ウマ娘プリティーダービー 《Red Resurrection》   作:矢面

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04.波乱の幕開け3

春の陽光は校舎の白亜を鋭く照らし出していた。

校庭を渡る風にはまだ冷たさが残るが、その奥に潜むわずかな温もりが、新しい季節の到来を確かに告げている。

 

朝。生徒で賑わう廊下を一人の影が横切る。

休暇の思い出、トレーニングの成果、新学期の期待――交わされる声はとりとめもないが、再会を喜ぶ友人同士の笑顔に満ちていた。

その喧噪の中を、少女は金色の髪を揺らしながら歩いていく。急ぐでもなく、緩むでもなく、自然と人の波に溶け込む足取り。やがて割り当てられた教室へと辿り着いた。

黒板には新しい名簿や今日の連絡が貼り出されている。翡翠色の瞳がそこに視線を寄せ、すぐさま自分の席を見つけると、机の間を抜けて鞄を置いた。

見慣れた造りの教室は不思議と新鮮で、そしてどこか居心地の悪さを伴っている。

それは同時に高等部としての実感も胸に寄越す。

 

そのとき、ふと隣の席が目に留まる。

机にはすでに鞄が置かれていた。ありふれた光景だが、磨き抜かれたように新品同然のそれは、自分やクラスメイトのくたびれ始めた鞄と、鮮やかに対照をなしている。

顔なじみの誰かが新調したのかと一瞬思う。特に過酷な鍛錬を好むあの知人なら、使い潰して買い替えていても不思議ではない。

だが持ち手に括られた、小さな花飾りのキーホルダーが、その予想をやんわりと否定する。

 

だが、それ以上に気を取られることはなかった。

始業式の行われる講堂へ向かわねばならない。スマホの画面に表示された時刻は八時三十分。

朝のトレーニングに思いのほか時間を費やしてしまった。遅刻することはないにせよ、余裕を持って動いておきたい。

肩の荷を下ろした身軽さを感じながら、少女は教室を後にする。

 

「それでさ──」

「えー!?──」

 

講堂へ続く道には、すでに人の流れができていた。制服姿のウマ娘たちが三々五々に歩を進め、耳を揺らし、尾を弾ませながら談笑している。

ざわめきは花の群れのようにあちこちで咲き乱れ、石畳を踏む靴音が幾重にも重なり合って講堂の扉へと吸い込まれていった。

少女はその流れに紛れつつも歩幅を乱さず、まっすぐ前を見据えて進んだ。

 

講堂の入口を抜けた途端、耳を打ったのは、外とは比べるまでもない幾百ものざわめきだった。

天井の高い大空間は、まだ始まらぬ式典の熱気をすでに孕み、どこか落ち着かない。正面の壇上には深紅の幕が垂れ下がり、その中央で演台が静かに出番を待っている。

鹿毛、青鹿毛、栃栗毛、栗毛、芦毛、白毛、金毛――色とりどりの毛並みを持つウマ娘たちが視界を埋め尽くす。学園関係者も忙しげに動き回り、空気はまるで奔流のように渦巻いていた。

これほど多彩な顔ぶれを一度に目にする機会はそう多くない。圧巻という言葉こそが、ふさわしい光景だった。

 

「おーい!ココン!こっちだよ!」

 

ざわめきの中、ひときわ大きな声が響く。

人混みの先、講堂右手の席でこちらに手を振る姿があった。

褐色の肌を照明に映えさせた少女――ビターグラッセ。知人である彼女は、朝だというのに気怠さの影すら見せず、快活そのものの笑みを浮かべている。

その底抜けに明るい調子は、この時間帯に相手をするには少々元気が過ぎるように感じられた。

少女──リトルココンはわずかに眉をひそめながらも、人波を縫って彼女のもとへ向かう。

 

「朝から声がデカすぎ。呼ばれなくても分かるし」

 

リトルココンは人混みを抜けながら、ため息混じりに言葉を返した。

 

「はっはっは!だがこの人混みの中探すよりはずっと楽だぞ!」

 

ビターグラッセは座席に腰を下ろしたまま胸を張り、講堂中に響きそうな勢いで笑う。周囲の生徒がちらりと振り向いたが、本人はまるで意に介していない。

 

「まったく…新学期からアンタに合わせてたら、そのうち息切れしそう」

 

リトルココンは肩を竦めつつ隣の席へ腰掛け、わざと視線を逸らす。

 

「心配するな、その時は担いでやる!ちょうどタイヤ引きの重りを倍にしようと思ってたところだ!」

 

ビターグラッセは得意げに笑い、まるで新しい遊びでも思いついたかのように軽々と言い放った。

だがその提案の裏には、常人なら一度は躊躇するであろう負荷が当たり前のように含まれている。

ビターグラッセの鍛錬は、量でも質でも突出している。

「努力家」という言葉では収まらない。彼女にとって過酷さは避けるべき壁ではなく、むしろ踏み越えてこそ価値があるものだった。

そのため、己に課すトレーニングの度合いだけで言えば、トレセン学園でも屈指だろう。

常軌を逸した鍛錬。それこそが、ビターグラッセの最大の強みであり、同時に周囲を振り回す厄介さでもある。

指折り数えるほどの付き合いしかないリトルココンですら、彼女の言葉に冗談の余地が一切ないことを悟っていた。

むしろ、その笑顔の裏にあるのは純粋な確信と、走りに対する飽くなき渇望にほかならなかった。

 

「興味ないし、一人でやったら?…それより──」小さなため息を一つ。「またアンタと同じクラスとはね」

 

肘をついて周囲を眺める。ざわめきはなおも講堂を満たし、式典が始まる気配はまだ遠い。

 

「中等部からだから四年目か。ここまで一緒だと、もう驚きもしないな!」

 

ビターグラッセは豪快に笑い、背凭れに体を預けながら腕頭の後ろで組む。

 

「ま、鍛錬仲間が近くにいるってことは、何より心強い!」

「誰が鍛錬仲間?」

 

ココンは呆れを隠さず、わざと視線を正面に固定した。壇上の深紅の幕を見上げながらも、隣から放たれる熱量は否応なく伝わってくる。

グラッセはそんな反応すら楽しげに受け流すと、身を乗り出して囁くように言った。

 

「安心してほしい!そのうちもっと効率的なメニューを考えてやる」

「お断り。アンタみたいに筋肉ダルマになるつもりないから」

 

短く言い捨てたココンの横顔には、しかし完全な拒絶ではなく、わずかな苦笑が浮かんでいた。

本来の彼女は、群れることを嫌い、他人に歩調を合わせることを好まない。合理を最優先し、鍛錬においても無駄を徹底的に排除する。それがリトルココンという存在だった。

だからこそ、豪放磊落で自らを追い込み続けるビターグラッセは、本来なら最も相容れない相手のはずだ。

だが、極端さの方向こそ違えど、己を走りへ投げ出す姿勢に一点の迷いもないその在り方が、どこかでリトルココンと響き合っていた。

呆れ半分、感心半分。気づけば彼女に対してだけは、距離を置ききれない自分がいる。

 

「それに…今年からアタシたちもクラシック級。気、引き締めないと」

「それは同感、私たちは今年からが本番だからな!」

 

昨年デビューを果たしたリトルココンとビターグラッセ。

ウマ娘にとって一年目は「ジュニア級」と呼ばれ、注目が集まる大切な時期だ。

本格化、すなわち肉体の全盛を迎えたウマ娘たちのデビュー戦が繰り広げられる舞台である。

二人とも安定して上位に食い込み、注目を集める成績を残した。華々しい結果とまではいかずとも、その名を十分に記憶させるには足りる一年だった。

だが、クラシック級に進んだ今季からは舞台の景色が一変する。

同じく台頭してくる同期のクラシック勢、すでに名を上げた実力者たち、さらには経験と実績を兼ね備えたシニア級以上の歴戦の強者までもが走路に立ちふさがる。

対戦相手の層も厚みも、ジュニア級とは比べものにならない。

ジュニア級での戦いは、あれはあれで必死の積み重ねだった。しかし、真の意味で生き残りを懸けた勝負は間違いなくこれから始まる。

猛者たちがひしめく中央の舞台にあっては、気を引き締めるのに「早すぎる」などという言葉は存在しない。

そう己に言い聞かせ、気持ちを改めて固めた、その瞬間だった。

 

「──あれ?あの子じゃない?編入生って」

 

近くに座る生徒たちの小声が、ココンとグラッセの耳に届いた。

思わず声の向く方へ視線を向けるココン。グラッセもまた、興味を隠そうとせず首を巡らせる。

トレセン学園には数え切れぬほどの生徒が在籍している。

講堂に集う顔ぶれの大半は、互いに知らぬ者ばかりだ。

本来なら、ざわめきに紛れたひとりを見つけ出すことなどできるはずもない。

だがその瞬間、探すように泳いだ視線は、通路を進む人波の中で迷うことなく一点に吸い寄せられた。

 

赤毛を揺らすただひとりのウマ娘。

その存在は、群衆のざわめきを背にしながらも、ひときわ鮮烈に浮かび上がっていた。

 

「…アイツだ」

「ん〜…どこだ?」

 

通路を歩む赤毛のウマ娘。

その名が、誰かの小さな声で囁かれる。レッドガーベラ。

陽光を映したかのように鮮烈な赤髪は、肩口まで流れ、歩むたびに揺れては空気をはらんで舞う。群衆に紛れてなお、その存在は否応なく際立っていた。

 

「…」

 

リトルココンの視線は、揺るぎなく一点に固定されていた。その理由があった。

まっすぐに前方を射抜く眼差しには影すら差さず、燃えさかる炎を宿した瞳は、この場を越えた遥かな高みを当然のごとく睨み据えている。まるで、目標を明確な輪郭として捉えているような。

歩調は決して速すぎず、しかし群衆の流れに呑まれることもない。むしろ、その一歩ごとに周囲のざわめきが自然と押し下げられ、彼女の歩む軌跡だけが澄み渡るように空白を描いていく。

そこに立つのは群衆に紛れた一人ではない。

群衆を従え、その只中にあってなお浮かび上がる。

 

実力も経歴も、一切が不明。

ただひとつ判明しているのは編入試験を首位で突破したという噂のみ。

その断片的な情報は小声となってさざ波のように広がり、やがて講堂のあちこちで「噂の編入生」の名が囁かれ始める。

囁きのひとつひとつが波紋のように重なり合い、赤毛の存在は否応なく、群衆の中でますます鮮烈に浮かび上がっていった。

 

高等部への編入は、中等部への入学以上に狭き門として知られている。勉学に求められる水準の高さに加え、何よりも走者として、中央における一定以上の能力を備えていなければならない。

例年を通じても新入生は五十名に届かず、さらにその中で競走バとしての入学を許される者となれば、その存在は極めて希少だった。

つまりレッドガーベラへと注目は必然。とりわけ、今年の編入者が片手で数えられるほどの少なさに留まったことを知る者ならば、その希少さはなお際立って映った。

 

「おお!あれが競走バ唯一の編入合格者か。実際に見ると…なるほど、噂になるのも無理はない立ち振舞だ!」

 

見つけたビターグラッセは目を細め、口角を楽しげに吊り上げた。

その眼差しは、獲物を見つけた闘志に満ち、誰よりも早く彼女の走りを見たいと告げていた。

 

「ホントかどうかわかんない噂一つで騒げるなんて、お気楽な連中だね。余程暇みたい」

 

リトルココンは視線を外さぬまま、淡々と返す。

しかし講堂を満たすざわめきやあからさまな視線を浴びてもなお、彼女の歩みも瞳も揺るがない。視線の先を横切る少女の立ち居振る舞いは、その噂を補強する確かな判断材料となっていた。

 

「ははっ!口ではそう言っても、気になるんだろ?」

 

ビターグラッセはからかうように笑い、肘でリトルココンの脇腹を軽く突く。

 

「いたい。別に、興味ないし」

 

リトルココンは吐き捨てるように肘を払う。

しかし、その冷ややかな声音とは裏腹に、瞳だけは赤髪を追い続けていた。

 

「ほら見ろ。やっぱり気になっているじゃないか!」

 

ビターグラッセは愉快そうに笑い、大げさに腕を組んだ。

 

「私はああいうタイプ、嫌いじゃないな。しかも同学年ときた。近いうちに、手合わせがしてみたい!」

 

リトルココンは小さく息を吐き、深紅の幕が揺れる壇上へと静かに視線を移した。

 

「そう…?いずれにしろ、走ればわかること」

 

そうだ。すべては取るに足らない。噂も、過去も、何ひとつ強さの保証にはならない。

ここは中央。その一歩一歩を、ただ走りで証明するしかないのだから。

 

講堂の扉が閉じる音が遠くで響き、ざわめきが少しずつ収束していく。壇上の幕がわずかに揺れ、式典開始を予感させる静けさが広がった。

やがて鐘の音が講堂に響き渡り、ざわめきは完全に鎮まる。幕の向こうから足音が近づき、壇上に影が現れる。始業式が始まろうとしていた。

 

 

 

 

講堂へと吸い込まれていくウマ娘たちを、男は少し離れた場所から静かに見つめていた。

すらりとした黒のスーツに身を包み、胸元の蹄鉄のバッジがかすかな光を返す。その小さな輝きは、彼が任を受けてまだ日も浅い新米トレーナーであることを雄弁に物語っていた。

 

「流石に、この数から探すのは無理だな」

 

小さくこぼした声は、遠くの喧騒にすぐ掻き消された。

男の左足は思うように動かず、支えとなるのは突き立てた一本のロフトランド杖だけ。重心を預けるたびに木が低く軋み、その震えが脚を伝って鈍い痛みを呼び覚ます。

だが彼は眉ひとつ動かさない。むしろその痛みを、“まだ立っている”ことを示す確かな証として受け入れ、視線を講堂へと注ぎ続けた。

目に映るのは、奔流のごとく押し寄せる人の群れ。

毛色も背丈も歩調も異なる数多のウマ娘たちが、一つの潮流となって扉をくぐり抜けていく。

その圧倒的な熱気に包まれながらも、男の眼差しはただ一人だけを追っていた。

 

「連絡もなし、か」

 

右手のスマホを睨む。昨日送ったメッセージに既読はない。最後に交わした会話は三日前。忙しいのか、それとも何かあったのか。

画面には短い未送信の文字列が浮かんでいた。送るか否か、親指は宙をさまよい、結局は下ろされた。

 

「まあ、そのうち顔を出すか」

 

独り言のように呟き、片桐伊織はひとつ息を吐く。

 

「ここにいましたか、片桐トレーナー」

 

背にかけられた声に、男は右足を軸に振り返った。

そこに立つのは黒のパンツスーツを纏う女性。肩口まで流れる黒髪が風に揺れ、胸元の蹄鉄のバッジが光を返す。その立ち姿は一分の隙もなく、まるで規律そのものを体現しているかのようだった。

 

鋭い眼差しが真っ直ぐに彼を射抜く。

樫本理子。かつては師として自分を導き、今は同じ舞台に立つ先達の姿がそこにあった。

 

「樫本教官」

 

反射的に呼んだその名に、理子はわずかに眉を寄せる。

 

「教官、ではありません。今はあなたと同じ立場の、トレーナーです」

 

張り詰めた声色が返る。だがその奥にわずかな揺らぎを感じ取り、片桐は気恥ずかしげに頭をかき、苦笑を浮かべた。

 

「そうでした。つい癖で」

「……まったく、口癖というのは厄介ですね。学生気分が抜けていない証拠です」

 

理子は小さくため息をつきながらも、そのまま片桐の隣に歩み寄る。肩を並べた二人の間には、冷たさよりもむしろ旧き師弟の日々の名残が漂っていた。

 

「探している相手がいるのでしょう?この前、名前を挙げていた子ですね」

「ええ。少し顔を見られればと思ったんですが……」

 

片桐の視線は再び群衆へと戻る。講堂へ吸い込まれる数多の影。毛並みも背丈も歩調も異なる姿の中から一人を探すのは、砂粒の山から宝石を拾うようなものだった。

 

「流石に無謀でした。諦めることとします」

 

理子に一瞥をくれながら、片桐は肩を竦める。

 

「賢明です。それに、初日から遅刻するような行動は、同僚として見過ごせません。なにより、生徒に示しがつかない」

「申し訳ない。軽率でした」片桐は頭を軽く下げ、言葉を紡ぐ。「しかし樫本トレーナーが“同僚”か。どうにも慣れませんね、それ」

 

片桐の苦笑に、理子はわずかに目を細めた。

名目上は中央トレセン学園のトレーナーであっても、本来の彼女はURA本部の幹部職員。各地の育成方針に携わり、数多のウマ娘の進路を決定づけてきた実績を持つ。制度を設計する場にも立ち、現場を自ら歩いて方針を正す。その姿勢ゆえに、樫本理子の名はトレーナーたちの間で畏怖と畏敬をもって語られていた。

片桐にとっては大学時代、叱責と指導を受け続けた師であり、手本であり、想像すら難しいほどの壁のような存在。それが今、同じ蹄鉄のバッジを胸に“同僚”として並び立っている。

胸に湧く違和感と重みは、その一点に凝縮されていた。

 

「慣れてもらわないと困ります。ここでの私は、あくまで一人のトレーナーですから」

「幹部職員と肩を並べるというのは、なかなかの重圧ですよ」

「普通ならそれも通りますが、ここに立っている時点で理由にはなりません」

 

理子は視線を群衆から外さぬまま、淡々と告げた。その声音には冷ややかさと共に、揺るぎない矜持が宿っている。

 

「…それもそうですね。了解しました」

 

片桐はわざと肩をすくめて見せる。彼にとって理子は、まだ“師”であり続ける存在だ。その背に追いつきたいと願いながらも、隣に立てば、やはり遠く思える。

 

「それでいいのです。貴方がどう思おうと、外から見れば私たちは同じ立場。生徒たちの目に映るのは肩書きだけです」

 

その言葉と同時に、理子はようやく彼に視線を向けた。鋭い瞳の奥に、一瞬だけ懐かしさの色がよぎる。

 

「もっとも、あなたがあの頃より幾分は成長したことは、私にも分かります」

 

片桐は思わず息を呑み、やがて小さく笑った。

 

「全体的に評価が厳しいのは、相変わらずですが」

「当然でしょう。甘い言葉や評価では育成になりませんから。その分、あなたには期待をしている、ということを忘れないように」

 

理子は断じ、再び群衆へと目を向けた。講堂に吸い込まれる数多の影。その一人ひとりを測るように目で追う横顔は、ただの現場の指導者ではなく一人のトレーナーとしてのそれ。

片桐はそんな彼女を見ながら、胸の奥に静かな熱を覚える。

 

「そうですね。俺も、見せないといけません。ここに立つ理由を」

 

その言葉の余韻と共に、片桐の胸裏にいくつもの光景がよみがえる。

幼い日、初めて観客席から見上げたトラック。砂煙を蹴り上げ、眩いまでの速度で駆け抜けるウマ娘たちの姿は、幼心に「夢」というものを刻みつけた。

共に歩むという想い。導きたいという願い。

そして、自分自身もまた試されているという覚悟。

ふと漏らした独白に、理子は答えず、ただ唇の端をわずかに上げる。

同意か、それとも期待か。片桐には判別できなかった。

 

「ともかく、朝礼です。ここに来たからには、あなたにも歩調を合わせてもらうのでそのつもりで」

 

そう告げると理子は踵を返した。

片桐は小さく笑い、杖を支えにその背中を追った。

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