ウマ娘プリティーダービー 《Red Resurrection》   作:矢面

3 / 5
02.波乱の幕開け

 シンボリルドルフへの挑戦状を叩きつけたその日、レッドガーベラは学園前の通りを挟んだ巨大な建築物の前に立っていた。見上げてもなお全貌は掴めない。圧倒的な質量感を持つその建物は、ただそこに在るだけで気品と荘厳を放っていた。

 中央の学生たちの多くにとって、実家に次ぐ第二の家──学生寮である。二千人を抱え込むその巨躯を見上げながら、レッドガーベラは指定された「栗東寮」の玄関口へと足を向ける。視界の端に見えた向かいには"美浦寮"の文字が掲げられ、建物は二つに分かれているようだった。

 

 学園内と同じく、ここも人影は少ない。すれ違うウマ娘たちは一瞥を投げかけるが、それだけだ。二千人もの在校生を抱える中央にあって、見知らぬ顔など珍しくもない。制服姿は決して目を引かない。編入生だと気づく者すらいない。彼女らの視線は、興味を掠めてはすぐ別のものに移っていった。

 春の陽気に包まれた広い玄関口は、学生寮というよりもむしろ静謐な邸宅のように閑散としていた。数えるほどの生徒を横目に、レッドガーベラはポケットからスマホを取り出す。画面に走る数字──午後三時五十五分。

 肩がけの鞄を、背負いなおす。指定よりもわずかに早い到着。

 

「……ん」

 

 画面に新たな通知が浮かぶ。送り主はレッドガーベラが個別に名前変更した"兄"の文字。

 

 "学校ついたか?"

 

 タップ。タップ。

 指先は滑らかに画面を撫でる。慣れた手つきで返信を打ち込む。

 

 "着いてるよ。兄さんも、トレセンにいる?"

 

 ほんの一瞬、視線が周囲を探しかけて、すぐに止まった。学生寮の敷地に入れるはずもない。

 

 "まだ。渋滞中"

 

 返ってきた文字には、奇妙なキャラクターの絵文字が添えられていた。兄らしからぬ軽さ。思わず目を細める。

 

 "そうなんだ。気をつけて"

 "もちろん"

 

 間髪入れず、さらに新しい通知。

 

 "あと、入学おめでとう。少し早いけど"

 

 その一文に、レッドガーベラの唇がほころぶ。編入を告げてから幾度となく耳にした言葉。家族からも、友人からも、教師からも。だが、なぜかこの瞬間だけは胸に沁みた。

 次の瞬間、彼女は気づく。震えていた。手が、小刻みに、明確に。“皇帝”の前でさえ揺るがなかった己の態度が、今は崩れている。これは恐怖か、それとも──過去の影か。

 やめろ、と自らに言い聞かせる。過去へ沈むのではない。支えてくれたすべてに、今はただ感謝を。

 レッドガーベラは深く息を吐き、画面を叩いた。

 

 "ありがと。頑張ります"

 

 スタンプも、添えてみる。

 

「──レッドガーベラさん、ですね?」

 

 スタンプを送った余韻が指先に残っているところに、不意の声。

 レッドガーベラはスマホを胸元に下ろしながら、僅かに身構えて振り返った。

 そこに立っていたのは、緑を基調とした端正なスーツに身を包んだ女性。年の頃は二十代後半だろうか、落ち着いた物腰に蹄鉄のロゴが刺繍された帽子がよく映えている。あまりに整った笑みは、見る者に柔らかな安心感を抱かせる。

トレセン学園の職員であることは、ひと目で見て取れた。

 

「はい。ここに来るようにと」

「はい、承っております。お待たせしましたか

?」

「いえ、今着いたところです」

「それは安心しました」

 

 女性はにこやかに頷き、胸元から一枚の名刺を取り出す。その仕草に淀みはなく、まるで幾度も同じ手順を踏んできたかのように洗練されていた。

 

「私、トレセン学園の理事長秘書を務めております。駿川たづな、と申します。本日からのご入寮、そしてご編入、おめでとうございます」

 丁寧に差し出された名刺が、春の陽光を反射してかすかに光った。

 

「ご丁寧に」

 

 レッドガーベラは受け取りながら、自然と背筋が伸びる。

 

「学園生活で不安なことや分からないことがあれば、どうぞ遠慮なくお尋ねくださいね」

「……理事長秘書の方が、ここまで対応してくださるなんて。恐縮です」

「ふふ、気にしないでください。編入生は本当に稀ですから。私自身、とても興味深く思っているんですよ」

 

 たづなはにこやかなまま小さく頷き、周囲に視線を走らせる。

 閑散とした玄関口。遠巻きに見ている生徒たち。

 

「今は長期休暇中で静かですが、知っての通り、ここには全国から集まったウマ娘が暮らしています。いつもは騒がしくも、楽しい場所です。きっと気に入ると思いますよ」

 

 手で先導するように軽く歩き出す。革靴の音が石畳を一定のリズムで叩く。

 レッドガーベラも一拍遅れて後に続いた。

 たづなの歩みは迷いなく、堂々と玄関ホールを抜けていく。磨き込まれた床に靴音が反射し、静かな空間へ響いた。

 

「ここまで来るの、大変だったでしょう? 長い移動はやっぱり疲れますよね」

「まぁ、少しは」

 

スマホをポケットに入れ、彼女の背を追う。

 

「電車で来られたんですか?」

「はい。それとバスです。特に変わったこともなく」

「そうですか。途中で何か美味しいものでも召し上がりました?」

「別に。パンと水で十分です」

「ふふ、質素なんですね。学園の学食は評判がいいので、きっと驚かれると思いますよ」

「そうだと、嬉しいです」

 

 並ぶ観葉植物、整然と置かれたソファ。ここが二千人の学生を抱える寮であることを一瞬忘れさせるほど、端正な雰囲気に満ちていた。

 やがて、たづなが窓口で立ち止まる。窓口から受け取った小さな封筒。それを手渡される。

 

「さて。こちらが、レッドガーベラさんにお渡しするお部屋の鍵です」

 

 封を切ると、中から光沢を帯びた真鍮の鍵が姿を現す。寮名と部屋番号が刻まれた、規則正しい文字が真新しい。

 

「栗東寮、東棟の五階の五一二号室があなたのお部屋になります。本来なら相部屋なのですが、準備が追いつかず……。一人部屋になります。ごめんなさいね」

「いえ、平気です。寧ろ部屋が広いようで安心しました」

 

 鍵の冷たさが掌に落ちた瞬間、レッドガーベラの胸の奥に、緊張と共にわずかな実感が走る。

 ここが、これからの日々を過ごす場所。

 たづなはレッドガーベラの返答に「ふふ」と柔らかく笑みを浮かべ、小さく頷いた。

 

「そう言っていただけると助かります。であれば当面は、気兼ねなく過ごせるはずですよ」

 

 歩を進めながら、彼女はさらりと補足を加える。

 

「ちなみに私物は三日ほど前に搬入済みです。ご家族からお預かりした荷物と、学園側がご用意した最低限の生活用品──寝具や机、制服の替え、衛生用品。それから教科書。今日からすぐにでも生活を始められますよ。始業まで残り二日ですが、ゆっくりされてくださいね」

 

たづなは一呼吸置き、窓の外に視線を滑らせる。校舎越しに沈みかけた陽光が差し込み、床に長い影を落としていた。その橙の光を受けて彼女は言葉を紡ぐ。

 

「よろしければ、学園内も案内しましょうか?慣れないことも多いでしょうし、よろしければ、ですが」

「いえ、お気持ちだけ。痛み入ります」

 

 ホールの吹き抜けを渡る風が、微かに花の香りを運んできた。たづなは少し残念そうな顔をしながら、また人好きにする笑みを浮かべた。

 

「かしこまりました。それではここからは、もうご自身で大丈夫でしょう。寮の構造は少し複雑ですが、案内板を見れば迷うことはありません。困ったことがあれば、寮母さんや寮長に相談してみてくださいね」

 

 彼女はそう言いながら、胸の前で軽く手を合わせて笑みを浮かべる。

 まるで「ここからが本当のスタートです」と告げるように。

 

「改めて。ご入寮、そしてご編入おめでとうございます。トレセン学園での日々が、レッドガーベラさんにとって実り多きものになりますように」

 

 彼女は深く一礼して、「それでは」と再び柔らかな微笑を残すと、軽く手を振る。たづなは玄関口へと歩いていった。

 扉が開き、春の陽光の中へ彼女の姿が溶けていく。

 残されたのは、静かなエントランスと、手の中にある一つの鍵。

 五階、五一二号室。

 彼女は踵を返し、重い荷物もないまま、ゆっくりと階段へと歩み出した。

 階段の踊り場は大きな窓から光が差し込み、埃ひとつない空気が白く澄んでいる。

 足を掛けるたびに、石造りの段が低く軋むような音を返した。

 静かだ。あまりに静かで、レッドガーベラの足音だけが、やけに響いていた。

 五階までは決して短くない。だが、荷物がない分、歩みは軽い。

 壁には規則正しく掲示板や額縁が並び、歴代の寮生の写真や、行事の記録らしきものが飾られている。

 ちらりと視線を向けても、そこに知った顔があるはずもない。ただ、中央に刻まれてきた年月が並ぶ。

 階段を上がるごとに、廊下からの気配が近づく。

 遠くで扉の閉まる音、笑い声、そして誰かの駆け抜ける軽いリズム。

 踊り場に差しかかり、レッドガーベラは一度だけ立ち止まる。鍵を取り出し、掌で確かめる。

 

「……五一二。五一二……」

 

 小さく呟き、再び歩き出す。

 踏みしめては上がり、また踏みしめる。その単調な繰り返しも、今や終わりに近い。

 やがて視界に広がる五階の廊下。

 静まり返った空間に、彼女の足音だけが乾いた響きを残す。

 壁際のプレートに並ぶ数字を追いながら歩いていく。五〇七、五〇八……。

 そして──五一二。

 銀色のプレートを見据えたまま、レッドガーベラは鍵を取り出し、差し込もうとした。

 

 だが。

 感触が、ない。

 鍵穴はすでに解錠されていた。

 眉を寄せ、ほんの一瞬だけ躊躇う。学園の寮で鍵が開いているなど、本来あり得ないはずだ。

 静かにノブを握り、力を込めて回す。

 きい、と音を立てて扉が開いた。

 途端に鼻を突く、独特の匂い。

 

「酷い臭い……」

 

 薬品と鉄と、焦げたような匂いが入り混じった、生活の温もりとはまるで無縁の空気。

 視界に飛び込んできたのは、所狭しと並べられたガラス器具や配線。机の上には液体の入ったフラスコが泡立ち、ノートには密集した数式や図解が走り書きされている。

 ──人がいる。

 白衣を羽織った影が机に向かって身を乗り出し、片手で小瓶を振りながら何事かを呟いていた。

 背中越しにも伝わる熱のこもった集中力。

 まるでこの部屋が自分の研究室であるかのように、当然の顔でそこに居座っている。

 ここは、自分に割り当てられた部屋のはず──。

 だが目の前に広がる光景は、明らかに誰かの“根城”だった。

 

「ん〜?おやぁ〜?」

 

 奇妙に伸びる声が空気を裂いた。

 白衣の背中がゆっくりとこちらを向く。

 薄い色の瞳がきらりと光を反射し、研究器具を持つ指先は楽しげに揺れていた。

 

「なるほどなるほど、ノックも挨拶もなしに、随分と無邪気だねぇ。あるいは……私の研究への志願者かな?」

 

 視線は真っ直ぐにレッドガーベラを射抜く。

 好奇心と興奮を入り混ぜた色合いで、まるで珍しい試料を観察するかのように。

 

「あなた、誰」

「私?」

 

 アグネスタキオンは小瓶を指先でくるくると回し、液面に浮かぶ泡をわざと弾けさせる。

 

「ふふ、自己紹介が必要かな?アグネスタキオン──それが私の名だよ。で、そっちは何者だい?反応を見るに、モルモット志願者ではないようだね」

 

 レッドガーベラは眉をひそめながら、扉のふちにもたれ掛かる。

 漂う薬品臭が鼻を突き、肌にじりじりと刺さるような感覚が広がる。

 

「……私は、この部屋を割り当てられた寮生」

「ふぅン?」

 

 タキオンは身を乗り出し、頬杖をつく。

 瞳がきらきらと揺れ、まるで未知の化学反応を待ち望む子供のように笑みを浮かべる。

 

「であれば君が、アレかい?噂の編入生クンかい?名前は確か、レッドガーベラ、だったかな?それは面白い。しかし困ったね。ここは“空き部屋”のはずだったのに」

 

 レッドガーベラは低く吐き出すように言い、腕を組んだ。部屋の端を見やれば、レッドガーベラの私物の段ボールが追いやられている。

 

「ならもう空き部屋じゃない。荷物まとめて出てってくれない?」

 

 レッドガーベラの声には、困惑と呆れが入り混じっていた。

 だがタキオンは、追い出されるどころか、むしろ楽しそうに白衣の裾をぱたぱたと揺らした。

 

「いやぁ〜それは困るなぁ。だってほら、私、この部屋じゃないとダメなんだよ」

「なんで」

「湿度、温度、それと利便性。すべてが絶妙な環境なんだ。ここ以外だと、これら薬品は三秒で爆発するかもしれない!」

 

 タキオンは大真面目な顔で宣言し、机のフラスコを指差す。泡がぼこぼこと湧き出し、まるで「賛成」と言わんばかりに弾ける。

 

「爆発するって……」

 レッドガーベラは目を細める。

「なら余計に危ないでしょ。早く出て行ってよ」

「ふふふ、怖いのかい?爆発が?それとも私が?」

「どっちもよ」

 

 レッドガーベラは更に言葉を紡ぐ。

 

「そういうのは自室でやってよ。実験だか爆発だか知らないけど、中央ならあるでしょ。そういう施設」

「自室う?」タキオンは鼻で笑うように息を漏らし、指先で小瓶を弄んだ。瓶の中で泡がはじけ、微かに青白い光を散らす。

「同居人に迷惑がかかるだろう。学園の施設は悪くないが、一瞬で監査に引っかかる。追い出されるのは火を見るより明らかさ。そんなこと、考えればすぐわかるだろう?」

「……なら私の迷惑も考えてほしいんだけど?」

 

 レッドガーベラの声音は低く、突き放すような硬質さを帯びていた。

 その言葉は鋭い刃となって、薬品臭の漂う空気を切り裂く。

 だが、タキオンは怯むどころか、むしろ楽しげに笑った。白衣の袖口を、またもひらひら揺らし、机の縁に腰を掛ける。

 

「迷惑?ふぅン……面白いことを言う。科学の進歩は常に誰かの迷惑の上に成り立ってきたものだ」

「……歴史の話なんて聞いてないんだけど」

「しかし事実だとも。電球が生まれた時、明かりを灯すために何百人が感電したか知ってるかい? 飛行機が飛ぶようになるまで、どれだけの試作機が墜ちて火を噴いたか? 君が今こうして“トレセン”に通えているのだって、数え切れない迷惑と犠牲が積み上がったお陰なのだよ」

 

 タキオンは手にした小瓶を傾け、青白い液体を光に透かした。

 泡がひとつ、はじけるたびに微かな火花が散る。

 

「つまり──君にかけた迷惑も、今まさに科学史の一ページに刻まれるんだ。なんて栄誉あることだろう!」

「……はぁ?」

 

 レッドガーベラは額に手を当て、深く息を吐いた。

 

「あの……理由捏ねるのやめて。頭が痛くなる。私を巻き込むなって言ってるの。簡単でしょ」

「化学反応ってのは、触れた瞬間から始まるものだよ。つまり、私にはどうしようもないものなのだよ」

 

 話が通じているようでかみ合っていない。

 レッドガーベラは額を押さえたまま、重苦しい吐息を漏らした。頭蓋の奥をぐいぐい叩かれるような感覚が、アグネスタキオンの言葉と共に増幅していく。

 理由にならない理由を並べ立て、詭弁を詩のように操るその女は、対話をしているはずなのに会話のレールを外れ、勝手に自分の世界の上を走っていく。

 

「話にならない……。こんなとこにいたら、私の私物も調べられかねない」

 

 するとタキオンは頬杖を解き、椅子を回転させて立ち上がった。きらめく瞳は、完全に獲物を観察する研究者のものだった。

 

「言っておくが、君の“段ボール”ももう調べさせてもらったよ」

「……はぁ!? ちょっ、ありえないんだけど⁉」

 

 視線を改めて段ボールに走らせると、ガムテープが一部剥がされ、覗くように計測器の端子が突っ込まれている。

 

「謝罪はするとも。だが未解明なものは気になる質でね。まさか誰かの私物だとは思わなかったけれど。衣服の繊維強度、平均よりも低いよういだね。柔軟性を意識しているのかな?あと、君が持ってきた本……ページに付着してた汗の成分から推定すると、なかなかストレスに強いタイプだろう」

 

 レッドガーベラは頬をひきつらせ、段ボールに駆け寄る。

 

「ちょ、勝手に触らないで!」

「もう触っている、安心したまえ!それに記録はすべて私の頭の中にある。だから証拠は残らない!」

「安心できるライン超えてんだけど!?」

 

 レッドガーベラの悲鳴にも似た抗議をよそに、タキオンは研究室の中央で独楽のようにくるくると回り続けた。白衣の裾が広がり、薬品臭と紙束の埃を巻き上げ、部屋の空気をさらにカオスへと導いていく。

 ガーベラは段ボールを抱きかかえ、必死に自分の持ち物を守ろうとした。だが背後でタキオンは「証拠は残らない!」と再び高らかに宣言し、何もかもを研究対象に変えてしまう危うさを、これ以上なく全身で体現していた。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。