第1話
立っているだけで息苦しくなるような闇が広がっていた。
比喩的な表現なんかじゃない。
その場に居るだけで体力を、精神を蝕んでいく、闇としか形容のできない漆黒の空間だ。
ほんの数時間前まで、どこにでもある、ちょっとカードゲームが生活に根付いているだけの当たり前の日常だったはずだ。
友達と連れ立ってカラオケに行った帰り道。
少しだけ人通りの少ない路地を通るとき。
そのたった二十歩の距離が、無限の闇へと堕とされた。
襲撃者は表情の見えないフルヘルメットの顔をこちらに向けていた。
だけどここはカードゲームを中心に回っている世界。
直接襲い掛かるなんてことはなく、腕に取り付けられたゲームボードを示しながら紳士的に私の準備を待っている。
気の強い友人は真っ先に挑みかかり、返り討ちにあってカードへと姿を変えた。
クールな友人はその情報を元に対抗して、けれど勝利へと届くことはなかった。
それだけだ。
本当にそれだけ。
『カードゲームの世界なら良くあること』という言葉で片付いてしまう、知っていたはずの展開でしかない。
友人達の中で一番強い私なら、勝つことは不可能ではないのかもしれない。
だけど見てしまった。
闇のゲームのダメージは実体化するという、お約束とも言える権能の本当の意味を。
今まで聞いたことのないような悲鳴を上げる友人の姿を。
モンスターの攻撃という名目で弄られ、乙女としての尊厳を破壊し尽くされた彼女達の末路を。
がちがちと奥歯が音を立てる。
勝てる、勝てないなんて話なんかじゃない。
――怖い。
――立ち向かいたくなんてない。
心はそう言っているのに。
頭と身体はこの世界の常識にすっかり染まってしまっていて。
気付かないうちに、意識をするまでもなく、自然な動きでボードにデッキをセットして、シャッフルボタンを押していた。
[双方の合意を確認しました]
ゲームボードから、女性の声でメッセージが流れる。
[勝利の女神ビクトリカの名の下に、ゲームを開始します]
条件反射的に身体が動き、デッキから最初の手札を引き入れる。
[先行は【偵察用アンドロイドtype-un140】に決定されました]
女神様はゲームにおいて公平で、相手が悪者であっても忖度なんてしてくれない。
ルールを護っているのなら、ただ純粋に、見守ることしかしてくれない。
『先行、承認。手札を確認、演算中…………演算中…………』
ひび割れたような機械音声が相手から発せられる。
『先行1ターン目のためドローをスキップ、メインフェーズに移行』
1ターン目から使える対抗札は手元にない。
どうあっても、最初の動きは止められない。
『――バトルフィールド中央に、【うんこまん】を招来』
「いやああぁあああぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!!?」
絶対この世界ホビアニじゃないだろと思わずには居られないモンスターが、異臭を放ちながら招来していた。
世界のどこかに、こう考えた人がいた。
イラストが奇天烈なカードを使えば相手のプレミを誘えるのでは?
世界のどこかに、こんなことを考えた人もいた。
カードの効果が同じならメンタルダメージを狙ったほうが効率的なのでは?
『バトルを継続。【うんこまん・ゲリーベン】でダイレクトアタック』
「【システムエラー・アルタンドフォース】!! バトルを強制的に終了する! ダイレクトアタックも停止よ!!」
その思想は間違いなく正しいものだと魂が悲鳴を上げていた。
今の攻撃は、ゲームの盤面的には通すべきだったのは分かる。
ライフリソースはまだ潤沢に残っているし、あのモンスターには攻撃時の追加効果もない。
相手が使用しているデッキの傾向も透けてきているから、たぶん攻撃を条件に起動するカードを握っているわけでもない。
――だけど無理! 無理なものは無理!!!
あたりには形容し難い異臭が立ち込めている。
こんな環境で大きく息を吸いたくはないから酸欠になりかけているのかもしれない。
既に周囲にはモンスターの攻撃の際に飛び散った飛沫があちこちに滲んでいる。
ゲームが終了した時点でリセットはされるみたいだけど、この服もスニーカーも二度と身に着けたくないくらいには悪臭に呑まれてしまった。
そりゃ有効でしょうよ。
見た目のインパクトでプレミを誘うとかこれ以上ないくらい有効に違いない。
だからって限度があるだろと声を大にして言いたい。
大ならもう飛び散ってるだろうって? ははは、ころちゅ。
カードゲームに限らず、俗にイラストアドと呼ばれる言葉がある。
それは見た目が美しく、可愛く、格好良く、荘厳で。
効果の強弱とは関係なく、ごく単純に見た目が素晴らしいアイテムに贈呈される称号だったはずだ。
が、この世界だと少々違った場合もある。
カードのモンスターや効果は実体化するのだ。
それは闇のゲームに限った話ではなく、通常のゲームでも立体映像によって
普通の感性であれば美しいモンスターと共に闘い、可愛いモンスターをいっぱい支援し、格好良いモンスターの背を見つめ、荘厳なモンスターの一撃で決着を望むだろう。
だがガチ勢は違う。
クソみたいなカードでメンタルを削り、口に出すのも憚られる要素に無駄撃ちをさせ、ダサすぎるモンスターで油断を誘い、いかにも弱そうなカードで止めを刺す。
それがこの世界の上位層が言うイラストアド……なのだそうだ。
やり口は色々あるらしいけど、発想の方向性がガチ過ぎて怖い。
はっきり言おう、それがこの世界のグローバルスタンダードなわけではないと。
普通に可愛いカードや格好良いカードが好まれる価値観であると。
世界ランカーとかそういうレベルのガチ勢の一部が、時としてそんなカードを求めているだけだと。
では目の前のこいつは何か。
悪役の中でも上位の連中はちゃんと格好をつけたカードを使っているらしい。
そいつらは基本的に目的そのものがデッキに込められていることが多いからだ。
そういう事件に巻き込まれたことのある人から実際に聞いたから、そこのところはたぶん間違ってないはず。
だけど、量産型の戦闘員はそうではない。
目の前の偵察用アンドロイドだとかの一般雑魚は、ランカー勢のコピーデッキを与えられる傾向にある、らしい。
当然ながら本人以外に的確に使いこなせるわけではないし、そもそも有名人のデッキと同カテゴリのカードは値段も高いから完全なコピーには至らない……のだけど、イラストアドはそれだけでも刺さる。
カードの強さというのは、レアリティと基礎レベルによって変動する。
コモンよりレアのが、レベル1よりレベル10の方が、強力なステータスや効果を保有しているということだ。
逆に言えば、同じレアリティ、同じレベルであったのなら、ある程度の偏りの差異はあっても総合的な強さはあまり変わらない。
だけどそこに、
同じだけの強さなのに相手のプレイミスを誘える上、見た目の悪さから価格まで安いカードに焦点を当てることは、戦術として十二分に機能するだろう。
『効果の適用を確認、バトルフェーズを終了。サブフェーズ、手札を2枚待機状態に移行。サブフェーズを終了。エンドフェーズ、なし。ターンエンド』
相手のプレイングは、普通だ。
あからさまなミスはないけれど、特別強い動きが出来ているわけでもない。
混ぜ物で独自の強みを出しているわけでもない、教科書通りとも言える攻め方だ。
だけど単純に、私のデッキではかなり相性が悪い。
……だって耐久型のデッキだからどうしても長期戦になるんだよ!
こんな空間に長時間いられるか! 私はおうちに帰らせてもらいたい!
泣きたくなってきた。というか異常な臭気で実際に目から涙が止まらない。
だけどゲームは進行していく。私の尊厳も侵攻されていく。
盛大にカードを無駄にしながらも致命的な相手の動きだけは的確に止めて、破綻したメインプランを捨ててサブブランでじわじわと削り、盤面を詰めていく。
そして最終ターン。
相手の盤面は全て割れていて、ドローで引き込んだカードで完全にチェックになった状況で。
「んん~~? あ、これもう盤面詰めてる感じか」
「えっ」
閉ざされていたはずの闇の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「――
艶やかな飴色の髪を靡かせて、意志の強さを示すようなエメラルドグリーンの切れ長の瞳。
黒を基調とした裾の長いワンピースに身を包んだ彼女は、鼻が曲がる臭気の中でも平然と、けれど油断なく周囲を見回していた。
「晩御飯までには帰るって聞いてたのに、全然帰って来ないし連絡も付かないしで心配したのよ? ま、さっさと終わらせちゃいなさい。焦って詰めを誤らないようにね」
その言葉に、安心して気が抜けかけていたのを改めて引き締める。
既に決まっていた勝利までの道筋を丁寧になぞり上げ、想定外の反撃も起こることはなく、偵察用アンドロイドの敗北が確定した。
[勝敗が確定しました。勝利の女神ビクトリカの名の下に、あなたに勝利と祝福を]
ゲームボードからは女神様の祝辞が流れ、構築されていた空間が音もなく静かに崩壊していく。
漂っていた匂いも同時に消えていく。
空気が……っ! 空気が、美味しいっ!!
肺の中身を全部交換するように大きく深呼吸。
身体に匂いが染み付いていないか心配になったものの、鼻が馬鹿になっている今の自分ではきっと分からないだろう。
帰ったらすぐにお風呂に入って3回くらい全身丸洗いしたい。
一息ついて周りを見てみれば、闇のゲームに囚われた場所と何も変わっていなかった。
友人たちはちゃんとカードから解放され、路地の壁にもたれかかるように身体を投げ出している。
慌てて駆け寄って様子を確認しても、素人の私じゃ眠っているということくらいしか分からない。
「ええっと、こういうときってどうするのがいいんですか……?」
「んん~~、たぶん大丈夫だけど病院に連れてこうか。闇のゲーム案件なら医療費もかからないしね」
いつの間にか電子タバコを咥えていた薫さんからは、優しいミントの香りが漂っていた。
あんな目に遭った直後だからか、普段はちょっと控えて欲しいと苦言を呈している爽やかな煙にも、無性に安心感を覚えてしまう。
あっと思ったときにはもう駄目だった。
友達の様子を確認する為に屈んだままの状態から、そのままぺたりと接地した。
立ち上がろうとしても力が入らない。
今になって、身も心も削るような暗闇に浸されていたことを意識してしまった。
戦えていたのは、ある意味絵面が最悪だったおかげだろう。
悪夢の意味合いを履き違えたような尊厳の危機でなければ、途中でくじけていたかもしれない。
自覚してしまったら、もう駄目だった。
縋りつくように隣に立つ人の裾を掴むのは止められなかった。
「んん~~?」
「薫さん……その、腰が、抜けちゃって……」
「あーもうかわいいなぁっ! よしよし、よく頑張った! おねーさんが褒めてあげよう!」
抱きしめられて撫でられて、ようやく人心地つけたのだろうか。
もう人に甘えるような年じゃないけれど、ミントの香りに包まれながらぎゅっと抱き返したのは、きっと誰かに責められることじゃない。
まだまだ目を覚ます気配のない二人を、小柄な薫さんはよいせよいせと四苦八苦しながら自分の車に座らせる。
眠ったままの彼女たちにシートベルトを締めて、腰を抜かした私も助手席に運び込まれ、いざ発進という段階で。
世界に再び闇が下りた。
「え」
あまりの事態に、思考が止まる。
終わったと思ったのに。
日常に戻れると、考えていたのに。
――識別番号で管理されているようなアンドロイドが、1体な訳がなかったのに。
「あ」
闇の奥から、わらわらとヒトガタの群れが現れて。
それは不自然なほど綺麗に列を成し、先頭の個体が見せ付けるようにゲームボードを構えていて。
パタンとドアが閉じられた音が、私に正気を取り戻させた。
「初めての闇のゲームで疲れたでしょ? ここはおねーさんに任せなさい」
なんでもないかのように薫さんは笑顔でそう告げて、煙をふかしながら軽い足取りで死地へと向かう。
頭が混乱していたのか、ただ疲れていただけなのか、フロントガラスの向こうに見えるその背中に、私は何の声もかけることができないままで。
[双方の合意を確認しました]
勝利の女神は公正だ。
[勝利の女神ビクトリカの名の下に、ゲームを開始します]
ルール違反でない限り、どんな理不尽だって許される。
[先行は【御手洗 薫】に決定されました]
相手が悪者であっても忖度なんてしてくれない。
「んん~~、この手札なら、こうかな」
例えそれが――
「私はバトルフィールド中央に――【うんこまん】を招来するよ」
コピーデッキのオリジナルが相手だとしても。
世界ランク6位、
彼女より強いプレイヤーは、この世界に5人しか存在しない。