祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
夜の闇は、いつしか東の空から滲み始めた鈍色の光に押しやられていた。冷たい風が荒野を吹き抜け、赤茶けた大地に転がる石くれの輪郭を、ゆっくりと浮かび上がらせていく。
燃え尽きた焚き火の残骸から、か細い白煙が立ち上っていた。その傍らで、白い僧衣をまとった少女――ルインは、身を丸めて眠っていた。いや、眠っていたというよりは、気絶するように意識を失っていた、と言う方が正しい。昨夜の惨劇がもたらした衝撃と、それまでの旅で蓄積された極度の疲労が、彼女の精神の糸をぷつりと断ち切っていたのだ。
頬を撫でる朝の冷気に、ルインは微かに身じろぎした。重い瞼をこじ開けると、数日ですっかり見慣れてしまった荒野の光景が広がっていた。
体を起こせば、全身の関節が軋むように痛んだ。ぼんやりとした頭で、昨夜のことを思い出そうとする。確か、野営をしていたところに、勇者を名乗る男が現れて……それから、あの人が……。
「……あ」
そこまで思い出した瞬間、ルインは弾かれたように周囲を見渡した。
誰もいない。
あの黒い外套の男――ゼノンの姿も、屈強な体躯をしていたギデオンという名の勇者の姿も、どこにも見当たらない。ただ、冷たい風が、ルインのすぐそばを吹き抜けていくだけだった。
(……夢?)
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
そうだ。きっと、そうに違いない。あまりに疲れていたから、恐ろしい悪夢を見てしまったのだ。あの人が人を殺すなんて。ましてや、彼が『勇者殺し』などという、冒涜的な異名で呼ばれる存在であるはずがない。
安堵にも似た感情が胸に広がりかけ、ルインは弱々しく笑みを浮かべようとした。
だが、その視線が、昨夜ギデオンが倒れていた場所を捉えた時、彼女の淡い希望は無慈悲に打ち砕かれた。
地面の一点が、周囲とは明らかに違う、禍々しい色に染まっていた。
夜の間に流れた血は、乾いて黒ずみ、土埃と混じり合って、消えない染みとなっている。それは、昨夜の惨劇が紛れもない現実であったことを、何よりも雄弁に物語っていた。
死体は、ゼノンがどこかへ運び去ったのだろう。獣に荒らされぬよう埋めてくれたのか、それとも、ただ自分の痕跡を消すために谷底へでも投げ捨てたのか。
夢ではなかった。
現実に、人の命が奪われたのだ。目の前で。
そして、それを為したのが、自分が救いたいと願ったはずの男だったという事実。
「……うっ」
込み上げてくる吐き気に、ルインは口元を押さえた。胃の腑がひっくり返るような不快感が、何度も彼女を襲う。だが、空っぽの胃からは、苦い胃液が少量こみ上げてくるだけだった。
しばらくその場でうずくまっていた彼女だったが、やがて、おぼつかない手つきで荷物の中から固くなったパンと水筒を取り出した。生きるために、食べなければならない。動くために、飲まなければならない。その義務感だけが、かろうじて彼女の体を動かしていた。
パンを千切り、機械的に口へ運ぶ。味など、まったくしなかった。まるで砂を噛んでいるかのようだ。水で無理やり喉の奥へと流し込みながら、彼女の頭の中では、いくつもの問いが渦を巻いていた。
『勇者殺し』。
ゼノン・ザ・ブレイブキラー。教団が追う大罪人。
あの男は、危険だ。関わってはいけない。教団の教えに従うならば、今すぐに引き返し、最寄りの支部へ彼のことを報告するのが、僧侶として、信徒として唯一の正しい行いのはずだった。
正しいこと。そう、それが一番、正しい。
なのに。
彼女の足は、まるで地面に根が生えたかのように動かなかった。
昨夜殺されたギデオンは、確かに勇者だった。だが同時に、何の罪もない旅人を脅し、全てを奪おうとした悪人でもあった。
ゼノンの行いは、許されない殺戮だ。だが、彼の行いがなければ、今頃自分はどうなっていたか。
そして脳裏に焼き付いて離れないのは、彼の冷酷さだけではなかった。
ただ一人荒野を歩いていた、あのどうしようもなく孤独な背中。
自分をかばって戦っているように見えた、その姿。
なぜ勇者を憎むのか。命乞いの言葉すら聞き入れないほどに。
なぜ自分を助けたのか。足手まといでしかなかったろうに。
分からない。けれど。
放っておけない。
その思いが、教団の教えよりも、本能的な恐怖よりも、強く彼女の心を縛り付けていた。
それに、もし自分が彼を見捨ててしまったら。このまま彼を一人にしてしまったら。
きっと彼は、この先も一人で、同じように罪を重ねていくのだろう。その魂が、憎しみの炎で完全に燃え尽きてしまうまで。
それは、駄目だ。
そんな結末を、よしとしてはいけない。
「……行かないと」
誰に言うでもなく、ルインは呟いた。
答えは出ない。何が正しくて、何が間違っているのかも分からない。
それでも、ここで立ち止まってはいけない。直感がそう告げていた。
ルインは残っていた水を飲み干すと、手早く荷物をまとめ、再び立ち上がった。太陽は、すでに東の空高く昇っている。進むべき方角は、南。
昨日までとは違う、重い葛藤をその小さな背中に背負いながら、彼女はおぼつかない足取りで、再び荒野へと踏み出していった。