祝福に刻む爪痕 作:七曲七竈
錆びついた剣を振りかぶり、一番は獣の咆哮と共にゼノンへと襲いかかった。かつて抑聖騎士団九番隊隊長として磨き上げたであろう剣技の面影はない。それは恐怖と憎悪に突き動かされるだけの、ただ暴力的な斬撃だった。だが、その一撃に込められた狂気は、並の人間であればたやすく命を刈り取るに足る鋭さを持っていた。
絶叫と共に振り下ろされた剣を、ゼノンは身をひるがえして紙一重でかわす。石の床に叩きつけられた剣が、甲高い音と共に火花を散らした。
「うおおおおおっ!」
一番は叫びながら、めちゃくちゃに剣を振り回す。突き、薙ぎ払い、斬り上げ。その全てが、ゼノンの最小限の動きによって躱されていく。だが、ゼノンは武器を抜こうとはしなかった。
「やめてください!」
ルインが悲痛な叫びを上げるが、狂乱した一番の耳には届かない。ゼノンは、そもそも聞く耳を持たない。彼女は二人の間に割って入ろうとするが、荒れ狂う剣戟の嵐に阻まれ、近づくことすらできない。
「そこを退け。もう用はない」
「殺す! 俺がお前を殺して、あの悪夢を終わらせるんだ!」
もはや、対話は不可能だった。狂気に囚われた英雄と、心を捨てた復讐者。その間に立ち、ルインはどうすることもできず、ただ唇を噛み締めることしかできない。
その時だった。
乱暴な足音が、複数、階段を駆け上がってくる。そして、統率の取れた、それでいて威圧的な声が廊下に響き渡った。
「騒がしいぞ! 何事だ!」
部屋に飛び込んできたのは、数名の騎士たちだった。一番と同じ、剣と盾の紋章を右手の甲に刻み、寸分の乱れもない同じ意匠の鎧を身に着けている。だが、彼らの纏う雰囲気は、精神が崩壊してしまった一番とはまるで違っていた。精悍で、冷静。そして、自らが女神の剣であるという揺るぎない自信に満ちている。
彼らこそ、この街に引き継ぎのために訪れていた、抑聖騎士団の七番隊だった。
「九の一番殿!? ご無事ですか!」
隊長らしき男が一番の姿を認め、駆け寄ろうとする。だが、彼はすぐに異変に気づいた。錯乱して暴れる一番。そして、その一番を冷たくあしらう、見慣れない黒い外套の男。
状況を即座に判断した七番隊の隊長が、鋭い声で命じた。
「貴様、九の一番殿に何をした! 曲者め!」
彼らが目にしたのは、あまりにも異様な光景だった。錯乱し、見知らぬ男に斬りかかる元九番隊隊長。それを冷静にいなす、片腕の不審な男。そして、涙ながらにそれを止めようとする、場違いな僧侶の少女。
騎士たちが、一斉に腰の剣の柄に手をかける。彼らの目には、ゼノンは精神に異常をきたした英雄に暴行を加える、不審者としか映っていなかった。
ゼノンは彼らに一瞥もくれず一番の攻撃を捌くことに集中していたが、もはや面倒になったのだろう。彼はついに反撃に転じた。
一番が振り下ろした剣を絡め取るように受け流すと、がら空きになった胴体へ、容赦のない蹴りを叩き込んだ。
「ぐふっ……!」
鳩尾にめり込んだ一撃に、一番はくぐもった悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちる。手から滑り落ちた剣が、床に甲高い音を立てて転がった。ゼノンは倒れた一番にはそれ以上の一瞥もくれることなく、即座にその場を立ち去ろうと背を向けた。
「待て!」
鋭い声が飛ぶ。いつの間にか部屋に踏み込んでいた七番隊が、抜き身の剣を構え、ゼノンの退路を塞いでいた。
「貴様! 逃がすと思うな!」
隊長の号令一下、七番隊の騎士たちが一糸乱れぬ動きでゼノンを取り囲む。銀色の刃が、薄暗い部屋の中でゼノンへと向けられた。
「違うんです! この人は…!」
絶体絶命の光景に、ルインが悲痛な叫びを上げる。何とか弁護しようとするが、言葉が続かない。この状況で、何をどう説明すればいいのか。混乱する思考の中、彼女の唇から、無意識にその名がこぼれ落ちた。
「ゼノンさんは……!」
その瞬間、ゼノンの動きが、ぴたりと止まった。彼の視線が、初めてわずかにルインへと向けられる。
だが、その名前により大きな反応を示したのは、七番隊の騎士たちだった。
「……ゼノン……?」
七番隊の一番が、訝しげにその名を繰り返す。脳内の情報リストと、目の前の片腕の男の特徴、そしてその名が結びついた瞬間、彼の顔色が変わった。
「まさか……貴様、その紋章……『勇者殺し』、ゼノン・ザ・ブレイブキラーか!」
その名は、呪いのように部屋中に響き渡った。
『勇者殺し』。
教団が最も忌み嫌い、その存在を冒涜者として断罪する、最重要指名手配犯。
七番隊の騎士たちが、一斉に緊張に身を強張らせる。彼らの視線が、侮蔑と、純粋な敵意に満ちたものへと変わった。
「総員、冒涜者を包囲しろ!」
隊長の号令一下、七番隊の騎士たちはゼノンを取り囲むように素早く陣形を組む。
ルインは、自らの失言が引き起こした最悪の事態に、血の気が引くのを感じていた。口元を押さえ、ただ青ざめて立ち尽くすことしかできない。
倒れた一番、剣を構える七番隊、そして絶望するルイン。
その中心で、ゼノンは静かに佇んでいた。彼の視線は、もはや床に転がる壊れた道具にはない。
彼の昏い瞳は、新たに出現した敵――抑聖騎士団七番隊を、冷たく静かに睨みつけていた。