祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
衛兵に教えられた通り、街の東側に位置する石造りの建物は、周囲の木造家屋とは一線を画す威容を誇っていた。装飾はほとんどなく、質実剛健という言葉をそのまま形にしたような、抑聖騎士団の宿舎。その堅牢な佇まいは、かつては住人たちに絶対的な安心感を与えていたに違いない。だが、九番隊が壊滅したという事実を知った今、その頑ななまでの静寂は、墓標のようにも見えた。
ルインは宿舎の重々しい扉の前で一度立ち止まり、息を整えた。
抑聖騎士団。
その名は、教団に身を置く者であれば誰もが畏敬の念と共に口にする。彼らは、女神を崇める信仰の“剣”であり“盾”である。
女神の祝福は、本来であれば世界に善をもたらす力のはずだった。だが、時にその力は持ち主を驕らせ、歪ませ、道を誤らせる。教団はそれを『人の矮小な器が、強大な女神の慈悲を受け止めきれず歪んでしまった結果』だと考え、そして暴れる勇者達を『女神が与えたもうた試練』であると解釈した。
抑聖騎士団は、その試練を乗り越え、歪みを正すために存在する、教団直属の対勇者部隊。彼らもまた、女神の祝福を受けし者。
団員になるための儀式は過酷を極める。彼らは自らの「名」を女神に還し、俗世との一切の縁を断ち切る。個を捨て、ただ女神の剣となることを誓った者だけに、右手の甲に剣と盾をあしらった画一的な紋章が与えられるのだ。
名を捨てた彼らは、互いを序列を示す番号でのみ呼び合う。隊を率いる隊長は「一番」、その下に「二番」「三番」と続く。個人の感情を殺し、ただ組織の歯車として、冷徹に任務を遂行する。そのストイックな在り方と比類なき強さは、多くの信徒にとって畏敬と尊敬の対象だった。
(騎士団が……たった一人の勇者に……)
ルインは固唾を飲んだ。彼らが戦った相手は、一体どれほどの怪物だったというのだろうか。
彼女が扉を叩くと、中から現れたのは、下級の聖職者らしき男性だった。ルインが身分を明かし、一番の様子を伺いに来たと告げると、男は困惑した表情を浮かべた。
「……僧侶様、お気持ちはありがたいのですが。一番様は、あの日以来、誰とも顔を合わせようとはなさらないのです。食事も、扉の前に置いておくだけで……」
「それでも、構いません。どうか、部屋の前まで案内していただけませんか。扉越しに、お話をするだけでも」
ルインの真摯な眼差しに、聖職者は根負けしたように頷いた。
案内されたのは、宿舎の最奥にある、ひときわ頑丈そうな扉の前だった。扉の前には手つかずの食事が置かれた盆が寂しげに置かれている。中からは、物音ひとつしない。だが、注意深く耳を澄ますと、時折、獣が唸るような、苦しげなうめき声が微かに聞こえてきた。
「では、私はこれで……。何かありましたら、お呼びください」
聖職者が気遣わしげに言い残し、その場を去っていく。一人残されたルインは、深く息を吸い込むと、扉に向かって優しく語りかけた。
「……一番様。はじめまして。私は、ルインと申します。旅の僧侶です」
返事はない。ただ、扉の向こうの息遣いが、一瞬だけ止まった気がした。
「衛兵の方から、あなたのことをお聞きしました。……とても、お辛かったのですね」
ルインは、言葉を選びながら、静かに、ゆっくりと続けた。彼女がかつて育った孤児院でのことを思い出しながら。心を閉ざしてしまった子供たちと、どうやって心を通わせていったか。無理に扉を開けようとはしないこと。ただ、そばにいること。あなたが一人ではないと、伝え続けること。
「私は、あなたを無理やり外へ連れ出そうというのではありません。ただ、あなたのお話を、聞かせていただけませんか。もし、話したくないのであれば、それでも構いません。ただ……あなたが少しでも、安らげるように、ここで祈らせてください」
彼女の声には、何の強制も、下心もなかった。ただ、目の前の傷ついた魂を癒したいという、純粋で、温かな祈りだけが込められていた。
しばらく、沈黙が続いた。
諦めて帰るべきか、とルインが思い始めた、その時。扉の向こうから、かすれた声が聞こえてきた。
「……帰れ。俺に構うな」
それは、長い間声を発していなかった人間の、ひび割れた声だった。拒絶の言葉ではあったが、初めての応答だった。
「はい。ですが、もう少しだけ、ここにいさせてください」
ルインは、柔らかな声で答えた。その穏やかな声音が、扉の向こうの男の警戒心を、ほんの少しだけ和らげたのかもしれない。さらに長い沈黙の後、再び、声がした。
「……お前も、奴らと同じか? 俺を笑いに来たのか? 仲間を見殺しにして、一人だけ生き恥を晒した腑抜けだと……!」
「いいえ! 決して、そのようなことはありません」
ルインは、きっぱりと否定した。
「あなたは、生き残った。それだけです。それは、恥ずべきことでは、決してありません」
その真っ直ぐな言葉に、扉の向こうの気配が揺らぐ。
ガチャリ、と。内側から、錠が外れる重い音が響いた。ゆっくりと、扉がわずかに開かれる。暗い部屋の中、ぼろぼろの衣服をまとった男が、隙間からこちらを覗いている。
かつては隊長としての威厳に満ちていたであろうその男は、今は見る影もなくやつれ、無精髭に覆われた顔は憔悴しきっている。光の届かない瞳は、何かにひどく怯えるように、絶えず揺れていた。
「……勇者はいないか。……武器は……持っていないか」
「おりません。私は丸腰です。あなた様を傷つける者は、ここには誰もおりません」
彼女はゆっくりと近づき、その場に膝をつくと、盆の上に置かれた食事を取って差し出した。
「何か、口にしてください。少しでも、力をつけないと」
一番は、その差し出された手を、獣のように鋭い目でしばらく睨みつけていた。だが、ルインの瞳に敵意も偽りもないことを見て取ると、やがてその警戒を少しだけ解いた。震える手で、おずおずと受け取る。その手には、抑聖騎士団の証である剣と盾の紋章が痛々しく刻まれていた。
ルインは、彼が水を飲むのを静かに見守り、パンを少しずつちぎって、その手に渡してやった。一番は、まるで何年も食事をしていなかったかのように、それを貪るように食べた。
彼女は、ただ穏やかに、繰り返し語りかけた。優しい言葉を紡ぎ、ただ、彼のそばに寄り添った。無理に事情を聞き出そうとはしない。ただ、彼の傷ついた魂を、温かな祈りで包み込むように。
どれほどの時間が流れただろうか。
一番の震えが、少しずつ収まっていくのが分かった。固く閉ざされていた彼の心が、ほんの少しだけ、扉を開こうとしている気配がした。
「……あいつは、笑っていた……」
ぽつり、と。一番が、言葉を漏らした。
「仲間が、目の前で、殺されていくのを……。あいつは、ただ、楽しそうに、笑って……」
断片的な言葉。その向こう側にある地獄を垣間見て、ルインは胸が締め付けられる思いだった。
それでも、話してくれた。それは、回復への小さな、しかし、確かな一歩のはずだった。ルインが安堵の息をつき、次の言葉を探した、その時。
宿舎の廊下の向こうが、にわかに騒がしくなった。
何かを制止しようとする、焦ったような聖職者の声。
「待ちなさい! ここは貴方のような者が立ち入っていい場所ではない! 聞いて――ぐっ!」
その声を、まるで石ころでも蹴飛ばすかのように、冷たく、無機質な声が遮った。
「――邪魔だ」
ルインは、その声に聞き覚えがあった。背筋を、冷たいものが駆け上がっていく。
騒ぎは収まるどころか、どんどん近づいてくる。階段を駆け上がってくる、複数の足音。そして、乱暴な物音。
その騒がしさに、一番の体がびくりと跳ねる。せっかく和らぎかけていた彼の瞳に、再び強い恐怖の色が宿った。
「ひっ……! きた……! あいつが……!」
次の瞬間、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
押し留めようとした神官たちが廊下に転がり、その向こうの入り口に、一つの人影が立つ。
逆光でその表情は窺えない。だが、破壊された右腕と、黒い外套。そして、その全身から放たれる、凍てつくような殺気。
間違いなく、ゼノンだった。