようなことをお望みにはっ……」
懇願するルインに、ゼノンは一瞥もくれない。答えすらも返さず、彼はただギデオンを見下ろしている。
朦朧とする意識の中、ギデオンの目に、自分を見下ろす男の左手の甲が映った。勇者の証である、紋章が。
だが、その形は異常だった。美しいはずの雪の結晶。その中心を、まるで獣がつけたかのように、三本の爪痕が乱暴に上書きしている。
その紋章を見た瞬間、ギデオンの脳裏に、かつて酒場で聞いた噂話が駆け巡った。女神に選ばれたはずでありながら、勇者を狩ることにのみ執着する狂人。妙な紋章を持つ、正体不明の男。
「お前、が……!」
恐怖と驚愕に、ギデオンの声が震える。目の前の、片腕の男の正体。その忌まわしい異名が、彼の唇から絞り出された。
「『勇者殺し』――!」
その言葉は、呪いのように荒野の夜気に染み渡った。
勇者殺し。
その名を聞いた瞬間、ルインの足が縫い付けられたように止まる。心臓が、氷水に浸されたかのように冷たくなった。
教団の指名手配リストに載る、最重要危険人物達。危険な魔道具を数多く作り出し、無辜の民を徒に傷つけた、タオ・ザ・ユースフル。勇者の紋章を改造し、女神の祝福を汚す大罪人、ソウル・ザ・ジェイルブレイカー。
そして、勇者殺し――ゼノン・ザ・ブレイブキラー。
勇者は女神の祝福を受けし者。その勇者とて、時には道を誤ることもあるだろう。だが、彼らを裁き、正道へ導くのは教団の、そして抑聖騎士団の役目だ。一個人が、それを断罪するなど――それは、女神への最大の冒涜に他ならない。
まさか。
自分が後を追ってきた、この孤独な復讐者が、教団が最も忌み嫌う冒涜者だというのか。
ルインの思考が、混乱に凍りつく。
ギデオンの最後の言葉にも、ルインの絶望的な眼差しにも、ゼノンは一切の関心を示さなかった。
ゼノンの足が、静かに振り上げられた。
ギデオンの目に、最期の光景が映る。ゼノンの濃紺の瞳は、鬼火のように冷たく揺らめいていた。
躊躇なく振り下ろされた足が首をへし折り、骨を砕く鈍い音と共に、血飛沫が夜の闇に舞う。
あまりの光景に、ルインはその場に立ち尽くしていた。
間に合わなかった。
彼女の祈りも、言葉も、届かなかった。目の前で、一つの命が、あまりにもあっけなく奪われた。奪ったのは、自分が後を追いかけてきた、名前も知らない、この男。
『勇者殺し』。
その言葉が、現実の重みを持って、彼女の心に深く、深く突き刺さっていた。