ウマ娘プリティーダービー 《Red Resurrection》 作:矢面
日本ウマ娘トレーニングセンター学園──通称、トレセン学園。
獣のごとき耳と尾を持ち、常人の限界を超える脚力を宿した少女たちだけが、その門を叩くことを許される。
全国に散らばる学園群の中でも、頂点に君臨するのが「中央」とよばれる学舎の存在。選ばれし者のみが辿り着ける、最も高く険しい場所。
「編入の多忙な時期に、急に呼び出す形になってしまいすまないな」
時刻は午後二時。学園は春休みの静けさに沈み、廊下を渡る風の音さえ遠く、古時計の秒針が規則正しく響く。
その静謐を断つ声の主──焦げ茶色の鹿毛の長髪に、三日月を切り取ったような白のメッシュ。指先でそれを払い、部屋の主たる少女は、来客用ソファに腰掛けるもうひとりの少女を見据えた。
「気にしていません」
短く、しかし鋭く返したのは、赤毛の少女。ゆるく波打つ髪の間から覗く瞳は、磨き抜かれた大理石のように冷たく澄み、向けられた視線を真正面から受け止める。
「一度、お会いしたいと思っていましたから」
年齢に似合わぬ落ち着き。臆する色もなければ、媚びもない。芯が通り過ぎたその姿は、既に風格すらあった。
「それは良かった。高等部への編入手続きは煩雑でね、担当教員の方々も慌ただしい日々を送っている。それでも──君のような逸材を迎えられるのは学園としても喜ばしいことだ」
手元の資料には、赤毛の少女の中央トレセン、高等部一年への入学許可と共に、編入試験での成績が詳細に記されていた。
筆記試験を始め、模擬走のタイム、持久力測定、瞬発筋力試験、戦略理解力──そのすべてにおいて、編入試験ではトップの数値だった。
「おっと、先走り過ぎたな。まずは自己紹介からだろう」
「──"皇帝"と呼ばれる貴女に、必要ですか? シンボリルドルフ先輩」
赤毛の少女はその鋭い瞳を向ける。畏れも媚びもないその視線は、凡そ初対面の者に向けるにはあまりにも挑発的で剣呑なるもの。敵意に似た硬質な光さえ宿っていた。まるでレース前に放たれる、研ぎ澄まされた挑戦の視線。
「なるほど。憧憬ではなく、闘志を胸に来たというわけか」
シンボリルドルフは静かに笑った。月影を思わせる白のメッシュが揺れ、その表情は柔らかくも、眼光は鋭さを増していた。
「質問に答えよう。無論、必要だとも」
しかしルドルフの声は落ち着ききっていた。だがその奥には鋼の芯を思わせる意思が潜み、言葉を噛み締めるたびに、空気を重くする。
「名も知らぬ者同士が肩を並べ、同じ道を目指すのならば、まずは己を明かさなければならない。レースも、人生も、その根は同じだ。有り体に言えば、礼儀だ」
赤毛の少女は僅かに眉を動かし、その目の奥で光が揺れた。挑発が効かない相手に対して、次の一手を探る棋士のように沈黙する。
窓の外では春の陽が傾き始め、射し込む光が二人の輪郭を鋭く切り取る。鹿毛の少女のメッシュが、その光を受けて淡く輝く。
「さて──私はシンボリルドルフ。中央トレセン学園生徒会長を務めている。そして──そうだとも、皆からは"皇帝"と呼ばれている」
彼女は胸に手を当て、視線を逸らさず名乗った。自己紹介というには簡潔すぎるが、その名は、この世界に生きるものであれば、説明以上の意味を持つ。
「さて、次は君の番だ。名を教えてくれないか?」
既に知ったことだろうに、不服といった様子を隠すつもりもなく、赤毛の少女は告げた。
「……レッドガーベラ」
皇帝──シンボリルドルフは、ゆるやかに椅子の背もたれへ凭れた。メッシュが陽光を拾い、額の動きに合わせて輝く。
「よい名だ。咲く時を選ばぬ、強き花。まさしく君の生き様を映す名だろう」
ルドルフの言葉に、レッドガーベラの目が僅かに細められる。まるで己の忌み嫌うものに触るように、その視線は虚ろだった。
「……花の名に込められた意味など、走りの前では些末なことでしょう。それに、私の経歴を知っているなら、それは皮肉としか思えませんが」
レッドガーベラは冷ややかに返す。その声音に棘はあったが、同時に己の名を誇る響きも隠しきれてはいなかった。
「皮肉と受け取るか。ならば謝罪しよう。だが私は真実を言ったに過ぎない。その花弁が、いかなる風に晒され、また立ち上がったのか」
ルドルフはただ真っ直ぐにレッドガーベラを見つめる。刀の刃先に指を添えてみせるような、静かなる緊張を孕んだものだが、同時にある種の敬意と興味も込められていた。
「……詮索は不要です。私はただ、夢のためにここにいるだけ。過去のことは関係ない」
「夢、か。ここに辿り着いたその覚悟は、並ではないようだ」
ルドルフは指先で顎を支え、視線を外さない。
春休みの陽光に浮かぶ塵が、ふたりの間を緩やかに舞い落ちる。赤毛の少女の眼差しは、嵐の前触れのように硬質で、触れればたちまち火花を散らしそうな気配を纏う。
「君がどのような道を歩んできたかは、いずれ学園の者なら誰もが耳にするだろう。だが私は、ここでひとつだけ確認しておきたい。君を呼んだ理由でもある」
ルドルフは深く椅子に腰を沈め、威圧ではなく純粋な問いを放つ。
「君がここに立つ根源。夢など、ここにいる者は誰もが持つ。肝心なことは、己が夢をどう言葉にするか──その覚悟を私は知りたい」
「……まるで取り調べですね」
「性分でね。答えにくければ流して構わない」
レッドガーベラは、しばし沈黙した。唇を閉じ、視線をわずかに落とし、白い指が膝の上をなぞる。その仕草は一瞬だけ、鋭利な刃にひびが走るような脆さを滲ませる。
だが、次の瞬間には燃え上がる紅蓮の炎のように瞳が再び上がり、ルドルフを射抜いた。
「簡単な話です」
咲き誇る花が如く、レッドガーベラの視線はルドルフへと注がれる。
「最強」
その一言は、炎が薪を呑み込むように部屋の空気を揺らした。
静けさを覆っていた古時計の刻む音が、まるで遠くへ追いやられたかのように霞んでゆく。
シンボリルドルフはその答えを受け止めるように、片眉をわずかに上げた。
「最強、か……」
低く、しかし確かな響きを持った声。まるで石を水面に落としたときの波紋のように、その言葉は部屋に広がる。
「君はまだ──」
ルドルフはそこで言葉を切り、赤毛の少女を見据える。
その眼差しは威圧ではなく、選別。まるで光を放つ刃が、真に切り裂くに足るかどうかを試すような。
「──であるなら、その炎を消すことは誰にもできまい」
短くそう告げると、椅子の背に凭れたまま目を閉じる。
「皇帝──あなたが最強に最も近い存在であることは承知しています」
声は研ぎ澄まされた刃のように冷たいが、確かな熱を宿していた。
「それでも私は、そこに至る。誰よりも、何よりも速く」
ルドルフは静かに目を開いた。
その双眸に映るのは、決して怯まぬ紅蓮の花。
「ふっ……いいだろう。ならば、この中央という頂で示してみせるといい」
口元にかすかな笑みを刻む。
「花は土を選べない。だが咲き誇るか否かは、その花次第だ」
二人の間を春の光が切り裂くように差し込んだ。
挑戦と承認。
嵐の前の空気のように張り詰めた緊張が、確かにそこにあった。
ルドルフは心の内で笑う。無名にも等しい者が、皇帝と呼ばれる己に敵意さえむける。
ルドルフの胸中には、微かに熱が宿った。
無名に等しい赤毛の少女が、怯むことなく己を真っ直ぐに射抜き、そして「最強」と言い切った。
かつて数多の挑戦者たちが皇帝に向けて牙を剥き、いずれも敗れ去った記憶が彼女の背後に積み重なっている。だが、この目の前の紅の花は、それらと同じ色をしていなかった。
「──楽しみにしている」
その声は、春の陽に照らされる氷の刃のように澄み、しかし確かに熱を帯びていた。
レッドガーベラは黙したまま立ち上がり、一礼すると、ルドルフへ背を向ける。
その歩みは一分の淀みもなく、閉ざされた扉へと向かう。
踵が床を打つたび、硬質な決意が部屋の空気に刻まれていった。
ドアノブに手をかける瞬間、彼女は振り返らなかった。
言葉も残さず、ただ己の背中だけで語った。
「追い越してみせる」──そう響かせるような強靭な意志。
扉が閉じた後も、部屋には確かな残響があった。
古時計の針が、再び規則的に時を刻み始める。
ルドルフは椅子に凭れたまま、目を閉じる。
「乾坤一擲……だろうか。これはまた、久方振りの感覚だな」
小さく洩らした呟きは、誰にも聞かれぬまま空気に溶けていった。
春の光はなお鋭く差し込み、部屋の輪郭を鮮やかに切り取っている。
叩きつけられた挑戦状。
中央という頂で、確かに新たな嵐が芽吹こうとしていた。