祝福に刻む爪痕   作:七曲七竈

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7.出立

 娘が階下へ戻ってくると、真っ先に駆け寄ってきたのは父親である亭主だった。

 

「だ、大丈夫だったか!?何もされなかったか?恐ろしい思いはしなかったか!?」

 

 矢継ぎ早に投げかけられる心配の言葉に、娘はただ静かに首を振った。

 

「大丈夫、なんでもなかったよ」

 

 その落ち着いた声と、妙にすっきりとした表情に、亭主はかえって戸惑いを隠せない。彼女の瞳には、昨夜までの恐怖の色はもうどこにもなかった。

 娘は、そんな父親の心配を「大丈夫だから」と適当にあしらうと、床に転がったままになっていた銀貨を一枚一枚、丁寧に拾い上げた。そのうちの一枚をカウンターの上に置くと、残りをしっかりと握りしめる。

 

「父さん、みんなもお腹すいたでしょ。昨日は大変だったんだから、今日は私が何か作るよ」

 

 そう言うと、彼女は真っ直ぐに厨房へと向かっていった。残された亭主と村人たちは、顔を見合わせるばかりだ。あの死線を間近で見た少女が、なぜこれほどまでに気丈でいられるのか。彼女の中で一体何が変わったのか、誰にも理解できなかった。

 やがて厨房から、パンの焼ける香ばしい匂いと、スープの温かい湯気が立ち上り始める。その日常的な匂いは、宿屋にこびりついた血と恐怖の記憶を、少しずつではあるが洗い流していくようだった。娘に促され、村人たちは困惑しながらも後片付けを再開し、振る舞われた食事に口をつけた。

 皆で黙々と作業を続けるうちに、強張っていた空気は徐々に和らぎ、窓から差し込む陽の光が、すっかり朝の色をしていた。

 

 その、時だった。

 ギシリ、と。忘れていた階段の音が、再び宿屋に響き渡った。

 水を打ったように静まり返る。全ての動きが止まり、全ての視線が、音のする方へと吸い寄せられた。そこには、身支度を完全に整えたゼノンの姿があった。きちんと掛けられていた外套を再びその身にまとい、腰にはあの何の変哲もない直剣。まるで、初めからこの宿屋に泊まることだけが目的だった旅人のように、その佇まいは淡々としていた。

 彼は、集まった村人たちの視線などまるで存在しないかのように、その一切を気にすることなく階段を降りてきた。恐怖も、敵意も、感謝も、困惑も、彼の周りだけは真空であるかのように、何の影響も与えない。

 ゼノンはまっすぐにカウンターへと向かうと、カチャン、と乾いた音を立てて部屋の鍵を置いた。それが、彼にとってのチェックアウトの合図だった。

 そして、踵を返し、出口へ。

 誰も、声をかけられなかった。引き止める者も、詰る者もいない。ただ、過ぎ去っていく災厄を前にしたかのような、息を殺した沈黙だけがそこにあった。

 

 ゼノンが、重い扉に手をかけた。その背中が、外の眩い光の中へと消えようとした、その瞬間。

 

「ありがとう!」

 

 凛とした、どこまでも真っ直ぐな声が再び彼を呼び止めた。

 宿屋の娘だった。彼女はただ一人、彼を真っ直ぐに見つめて、そう言ったのだ。それは昨夜の場違いな一言とは違う。心からの、純粋な感謝の言葉だった。

 ゼノンの動きが、ほんのわずかな間だけ止まった。

 ピタリと。まるで時が止まったかのように。一秒にも満たない、ごく僅かな静寂。

 けれど、彼は振り返らなかった。

 何かを答えることもしなかった。

 ただ、止まっていた足を再び動かし、扉を開け、そのまま外の世界へと歩み去っていった。

 残された者たちに背を向けたまま、一度も振り返ることなく。

 

 村人たちが安堵のため息を漏らす中、娘だけはその場から一歩も動かずに、ゼノンが歩き去った道をじっと見つめていた。彼の背中が村の通りをまっすぐに進み、やがて角を曲がって、完全に見えなくなるまで。

 彼女は、ずっと、ずっとその姿を見送っていた。陽の光が、彼が残していった空っぽの道を、どこまでも真っ直ぐに照らしている。

 雪を削る爪痕をその身に刻んだ、異端の勇者。恐怖と憎悪を纏いながら、どこか奇妙な人間味を垣間見せた、妙なヤツ。

 彼の旅がどこへ続くのか、彼女には知る由もない。だが、この出会いが、自分の中で何かを確かに変えたことだけは、はっきりと分かっていた。

 

――暴虐に曝された宿屋に柔らかな光が満ちる、静かな朝だった。

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