ウマ娘プリティーダービー 《Red Resurrection》 作:矢面
シンボリルドルフへの挑戦状を叩きつけたその日、レッドガーベラは学園前の通りを挟んだ巨大な建築物の前に立っていた。見上げてもなお全貌は掴めない。圧倒的な質量感を持つその建物は、ただそこに在るだけで気品と荘厳を放っていた。
中央の学生たちの多くにとって、実家に次ぐ第二の家──学生寮である。二千人を抱え込むその巨躯を見上げながら、レッドガーベラは指定された「栗東寮」の玄関口へと足を向ける。視界の端に見えた向かいには"美浦寮"の文字が掲げられ、建物は二つに分かれているようだった。
学園内と同じく、ここも人影は少ない。すれ違うウマ娘たちは一瞥を投げかけるが、それだけだ。二千人もの在校生を抱える中央にあって、見知らぬ顔など珍しくもない。制服姿は決して目を引かない。編入生だと気づく者すらいない。彼女らの視線は、興味を掠めてはすぐ別のものに移っていった。
春の陽気に包まれた広い玄関口は、学生寮というよりもむしろ静謐な邸宅のように閑散としていた。数えるほどの生徒を横目に、レッドガーベラはポケットからスマホを取り出す。画面に走る数字──午後三時五十五分。
肩がけの鞄を、背負いなおす。指定よりもわずかに早い到着。
「……ん」
画面に新たな通知が浮かぶ。送り主はレッドガーベラが個別に名前変更した"兄"の文字。
"学校ついたか?"
タップ。タップ。
指先は滑らかに画面を撫でる。慣れた手つきで返信を打ち込む。
"着いてるよ。兄さんも、トレセンにいる?"
ほんの一瞬、視線が周囲を探しかけて、すぐに止まった。学生寮の敷地に入れるはずもない。
"まだ。渋滞中"
返ってきた文字には、奇妙なキャラクターの絵文字が添えられていた。兄らしからぬ軽さ。思わず目を細める。
"そうなんだ。気をつけて"
"もちろん"
間髪入れず、さらに新しい通知。
"あと、入学おめでとう。少し早いけど"
その一文に、レッドガーベラの唇がほころぶ。編入を告げてから幾度となく耳にした言葉。家族からも、友人からも、教師からも。だが、なぜかこの瞬間だけは胸に沁みた。
次の瞬間、彼女は気づく。震えていた。手が、小刻みに、明確に。“皇帝”の前でさえ揺るがなかった己の態度が、今は崩れている。これは恐怖か、それとも──過去の影か。
やめろ、と自らに言い聞かせる。過去へ沈むのではない。支えてくれたすべてに、今はただ感謝を。
レッドガーベラは深く息を吐き、画面を叩いた。
"ありがと。頑張ります"
スタンプも、添えてみる。
「──レッドガーベラさん、ですね?」
スタンプを送った余韻が指先に残っているところに、不意の声。
レッドガーベラはスマホを胸元に下ろしながら、僅かに身構えて振り返った。
そこに立っていたのは、緑を基調とした端正なスーツに身を包んだ女性。年の頃は二十代後半だろうか、落ち着いた物腰に蹄鉄のロゴが刺繍された帽子がよく映えている。あまりに整った笑みは、見る者に柔らかな安心感を抱かせる。
トレセン学園の職員であることは、ひと目で見て取れた。
「はい。ここに来るようにと」
「はい、承っております。お待たせしましたか
?」
「いえ、今着いたところです」
「それは安心しました」
女性はにこやかに頷き、胸元から一枚の名刺を取り出す。その仕草に淀みはなく、まるで幾度も同じ手順を踏んできたかのように洗練されていた。
「私、トレセン学園の理事長秘書を務めております。駿川たづな、と申します。本日からのご入寮、そしてご編入、おめでとうございます」
丁寧に差し出された名刺が、春の陽光を反射してかすかに光った。
「ご丁寧に」
レッドガーベラは受け取りながら、自然と背筋が伸びる。
「学園生活で不安なことや分からないことがあれば、どうぞ遠慮なくお尋ねくださいね」
「……理事長秘書の方が、ここまで対応してくださるなんて。恐縮です」
「ふふ、気にしないでください。編入生は本当に稀ですから。私自身、とても興味深く思っているんですよ」
たづなはにこやかなまま小さく頷き、周囲に視線を走らせる。
閑散とした玄関口。遠巻きに見ている生徒たち。
「今は長期休暇中で静かですが、知っての通り、ここには全国から集まったウマ娘が暮らしています。いつもは騒がしくも、楽しい場所です。きっと気に入ると思いますよ」
手で先導するように軽く歩き出す。革靴の音が石畳を一定のリズムで叩く。
レッドガーベラも一拍遅れて後に続いた。
たづなの歩みは迷いなく、堂々と玄関ホールを抜けていく。磨き込まれた床に靴音が反射し、静かな空間へ響いた。
「ここまで来るの、大変だったでしょう? 長い移動はやっぱり疲れますよね」
「まぁ、少しは」
スマホをポケットに入れ、彼女の背を追う。
「電車で来られたんですか?」
「はい。それとバスです。特に変わったこともなく」
「そうですか。途中で何か美味しいものでも召し上がりました?」
「別に。パンと水で十分です」
「ふふ、質素なんですね。学園の学食は評判がいいので、きっと驚かれると思いますよ」
「そうだと、嬉しいです」
並ぶ観葉植物、整然と置かれたソファ。ここが二千人の学生を抱える寮であることを一瞬忘れさせるほど、端正な雰囲気に満ちていた。
やがて、たづなが窓口で立ち止まる。窓口から受け取った小さな封筒。それを手渡される。
「さて。こちらが、レッドガーベラさんにお渡しするお部屋の鍵です」
封を切ると、中から光沢を帯びた真鍮の鍵が姿を現す。寮名と部屋番号が刻まれた、規則正しい文字が真新しい。
「栗東寮、東棟の五階の五一二号室があなたのお部屋になります。本来なら相部屋なのですが、準備が追いつかず……。一人部屋になります。ごめんなさいね」
「いえ、平気です。寧ろ部屋が広いようで安心しました」
鍵の冷たさが掌に落ちた瞬間、レッドガーベラの胸の奥に、緊張と共にわずかな実感が走る。
ここが、これからの日々を過ごす場所。
たづなはレッドガーベラの返答に「ふふ」と柔らかく笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「そう言っていただけると助かります。であれば当面は、気兼ねなく過ごせるはずですよ」
歩を進めながら、彼女はさらりと補足を加える。
「ちなみに私物は三日ほど前に搬入済みです。ご家族からお預かりした荷物と、学園側がご用意した最低限の生活用品──寝具や机、制服の替え、衛生用品。それから教科書。今日からすぐにでも生活を始められますよ。始業まで残り二日ですが、ゆっくりされてくださいね」
たづなは一呼吸置き、窓の外に視線を滑らせる。校舎越しに沈みかけた陽光が差し込み、床に長い影を落としていた。その橙の光を受けて彼女は言葉を紡ぐ。
「よろしければ、学園内も案内しましょうか?慣れないことも多いでしょうし、よろしければ、ですが」
「いえ、お気持ちだけ。痛み入ります」
ホールの吹き抜けを渡る風が、微かに花の香りを運んできた。たづなは少し残念そうな顔をしながら、また人好きにする笑みを浮かべた。
「かしこまりました。それではここからは、もうご自身で大丈夫でしょう。寮の構造は少し複雑ですが、案内板を見れば迷うことはありません。困ったことがあれば、寮母さんや寮長に相談してみてくださいね」
彼女はそう言いながら、胸の前で軽く手を合わせて笑みを浮かべる。
まるで「ここからが本当のスタートです」と告げるように。
「改めて。ご入寮、そしてご編入おめでとうございます。トレセン学園での日々が、レッドガーベラさんにとって実り多きものになりますように」
彼女は深く一礼して、「それでは」と再び柔らかな微笑を残すと、軽く手を振る。たづなは玄関口へと歩いていった。
扉が開き、春の陽光の中へ彼女の姿が溶けていく。
残されたのは、静かなエントランスと、手の中にある一つの鍵。
五階、五一二号室。
彼女は踵を返し、重い荷物もないまま、ゆっくりと階段へと歩み出した。
階段の踊り場は大きな窓から光が差し込み、埃ひとつない空気が白く澄んでいる。
足を掛けるたびに、石造りの段が低く軋むような音を返した。
静かだ。あまりに静かで、レッドガーベラの足音だけが、やけに響いていた。
五階までは決して短くない。だが、荷物がない分、歩みは軽い。
壁には規則正しく掲示板や額縁が並び、歴代の寮生の写真や、行事の記録らしきものが飾られている。
ちらりと視線を向けても、そこに知った顔があるはずもない。ただ、中央に刻まれてきた年月が並ぶ。
階段を上がるごとに、廊下からの気配が近づく。
遠くで扉の閉まる音、笑い声、そして誰かの駆け抜ける軽いリズム。
踊り場に差しかかり、レッドガーベラは一度だけ立ち止まる。鍵を取り出し、掌で確かめる。
「……五一二。五一二……」
小さく呟き、再び歩き出す。
踏みしめては上がり、また踏みしめる。その単調な繰り返しも、今や終わりに近い。
やがて視界に広がる五階の廊下。
静まり返った空間に、彼女の足音だけが乾いた響きを残す。
壁際のプレートに並ぶ数字を追いながら歩いていく。五〇七、五〇八……。
そして──五一二。
銀色のプレートを見据えたまま、レッドガーベラは鍵を取り出し、差し込もうとした。
だが。
感触が、ない。
鍵穴はすでに解錠されていた。
眉を寄せ、ほんの一瞬だけ躊躇う。学園の寮で鍵が開いているなど、本来あり得ないはずだ。
静かにノブを握り、力を込めて回す。
きい、と音を立てて扉が開いた。
途端に鼻を突く、独特の匂い。
「酷い臭い……」
薬品と鉄と、焦げたような匂いが入り混じった、生活の温もりとはまるで無縁の空気。
視界に飛び込んできたのは、所狭しと並べられたガラス器具や配線。机の上には液体の入ったフラスコが泡立ち、ノートには密集した数式や図解が走り書きされている。
──人がいる。
白衣を羽織った影が机に向かって身を乗り出し、片手で小瓶を振りながら何事かを呟いていた。
背中越しにも伝わる熱のこもった集中力。
まるでこの部屋が自分の研究室であるかのように、当然の顔でそこに居座っている。
ここは、自分に割り当てられた部屋のはず──。
だが目の前に広がる光景は、明らかに誰かの“根城”だった。
「ん〜?おやぁ〜?」
奇妙に伸びる声が空気を裂いた。
白衣の背中がゆっくりとこちらを向く。
薄い色の瞳がきらりと光を反射し、研究器具を持つ指先は楽しげに揺れていた。
「なるほどなるほど、ノックも挨拶もなしに、随分と無邪気だねぇ。あるいは……私の研究への志願者かな?」
視線は真っ直ぐにレッドガーベラを射抜く。
好奇心と興奮を入り混ぜた色合いで、まるで珍しい試料を観察するかのように。
「あなた、誰」
「私?」
アグネスタキオンは小瓶を指先でくるくると回し、液面に浮かぶ泡をわざと弾けさせる。
「ふふ、自己紹介が必要かな?アグネスタキオン──それが私の名だよ。で、そっちは何者だい?反応を見るに、モルモット志願者ではないようだね」
レッドガーベラは眉をひそめながら、扉のふちにもたれ掛かる。
漂う薬品臭が鼻を突き、肌にじりじりと刺さるような感覚が広がる。
「……私は、この部屋を割り当てられた寮生」
「ふぅン?」
タキオンは身を乗り出し、頬杖をつく。
瞳がきらきらと揺れ、まるで未知の化学反応を待ち望む子供のように笑みを浮かべる。
「であれば君が、アレかい?噂の編入生クンかい?名前は確か、レッドガーベラ、だったかな?それは面白い。しかし困ったね。ここは“空き部屋”のはずだったのに」
レッドガーベラは低く吐き出すように言い、腕を組んだ。部屋の端を見やれば、レッドガーベラの私物の段ボールが追いやられている。
「ならもう空き部屋じゃない。荷物まとめて出てってくれない?」
レッドガーベラの声には、困惑と呆れが入り混じっていた。
だがタキオンは、追い出されるどころか、むしろ楽しそうに白衣の裾をぱたぱたと揺らした。
「いやぁ〜それは困るなぁ。だってほら、私、この部屋じゃないとダメなんだよ」
「なんで」
「湿度、温度、それと利便性。すべてが絶妙な環境なんだ。ここ以外だと、これら薬品は三秒で爆発するかもしれない!」
タキオンは大真面目な顔で宣言し、机のフラスコを指差す。泡がぼこぼこと湧き出し、まるで「賛成」と言わんばかりに弾ける。
「爆発するって……」
レッドガーベラは目を細める。
「なら余計に危ないでしょ。早く出て行ってよ」
「ふふふ、怖いのかい?爆発が?それとも私が?」
「どっちもよ」
レッドガーベラは更に言葉を紡ぐ。
「そういうのは自室でやってよ。実験だか爆発だか知らないけど、中央ならあるでしょ。そういう施設」
「自室う?」タキオンは鼻で笑うように息を漏らし、指先で小瓶を弄んだ。瓶の中で泡がはじけ、微かに青白い光を散らす。
「同居人に迷惑がかかるだろう。学園の施設は悪くないが、一瞬で監査に引っかかる。追い出されるのは火を見るより明らかさ。そんなこと、考えればすぐわかるだろう?」
「……なら私の迷惑も考えてほしいんだけど?」
レッドガーベラの声音は低く、突き放すような硬質さを帯びていた。
その言葉は鋭い刃となって、薬品臭の漂う空気を切り裂く。
だが、タキオンは怯むどころか、むしろ楽しげに笑った。白衣の袖口を、またもひらひら揺らし、机の縁に腰を掛ける。
「迷惑?ふぅン……面白いことを言う。科学の進歩は常に誰かの迷惑の上に成り立ってきたものだ」
「……歴史の話なんて聞いてないんだけど」
「しかし事実だとも。電球が生まれた時、明かりを灯すために何百人が感電したか知ってるかい? 飛行機が飛ぶようになるまで、どれだけの試作機が墜ちて火を噴いたか? 君が今こうして“トレセン”に通えているのだって、数え切れない迷惑と犠牲が積み上がったお陰なのだよ」
タキオンは手にした小瓶を傾け、青白い液体を光に透かした。
泡がひとつ、はじけるたびに微かな火花が散る。
「つまり──君にかけた迷惑も、今まさに科学史の一ページに刻まれるんだ。なんて栄誉あることだろう!」
「……はぁ?」
レッドガーベラは額に手を当て、深く息を吐いた。
「あの……理由捏ねるのやめて。頭が痛くなる。私を巻き込むなって言ってるの。簡単でしょ」
「化学反応ってのは、触れた瞬間から始まるものだよ。つまり、私にはどうしようもないものなのだよ」
話が通じているようでかみ合っていない。
レッドガーベラは額を押さえたまま、重苦しい吐息を漏らした。頭蓋の奥をぐいぐい叩かれるような感覚が、アグネスタキオンの言葉と共に増幅していく。
理由にならない理由を並べ立て、詭弁を詩のように操るその女は、対話をしているはずなのに会話のレールを外れ、勝手に自分の世界の上を走っていく。
「話にならない……。こんなとこにいたら、私の私物も調べられかねない」
するとタキオンは頬杖を解き、椅子を回転させて立ち上がった。きらめく瞳は、完全に獲物を観察する研究者のものだった。
「言っておくが、君の“段ボール”ももう調べさせてもらったよ」
「……はぁ!? ちょっ、ありえないんだけど⁉」
視線を改めて段ボールに走らせると、ガムテープが一部剥がされ、覗くように計測器の端子が突っ込まれている。
「謝罪はするとも。だが未解明なものは気になる質でね。まさか誰かの私物だとは思わなかったけれど。衣服の繊維強度、平均よりも低いよういだね。柔軟性を意識しているのかな?あと、君が持ってきた本……ページに付着してた汗の成分から推定すると、なかなかストレスに強いタイプだろう」
レッドガーベラは頬をひきつらせ、段ボールに駆け寄る。
「ちょ、勝手に触らないで!」
「もう触っている、安心したまえ!それに記録はすべて私の頭の中にある。だから証拠は残らない!」
「安心できるライン超えてんだけど!?」
レッドガーベラの悲鳴にも似た抗議をよそに、タキオンは研究室の中央で独楽のようにくるくると回り続けた。白衣の裾が広がり、薬品臭と紙束の埃を巻き上げ、部屋の空気をさらにカオスへと導いていく。
ガーベラは段ボールを抱きかかえ、必死に自分の持ち物を守ろうとした。だが背後でタキオンは「証拠は残らない!」と再び高らかに宣言し、何もかもを研究対象に変えてしまう危うさを、これ以上なく全身で体現していた。