祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
灼熱の太陽が、容赦なく大地を炙っていた。
ルインが一人で歩き始めてから、数時間が経過していた。ゼノンと二人で旅をしていた時よりも、疲労の蓄積は遥かに早い。それは肉体的なものだけではなく、精神的なもの――孤独という名の重圧が、彼女の両肩にのしかかっているからだった。
水は尽き、唇は乾ききっている。何度も幻を見た。陽炎の向こうに、あの黒い外套の幻影が揺らめいては消える。そのたびに、彼女の心には安堵と落胆が交互に訪れた。
(もう、無理かも……)
意識が朦朧とし始め、足がもつれる。その場で崩れ落ちそうになった、その時。
地平線の彼方に、陽炎とは違う、確かな影が見えた。
最初は小さな点に過ぎなかったそれは、彼女がふらつく足で近づくにつれて、徐々にその輪郭をはっきりとさせていく。
城壁。建物。
それは、間違いなく街だった。
「……街……!」
希望の光に、乾ききった喉からかすれた声が漏れる。最後の力を振り絞り、ルインはひたすらにその影を目指して歩いた。
やがて辿り着いたのは、寂れた荒野には不釣り合いなほど、しっかりとした石壁に囲まれた小さな街だった。決して大きくはないが、乾いた大地を渡ってきた者にとっては、まさしくオアシスと呼ぶにふさわしい活気がそこにはあった。
街の門には、衛兵が退屈そうに立っていた。ルインが力なく近づいてくるのを見ると怪訝な顔をしたが、彼女のまとった白い僧衣に気づくと、少しだけ警戒を解いたようだった。
「ひどい有り様だな、僧侶様。どこからおいでに?」
日に焼けた、人の良さそうな顔の衛兵が声をかけてくる。ルインは、まともに言葉を返すことさえできず、ただ水が欲しいと身振りで訴えた。
衛兵はすぐに事情を察し、門の内側から水差しを持ってきてくれた。
「ほら、ゆっくりお飲みください。とりあえず中へ。こんな日差しの中にいちゃ、干からびちまう」
差し出された水を、ルインは夢中で飲んだ。ひび割れた喉を命の水が潤していく感覚に、ようやく人心地がつく。
「あ……ありがとうございます……助かりました」
何度か礼を言うと、衛兵は気にするなと手を振った。
「教団の方ですかな? 随分とお疲れの様子ですが、大丈夫ですかい」
自身の汚れた僧衣を見下ろし、ルインは慌てて頭を下げた。
「は、はい。少し……長旅でしたので」
「それはご苦労様です。まあ、こんな何もない荒野の真ん中の街ですが、水と寝床くらいはありますんで、ゆっくりしていってくださいや」
衛兵はにこやかにそう言うと、ふう、と一つため息をついた。その表情には、どこか憂いを帯びた色が混じっている。
「とはいえ、この街も最近は少しばかり物騒でしてね。教団の方がいらしてくれると、なんだか安心しますよ」
「物騒……ですか? 何かあったのでしょうか」
ルインが尋ねると、衛兵は少しだけ声を潜め、辺りを窺うようにして言った。
「ええ……。まあ、大きな事件ってわけじゃないんですが……。騎士様方の一件があってから、どうにも街の空気が重苦しいもんで」
「騎士……様?」
「ええ。この街には、教団直属の、抑聖騎士団様の九番隊の宿舎があるんですよ。少し前に任務で出払っていかれたんですが……」
衛兵はそこで一度言葉を切り、忌まわしい記憶をたどるかのように、眉をひそめた。
「……戻ってこられたのは、たった一人だけだったんです。なんでも、とんでもない化け物みたいな『勇者』とやりあって、隊は壊滅させられたとか……。生き残ったのは、隊長だった『一番』様、ただお一人だけだと」
その言葉の重みに、ルインは息を呑んだ。
抑聖騎士団。女神の教えの守護者にして、最強の対勇者部隊。その一隊が、壊滅させられた。ただの一人の勇者によって。
「その……一番、様は……ご無事なのですか?」
「体の方は、もう怪我も治ったそうです。ですが……」
衛兵は、言いづらそうに首を横に振った。
「心が、完全に参ってしまわれたそうで。宿舎の自室に閉じこもって、夜な夜な何かに怯えて、『来るな』と叫んで誰にも会おうとしない。誰が訪ねても、扉を固く閉ざしたまま……」
衛兵は困ったように頭を掻いた。
「引き継ぎのため、ってんで七番隊の方々も宿舎においでなんですが……それでも駄目みたいでしてね。まったく、英雄であられる騎士様方が負けて帰ってくるなんて、一体どんな相手だったんでしょうな」
ルインは、その言葉を黙って聞いていた。ゼノンの行方を探していたはずなのに、その耳に届いたのは、絶望の淵にいる別の誰かの物語だった。
心を病み、怯え、閉じこもっている英雄。悪意によって心を砕かれた被害者。
助けを求める人が、すぐそこにいる。
食料も、水も、休息も必要だ。ゼノンを探さなければならないという焦りもある。だが、僧侶として、一人の人間として、その声を聞いてしまった以上、見過ごすことは彼女にはできなかった。
「あの……その宿舎は、どこにあるのでしょうか」
彼女の問いに、衛兵は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに合点がいったというように頷くと、街の東側を指差した。
「教団の方なら、もしかしたら……。一番様の心を、少しでも癒してやれるかもしれませんな。あちらです。街で一番大きな、石造りの建物がそうです」
「ありがとうございます。……行ってみます」
ゼノンを探すのは、その後でもいい。
今は、目の前の苦しむ魂に寄り添うこと。それが、今の自分にできる、唯一の正しいことのはずだった。
ルインは衛兵に深く一礼すると、迷いのない足取りで、騎士団の宿舎へと向かっていった。