祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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29.悪夢

 街で一番の話を聞いたゼノンは、すぐさま宿舎へ向かっていた。イビル・ジ・イーヴルと戦い、生き残った男。奴の能力、戦い方、あるいは弱点。どんな些細な情報でもいい。復讐の刃を研ぐための砥石になるのなら、手段は選ばない。

 

「貴様が『一番』か」

 

 問いかけに、温度はなかった。ゼノンの視線は、怯える男の顔から、その右手の甲に刻まれた紋章へと移る。抑聖騎士団の証。間違いない。こいつが、イビルと戦って生き残った男だ。

 

「何をしに来たのですか! この方は、心も体もひどく傷ついているのです! こんな乱暴な……!」

 

 ルインが、非難の声を上げた。だが、ゼノンは彼女のことなど存在しないかのように、その視線を一番から外さない。

 

「イビルについて知っていることを話せ。奴の外見、能力、戦い方。覚えている全てをだ」

 

 その名が出た瞬間、一番の体が大きく震えた。せっかく取り戻しかけていた平静は完全に消し飛び、その瞳は再び、底なしの恐怖に染め上げられていた。

 

「ひ……ぃ……!」

 

 一番は何かを叫ぼうとしたが、喉から漏れ出たのは、引きつったような悲鳴だけだった。ガタガタと震え、壊れた玩具のように首を左右に振り続ける。その瞳は目の前のゼノンを捉えているようで、その奥にある、遥かに恐ろしい何かを見ているかのようだった。

 

「あ……ぁ……く、るな……あっちへ……いけ……」

 

「話せ。俺には時間がない」

 

 ゼノンの声に、苛立ちの色が混じる。

 ルインは咄嗟に、一番を庇うように立ち上がり、ゼノンとの間に立ちはだかった。

 

「やめてください! 見てわからないのですか! この方は、心に深い傷を負っているのです! そんな問い詰め方で、話せるわけがありません!」

 

「黙れ。こいつはイビルと戦って『生かされた』。奴の能力、戦い方……何かしらの情報を、持っているはずだ」

 

「だからと言って!」

 

 ルインは必死に食い下がる。だが、ゼノンの視線は、ルインを通り越して、その後ろにいる一番にだけ注がれていた。

 

「ひ……ぃ……」

 

 意味のある言葉にならない、獣のような悲鳴が一番の喉から漏れる。彼は後ずさり、壁に背中を強く打ち付けた。

 ゼノンは、その反応に苛立ちを隠さず、舌打ちを一つ漏らした。

 

「……使えんな」

 

 その一言で、彼は興味を完全に失った。恐怖で壊れた人形からは、有益な情報は引き出せない。時間の無駄だ。ゼノンはくるりと背を向け、部屋から出て行こうとした。

 

「待ちなさい!」

 

 ルインが、怒りに震える声で叫んだ。

 

「あんまりです! この方がどれだけ苦しんでいるか、あなたには分からないのですか! ただ情報を求めるだけ求めて、役に立たないと分かれば捨て置くなんて!……人の心が無いのですか!?」

 

 彼女の言葉に、ゼノンは足を止めた。だが、振り返らない。

 

「心?――そんなもの、邪魔になるだけだ」

 

「目的のためなら、誰かを傷つけてもいいというのですか! それは、あなたが憎んでいる『勇者』たちと何が違うというのですか!?」

 

 その言葉は、刃となってゼノンの背中に突き刺さった。だが、彼は何も答えず、再び歩き出そうとする。

 その時だった。

 背後で、一番が絶叫した。

 

「あ……ああ……あぁああああああああああああああッ!!!」

 

 その冷え切った眼差し。興味を失い、ゴミでも見るかのような、無感動な態度。そして、ルインに背を向けたことであらわになった、左手の甲。

 雪の結晶に、三本の爪痕が刻まれた、禍々しい紋章。

 それらが全て、引き金となった。

 一番の脳内で、閉ざされていたはずの記憶の扉が、凄まじい勢いで蹴破られ。

 

 ―――地獄が、フラッシュバックする。

 

 

「我らは抑聖騎士団九番隊! 女神様の御名において、貴様の冒涜を断罪する!」

 

 隊長であった一番の号令一下、精鋭であるはずの騎士たちが一斉にイビルへと襲いかかった。我々は女神の剣。負けるはずがない。歪んだ祝福を受けただけの悪しき勇者など、我らが正さねばならぬ。その絶対の確信は、戦闘開始から、わずか数分で砕け散った。

 イビルの力は、異常だった。

 騎士たちの剣は届かず、祈りは掻き消され、統率の取れた陣形は赤子の手をひねるように崩され、号令に応じる声は一つずつ消えていく。彼はただ、楽しそうに笑っていた。死にゆく騎士たちの恐怖を、苦悶を、絶望を、その身に浴び、糧とするかのように、ますますその力を増していく。

 一人、また一人と、仲間が玩具のように破壊されていく。

 たった一人の、少年の手によって。

 黒髪黒目の少年――イビル・ジ・イーヴルは、一番の足元で虫の息となっている三番の体を、つま先で楽しそうに転がしていた。

 

「あれ、もう終わり? 君たちは最強の騎士団なんだろう? これじゃあ、あまりにもつまらないじゃないか」

 

 物腰は、どこまでも柔らかい。その右眼で嗤う髑髏の紋章が不気味に輝いていなければ、どこにでもいる人当たりの良い少年にしか見えないだろう。

 最後に残ったのは、一番と、彼の右腕であった三番だけだった。そして今、その三番も踏み砕かれて、一番は地獄に一人残された。

 彼は動けなかった。手足の骨は砕かれ、紋章の力も尽きかけている。何よりも、目の前の光景が、彼の信仰そのものを根底から破壊していた。

 勇者。それは女神の祝福を受けし者。時に過ちを犯すことはあっても、それは人の弱さ故。その根源は、善なるものであるはずだった。

 だが、目の前の少年は違う。これは、人の弱さなどという生易しいものではない。純粋な悪意。他者の苦痛を糧とする、絶対的な悪。

 

 そんなものが、なぜ女神の祝福を受けるのか。

 自分たちが信じ、命を捧げてきた女神は、こんな悪魔に力を与えるというのか。

 我々の正義は、信仰は、全てが偽りだったとでもいうのか。

 

「一番、だっけ?あれ?四番だっけ?んー……まあいいや、君は殺さないでおいてあげる。仲間がみんな死んで、自分だけが生き残る恐怖。それは凄く美味しいから、潰しちゃうのは勿体ないもんね?」

 

 彼は楽しげに話しながら、ゆっくりと一番に近づいてくる。そして、何か面白いことを思いついた、というように、人差し指を立てた。

 

「そうだ。いいことを教えてあげる。僕の、とっておきの玩具の話。紋章は綺麗な雪の結晶だったんだけどね、それを自分で爪で引っ掻いちゃったんだって。女神様の祝福を壊しちゃうなんてすごいよねぇ」

 

 イビルは、心から感心したようにうなずく。

 

「君たちみたいになっても、ただ怯えるだけじゃないんだよ、彼は。僕への殺意で、失ったものへの恐怖で、もっともっと、もーっと強くなる。素敵じゃない?」

 

 そう言って笑うイビルの姿が、今、目の前の男と、完全に重なった。

 

 ―――現実が、思考に追いつく。

 

 雪の結晶を、爪痕で汚した紋章。

 イビルが語っていた『玩具』。

 

「あ……ああ……ああああああああああああああああああああッ!!」

 

 一番の喉から、理性のタガが外れた絶叫が迸った。

 恐怖が許容量を遥かに超え、憎悪と狂乱へと転じる。

 こいつだ。こいつが、邪悪を呼ぶ。こいつがいるから、あの悪魔が現れる。殺さなければ。ここで殺さなければ、また、あの地獄がやってくる!

 

「来るなあああああああっ!!」

 

 一番は、弾かれたように立ち上がると、壁に飾りとして掛けられていた長剣をもぎ取るように掴んだ。切っ先を震わせ、憎悪と恐怖に濁りきった目でゼノンを睨みつける。

 また、弄ばれる。

 その前に。

 殺してやる。

 

「死ねええええええええっ!!」

 

 絶叫と共に、一番はゼノンへと斬りかかった。

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