ウマ娘プリティーダービー 《Red Resurrection》   作:矢面

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03.波乱の幕開け2

 夢を見ていた。

 あの、直視すれば気が狂ってしまいそうな絶望の夢。

 

 薄暗い天井。焼きつくように眩しい白光。

 鼻を突く消毒液の匂い。遠くで規則正しく鳴り続ける機械の電子音。

 視界は揺らぎ、輪郭は滲み、ただ音だけが妙に鮮やかに胸を突き刺してくる。

 

 ──残念ですが……

 ──あまり望みは……

 

 低く淀んだ声。医師のものだろうか。

 言葉の半分は霞に溶け、耳をすり抜けていく。だが、断片だけはやけに鮮烈に残る。

 残念。無理。限界。

 その語が鎖のように絡みつき、体を締め上げる。

 

 レッドガーベラは夢の中で微動だにせず、ただ呼吸だけを繰り返していた。

 胸の奥では、声にならない叫びが何度も反響する。

 

 ──走りたい。

 

 切実な願いは、喉の奥で凍りついたまま、一言にもならない。

 いや、してはいけない。

 

 その仄暗い願いを叶えるように、夢は容赦なく、無慈悲に、過去の光景を呼び覚ます。

 崩れ落ちた瞬間、伸ばされた腕。

 自分を支えようとした影。

 次に耳を打ったのは、苦しげな息と、押し殺した呻き声。

 

 胸が軋む。

 走りたいと願えば願うほど、その痛みは強くなる。

 自分の脚を前へ進めたい気持ちと、同時に押し寄せる負い目。

 

 あのときの音と影が、足元に絡みつき、離れない。

 

 

 否。

 振り切ったはずだ、乗り越えた、はずなのだ──

 

 

 

 ◆

 

 

 

 春の朝。

 じりり、と甲高い電子音が部屋の静けさを裂いた。

 レッドガーベラは眉をひそめ、布団の中で身をすくめる。春先とはいえ、底冷えのする空気が頬を刺し、思わず瞳をきつく閉じた。あと数秒。いや、あと数分。そんな甘えが頭をもたげる。

 

 しかし彼女は、伸ばした手で目覚まし時計を乱暴に叩いた。午前六時三十分。ぴたりと止む音。反動のままに布団を跳ね上げ、背を起こす。

 見慣れない壁、見慣れない天井、見慣れない空気──トレセン学園の寮で迎える三度目の朝。

 始業式兼、編入式兼、入学式。忙しい一日の始まりだった。

 

「やあ、おはよう。素晴らしい朝だねえ」

「……まだいる」

 

 間延びした声が飛び込んできた瞬間、残っていた眠気はすべて吹き飛んだ。

 レッドガーベラが険しい目を向ける。そこには椅子に悠然と腰掛け、タブレットを弄るウマ娘──アグネスタキオン。

 

「……出てけって、再三言ってんだけど」

 

 睨みを込めた声にも、タキオンは悪びれる素振りひとつ見せない。むしろ楽しげに笑みを浮かべ、手近な試験管を撫でていた。紫の液体が小さな気泡を弾かせ、ぎらりと光を返す。

 

「もちろん、立ち退きは受諾したとも」タキオンはニヤリと言葉を紡ぐ。「だが知ってのとおり、この部屋には危険物が山ほどあってね。“ゆっくり、着実に”持ち出さねばならない」

「じゃあせめて、自分の部屋に帰って」

「それはお断りだ。この薬品から目を離すのは危険だ。君も、色とりどりの液体が爆発するのは困るだろう?」

「……それは当たり前でしょう」

「であれば少しの間、我慢したまえ。我慢。なにしろ研究は順調なのだし……おっと失礼、処理は繊細にしなければね」

 

 白衣の袖をぱたぱたと揺らし、タキオンは椅子をくるりと回転させて背を向ける。

 レッドガーベラは深く、長いため息を吐いた。

 

 見知らぬウマ娘が自分の部屋を占拠している。もちろん、入寮初日にすぐさま報告した。寮母も寮長も動き、粘り強い交渉の末にようやくタキオンから「退去」の言葉を引き出すことには成功した。

 だが彼女は薬品の危険性を盾に、即日の立ち退きだけは拒み通した。

「爆発する」「間違えば有害」。並べ立てる言葉はどれも剣呑で、虚言と断じるにはあまりに真に迫っていた。

 無理やり追い出すことも考えたが、その瞳を見た瞬間、レッドガーベラは踏みとどまらざるを得なかった。冗談を弄する口元とは裏腹に、その眼光は虚飾に逃げる者のそれではなかったから。

 

 結果、下された判決はこうだ。

 マッドサイエンティスト・アグネスタキオンは、私物を徐々に搬出しつつ退去すること。

 そして、他に空室がない以上、レッドガーベラは一時的に彼女と同じ空気を吸い続けることを、渋々ながら承諾するほかなかったのだ。

 寮長、フジキセキが肩をすくめ、困ったように、それでいて責任を背負う者の顔で申し訳なさそうに笑ったのを思い出す。

 悪いのは、どう考えてもアグネスタキオンのほうなのだが。

 しかもよりによって、アグネスタキオンは今年度から高等部一年になるのだという。

 つまり、自分と同じクラスに並ぶ“同級生”だというのだ。

 同年代という括りに連帯意識など覚えたこともなかったが、実態のない情けなさだけが胃の底に沈む。

 

 レッドガーベラはベッドから立ち上がり、背筋を伸ばした。

 深呼吸はやめる。代わりに窓を大きく開け放つ。

 冷気が肌を刺し、思わず身震いしそうになる。だが淀んだ薬品臭と比べれば、天秤にかけるまでもなかった。

 

「おいおい。早く閉めてくれよう。寒さが堪えるじゃないか」

「なら簡単。さっさと出て行けば解決するから」

 

 頑なだねえ、とアグネスタキオンは椅子に座ったまま、キャスターを鳴らして窓から遠ざかる。

 

「しかし君ィ、早い起床は何か理由があるのかい?」

 

 アグネスタキオンの言葉に、レッドガーベラの耳がぴくりと揺れた。

 振り返ったその視線の先──タキオンの目元には、ここ二日まともに眠っていないことを示す濃い隈が刻まれていた。

 黒く沈んだその影は、彼女の異様な執着と、休息を拒んで研究に没頭する証そのものだった。

 

「決まってるでしょ。今日は始業式なんだから」

「ふゥん……始業式、ねえ。なるほど、世間では“大事”とされる催しが、まさに今日だったわけか。まあ、私は出ないが」

 

 天井を仰ぎながら気まぐれに耳をひらひらと揺らした。その仕草は、まるで誰にも理解できない思考の回路をひとり歩きさせているかのようだった。

 

「不良」

「結構じゃないか。規格外こそ、科学者の証明さ」

 

 タキオンは肩をすくめ、まるで自分の不名誉を誉れのように受け止めていた。

 

「わざわざ参加する必要は皆無だろう。手垢にまみれたお題目に耳を貸す時間があるなら──」

「あんた、高等部とはいえまだ一年でしょ」

 

 冷ややかに遮るガーベラの声。

 だがタキオンは頓着せず、愉快げ笑う。

 

「だからさ。凡庸な儀式に貴重な時間を潰すより、私は試験管の泡を数えていたほうがよほど実りがある」

「……呆れる。本気で言ってるなら、そのうち本当に学園から追い出されることになるわよ」

 

 レッドガーベラは窓辺に身を預け、興味を欠いた声音で吐き捨てるように言葉を落とした。

 吹き込む外気の冷たさに押されてか、薬品臭に満ちた部屋の空気もわずかに澄んだ気がした。

 

「ははは、この頭脳を追い出すつもりなら、学園史に残る失策として語られるだろうね」

 

 背後ではタキオンがひとり鼻歌を口ずさみながら椅子をくるりと回し、再びタブレットの画面へと飄々と視線を落としていた。

 

「そう。ならこれ以上は言わないけど」

 

 それ以上、相手にするのは時間の浪費だ。

 レッドガーベラはパジャマの前を解き、ゆるやかにベッドに脱ぎ落とした。冷えた空気が肌に触れた途端、背筋にひやりとした感覚が走る。

 クローゼットを開き、制服を取り出す。シャツの袖に腕を通すと、まだ夜気を含んだ布地が肌を撫で、思わず肩が跳ねた。胸元で一つずつボタンを留めていくたび、少しずつ意識が冴え、気持ちが締め直されていく。

 

 スカートを腰に巻き、赤い尻尾を慎重に穴へ通す。金具が付け根に触れ、思わず小さく息を呑む。布地を整えると、そこに“今日”が重みを増していくのが分かった。

 

 レッドガーベラは畳んだ衣服をベッド脇に置き、制服の袖をきっちりと通したあと、タオルを手に廊下へ出た。ひんやりと静まり返っていた。

 足音が板張りを叩くたび、やけに大きく反響する。

 寮全体がまだ眠りの名残を抱えているようで、閉ざされた扉の向こうからは物音ひとつしなかった。

 共用の洗面所の扉を押し開けると、磨き込まれた鏡が並ぶ白い空間が待っていた。

 

 誰の気配もない。蛇口をひねれば、冷たい水が勢いよく流れ出す。両手ですくって頬にあてると、ひやりとした刺激が残っていた眠気を一気に剥ぎ取り、胸の奥まで澄みわたらせた。

 歯を磨き、口をすすぐ。タオルで滴を押さえたあと、手櫛で髪を整え、櫛を通す。赤い髪がさらりと流れ落ち、洗面所の蛍光灯と窓から差す朝の光を受けて艶やかに輝いた。鏡に映る顔を見れば、わずかな影は消え、そこには凛とした気配を帯びた少女が立っていた。

 外の空は、さっきよりも明るさを増している。制服のスカートを整え、耳へ赤い石をあしらった耳飾りを掛けると、小さな煌めきが春の朝に点る。

 

 水滴を拭い終えると、タオルを畳んで手に掛け、静かな洗面所を後にする。自室に戻り、次々に支度を整えていく。

 鞄を開き、教科書や書類、筆記用具をひとつずつ指先で確かめる。欠けているものはないと確認すると、すぐにそれらを鞄の奥へ戻す。視線を上げれば、目覚まし時計は針を揃えて音もなく七時を告げていた。

 その背へ、のんびりとした声が落ちてくる。

 

「ふむ、緊張しているねえ。まるで戦場に赴く兵士のようだ」

「うるさい。どこがそう見えるのよ」

 

 短く切り捨てるような声音。

 けれど背後のアグネスタキオンは、全く意に介した様子もなく、椅子の背に身を預けて脚をぶらぶらと揺らしていた。

 

「眉間の皺。呼吸の速さ。指先の微かな震え──」

「……もういい。勝手に観察しないで」

「ん〜? 妙だねえ、君が聞いたんじゃないか」

 

 小さく舌を鳴らし、鞄を肩へ掛ける。振り返りもせず、レッドガーベラは冷ややかに言葉を投げ捨てた。

 

「今日こそは、荷物まとめて立ち退いて」

 

 短く突き放す声。

 その背後で、わざとらしい間を置いてからタキオンの愉快げな声が転がった。

 

「もちろん、善処するとも。だが“進歩には猶予を要する”とね、そういう格言もあるのだよ」

「そんな言葉聞いたことないけど」

「今この瞬間に生まれたばかりさ。だが、どうだろう? 妙に真理めいて響くと思わないか?」

 

 レッドガーベラは吐息をひとつ、肩を揺らして首を振った。

 もはや相手にする気力すら削がれていた。

 

「……勝手に言ってなさい」

 

 ノブを握る手に力を込め、扉を押し開ける。

 廊下に流れ込んでくる朝の冷たい空気が頬を撫で、背筋をすっと伸ばす。

 背後ではなお、飄々とした鼻歌が白衣の裾とともに揺れ、部屋の奥に溶けていった。

 振り返ることなく、レッドガーベラは自室を出る。

 

 階段を下りると、窓越しに差し込む光が少しずつ強さを増している。

 半ば沈んだ夜を押しのけるように、春の陽がじわりと床に模様を描いていた。

 吐く息はまだ白く、しかしその中に確かに温かさの兆しが混じっている。

 

 食堂の前を通ると、漂ってくるのは焼き立てのパンの香り。

 調理員が準備をしているらしく、奥で金属の音がかすかに鳴っていた。

 立ち寄ることもできたが、レッドガーベラは足を止めない。

 昨日買ったカロリーバーをポケットに忍ばせてある。朝食をわざわざ座って取る気にはなれなかった。

 今は温かな香りに惹かれるよりも、むしろ遠ざかりたい気分だった。

 

 そのまま玄関へ向かい、重い扉を押し開ける。

 冷たい空気が頬を打つが、同時に差し込む光が瞳を射抜いた。

 ビルの狭間から見える地平線の向こうの陽は、まだ半ば眠りの中に沈みつつも、確かな明るさを放っていた。

 

 石畳の道に靴を踏み出す。

 乾いた音が規則正しく続き、しんと静まり返った寮の背後に響いていく。

 指先はまだ冷たい。けれど、その光に混じる微かな温もりが、胸の奥でじわりと熱を生んでいた。

 

 赤い尾が風に揺れ、髪が朝日にきらめく。

 歩きながら、ガーベラはポケットの中のカロリーバーを指先で探り当てた。

 包装紙を乱暴に引き裂くと、甘い香りがふっと立ちのぼる。

 一口かじる。固い歯応えのあと、人工的な甘さが舌に広がった。

 

 味気ない。

 けれど、かえってそれがいい。

 

 栄養だけを詰め込んだ無骨な塊の方が、今の自分には似合っている気がした。

 焼きたてのパンの柔らかな香りに甘えるより、冷たい空気とこの乾いた甘さを噛み砕く方が、心は落ち着いた。

 

 嚙みしめるたび、奥歯に力がこもる。

 飲み下すごとに、沈んでいた胃が重たく動き出し、身体の奥にじわじわと熱が戻ってくる。

 石畳に響く靴音が一定のリズムを刻み、その拍子に合わせるように、淡々と咀嚼を続けた。

 最後の欠片を噛み砕き、包み紙を指先で丸めてポケットに押し込む。

 口に残った人工的な甘さを吐息とともに吐き出すと、白い息の中にわずかな温もりが混じって広がった。

 

 校舎へと続く道の先で、朝の光が一層濃さを増している。

 闇に沈んでいた空を押しのけるように、陽はゆっくりと高く昇ろうとしていた。

 レッドガーベラはわずかに歩幅を広げる。

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