森の中、時崎と尾白は、静かな夜気を裂くように漂ってきた異様な臭いに気づいた。
鼻を突く刺激臭と、うっすらと広がる煙。
時崎の瞳が細められる。
(この臭い……まさか)
瞬間、彼女は反射的に尾白の口元を押さえ、自らも手で口を覆った。
「尾白さん、この煙を吸わないでください。毒ガスですわ」
突然の行動に驚いた尾白だったが、時崎の真剣な声音にただ事ではないと察する。咄嗟にマスク代わりに袖で口を覆った。
二人が森を抜け、仲間たちの元へ引き返そうとしたその時。
脳内に鋭い声が響き渡る。
『皆!!敵ヴィラン襲来!他にも複数いる可能性あり!動ける者は直ちに施設へ!会敵しても決して交戦せず撤退を!』
マンダレイのテレパスだ。生徒全員に一斉に伝わる緊急連絡。
尾白が息を呑む一方で、時崎はすぐに思考を巡らせていた。
(……合宿先の情報が漏洩した。まさか、内通者が……?)
その刹那、別行動していた“分身”から次々と情報が流れ込む。
「緑谷さんが洸汰さんを守るためにヴィランと交戦中。もう一人のわたくしが協力していますわ」
「何人かはガスで気絶。ヴィランの目的は爆豪さんと……そして、『わたくし』ですわ」
尾白の顔に驚愕が浮かぶ。だが時崎は冷静だった。
今優先すべきは全体の撤退。彼女は森の中でヴィランがいないルートを選び取り、指を差す。
「この道を通りますわ。一度全員で集まりましょう」
決断を下したその時、再び声が全員に響いた。今度は相澤先生の声だ。
『A組B組総員!!プロヒーロー、イレイザーヘッドの名に於いて、戦闘を許可する!!!』
重々しく響くその声に、生徒たちの背筋が粟立つ。続けてマンダレイの緊迫したテレパスが重なった。
『ヴィランの狙いの一つが判明!生徒の「かっちゃん」と「時崎さん」!!「かっちゃん」はなるべく戦闘を避け、単独では動かないこと!時崎さんは個性を解かないで!二人とも、わかった!?』
仲間たちの視線が一斉に時崎へ集まる。妖しくも冷ややかな微笑みを浮かべ、狂三は小さく頷いた。
「……ええ、心得ておりますわ」
その表情には恐れよりもむしろ、獲物を狙う獣のような光が宿っていた。
森の闇を抜け、時崎と尾白はついにB組の「脅かす側」として待機していた生徒たちと合流した。驚きと混乱に揺れる彼らに、時崎は冷静な声音で告げる。
「皆さん、すぐに施設へ避難を。ここに留まっては危険ですわ」
その一言に場の空気が一瞬張り詰める。だが、誰かが不安げに問うた。
「けど……時崎さんは?狙われてるんでしょ?」
時崎はふっと唇に笑みを浮かべた。
「狙われているのはわたくし。逆に、わたくしが避難すれば多くの人が狙われかねませんわ。それに……」
そう言って、彼女は指先を軽く弾く。次の瞬間、影のように分身が何体も出現し、周囲に散っていった。
「わたくしには「わたくし達」がおりますもの」
その不敵な姿に、B組の面々は息を呑むしかなかった。
毒ガスが漂う森の奥へと、時崎は駆けていた。
八百万から受け取ったガスマスクを装着し、尾白と別れた後、偶然合流した拳藤一佳と鉄哲徹鐵と共に、ガスの発生源を叩く。
「ガスの濃度が濃くなっていますわね……」
走りながら、時崎が静かに呟いた。
「つまり……中心に、個性を発動してるやつがいるってことだな?」
拳藤が確認するように言い、彼女は頷いた。
「ええ、間違いありませんわ」
「おまえら、すげーな!」
鉄哲が関心したように笑いながら走り、そして三人はついにその中心へと辿り着いた。
そこにいたのは、学生服姿にガスマスクをつけた不気味な男。
彼の周囲だけ、濃霧のような毒ガスが渦を巻き、生き物を寄せ付けない瘴気となっていた。
「いたぁぁぁぁぁッ!」
鉄哲が勢いよく突進し、拳を振るう。だが次の瞬間──。
「哀しいね。どれだけ優秀な“個性”を持っていても……人間なんだよね」
低く響いた声と共に、ヴィランが懐からリボルバーを抜き、鉄哲の顔面に銃口を向けた。
発砲音が木々を震わせる。弾丸は鉄哲の硬化した顔に命中し、致命傷にはならなかった。だが、彼のガスマスクは粉々に砕け散る。
「鉄哲さん! 後退を!」
時崎が鋭く叫び、分身を飛ばして彼を後方へ押し退けた。
ヴィランは肩をすくめ、銃口をくるくると回しながら吐き捨てる。
「硬化だか何だか知らないけど、ただの突進なんて勘弁してよ。雄英の生徒なんでしょ?名門校なんでしょ?そんな程度じゃ、殺りがいがない」
再び狙いをつけ、トリガーに指がかかる。
その刹那、時崎の古銃が閃いた。
乾いた銃声が二つ、同時に森に響く。飛来した弾丸と、時崎の放った弾丸が空中で激突し、火花を散らして弾け飛んだ。
深紅の瞳に妖しい笑みを浮かべ、狂三は言い放った。
「わたくしを前にして、銃で優位を取ろうなんて──百年早いですわねぇ」
銃弾が空中で弾け飛んだ瞬間、ヴィランの姿が毒ガスの奥へと揺らめくように消えた。
しかし時崎にはわかっていた。彼は毒ガスを自在に操り、その揺らぎを通じて相手の位置を把握している。
「……なるほど。毒ガスを霧のように纏って、位置を誤魔化すつもりですのね」
細められた彼女の目には、焦りの色はない。むしろ、相手の手口が明確になったことで隙を探しやすくなったと、愉快げに口角を吊り上げる。
「拳藤さん、鉄哲さん、わたくしが動きを暴きますわ。あなた方は……その瞬間を」
時崎は能力を込めた弾を自分に撃ち込む。
毒ガスの奥からヴィランの嘲笑が響いた。
「硬化だから突進はまだわかるけどさぁ……君はバカなのかなぁ?時間を操ったところで、この煙の揺れでバレてるんだよ!」
その声音は、雄英の生徒たちを完全に見下すものだった。
時崎はゆっくりと一歩、また一歩と歩み寄る。黒いブーツが地面を擦るたびに、森の静けさが不気味に破られていく。
「いい事を教えてあげますわ」
挑発を返すような微笑。次の瞬間、ヴィランがリボルバーを構え、引き金を引いた。
銃声が轟き、閃光が毒の霧を裂く。
だが、その弾丸は彼女の頬をかすめることもなく、ただ虚空を切り裂いただけだった。
「当たらなければどうという事はない、ですわ」
軽やかな声とともに、彼女の影が揺れる。ほんの一瞬、とあの身体は時間の流れから切り離されたかのように見えた。
「なっ……!」
ヴィランの顔に初めて驚愕の色が浮かぶ。彼らは雄英体育祭を観ていた。鉄哲徹鐵の《硬化》も、拳藤一佳の《大拳》も、ある程度は理解しているつもりだった。そして時崎狂三も。
だが、彼女の場合は違った。彼女の個性、《刻々帝》──特に【
だからこそ、銃弾を回避された事実は、ヴィランにとって常識を覆す衝撃だった。
(ここからはスピード勝負、もたついてはいけませんわね)
「お可愛いこと──」
彼女は裾を翻し、闇の中を滑るように接近した。毒ガスが濃く立ち込めているはずなのに、その輪郭は揺らがず、まるで影そのものが獲物へ伸びていくかのようだ。
「ぐっ……!」
慌ててリボルバーを構えるヴィラン。だが、次の瞬間にはその手首を狂三の細い指が絡め取っていた。
「こんな重たい玩具……あなたには過ぎた代物ですわ」
低く囁きながら、力強くひねり上げる。骨がきしむ音が響き、ヴィランが呻いた瞬間、リボルバーはあっさりとその手から滑り落ちる。
「いただきますわね」
奪い取った銃を優雅に構え、くるりと回して自分の掌に収める。その仕草は戦闘中であるにも関わらず、舞台女優のように艶めかしかった。
直後、もう片方の手で敵の胸倉を掴み、近くの木に勢いよく叩きつけた。鈍い衝撃音が森に響き渡りる。
「ぐっ……!」
ヴィランが呻き、力なくもがく。しかし時崎はまるで蝶を押し潰すような仕草で押さえつける。
「て、てめ……」
彼女は奪ったリボルバーを、すっと相手の耳の近くへと持ち上げた。耳を撃ち抜くのではない。銃口の向きを耳から外し...
「耳に当てるわけではありません。そこは、ご安心してくださいまし。ただ、音を楽しんでいただくだけですわ」
時崎の微笑は冷たい仮面のように張り付いていた。
「あなたに特別な音をプレゼントですわ。どうか受け取ってくださいませ」
「ひぃぃっ……!?やめ……やめろォォォォォ
!!」
引き金が引かれる。轟音が至近距離で炸裂し、ヴィランは苦悶の悲鳴をあげてのたうった。
「ぎゃあああっ!耳がぁぁぁぁぁ!」
耳の奥を灼かれるような轟音に、平衡感覚すら失って膝を折る。
森に木霊する絶叫。
悲鳴とともに身をよじるヴィラン。ガスマスク越しに見える瞳が恐怖で見開かれ、時崎を直視できない。
銃口を離した時崎は、にっこりと微笑む。
「まだ終わってはおりませんわよ?」
その声音は甘く優しく、けれども確実に地獄を予感させる響きを持っていた。
至近距離で撃ち込まれた銃声の余韻が、まだ森に木霊していた。
ヴィランは耳を押さえ、よろよろと呻く。その隙に時崎は彼の顎を指先で持ち上げた。
「お口を開けてくださること?」
囁く声音は甘美だが、そこに慈悲は一片も存在しない。
抵抗しようと歯を食いしばったヴィランの頬を、時崎は冷ややかに銃身で押し込んだ。ガスマスクを剥がし、力づくで口が開かされる。
「そうですわ……そのまま、よく見てくださいまし」
奪ったリボルバーの銃口を、彼女は素早くとその口腔に差し入れた。黒い穴が喉奥に突きつけられる。ほんの僅かに引き金に指をかけ、時崎が微笑む。
「口の穴が増えて呼吸が楽になりますわねぇ...」
「ひ、ひぃぃっ……!」
ヴィランの全身が震え上がる。毒ガスを操る余裕も吹き飛び、瞳が恐怖に染まっていく。
その一瞬の硬直。
「今だ!」
拳藤が叫び、分厚い拳が一直線に突き出される。同時に鉄哲が硬化した拳で側面から殴り飛ばした。
「「おおおおおおッ!!!」」
両者の打撃が同時に叩き込まれ、ヴィランの体が吹き飛び大地に転がり、リボルバーを奪われたまま呻き声すら上げられなくなった。
狂三は艶やかな笑みを浮かべた。
「ふふ……お二人とも、ナイスですわ」
拳藤は肩で息をしながらも頷く。
「いやいや、時崎が怯ませてくれなきゃ決まんなかった!」
鉄哲も親指を立て、白い歯を見せた
「硬化しててもビビるレベルだぞ、あんた……」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
時崎は彼が完全に気絶したことを確認すると、彼女は無言のままリボルバーを手に取る。
片手で銃を握り、ラッチに指をかけて押し込む。シリンダーが横に倒れ、内部に残された弾丸が露わになる。
時崎はエジェクターを押し、空いたシリンダーから弾丸を床に落とす。冷たい金属の音が森に小さく響いた。