濃い霧が地を這うように流れ、空は今にも泣き出しそうな灰色の雲で覆われている。沈黙をたたえたその場所、ファイザバード沼野は、まるで息をひそめているかのような静けさに包まれている。
深い緑の木々は風に揺れることなく、静かにそびえ立ち、ところどころ傾いた倒木が、過去に起こった嵐の記憶を物語っていた。
そんな場所に設けられた野営地は、湿った大地の匂いと、遠くの水鳥の鳴き声に包まれていた。
兵士たちが行き交う中、ジュードたち一行にはひときわ大きな天幕が用意されている。
「お待ちしておりました。こちらが皆様のテントとなります。……もう、お休みになられますか?」
兵士の問いかけに仲間たちは頷き、各々が休息の支度を始めた。
◇ ◇ ◇
野営地の片隅、焚き火の残り火が赤々と煤けた丸太の陰を照らしている。
そこに腰掛け、ぼんやりと薄暗い空を仰いでいる少女がいた。レイアだ。
湿った風が髪を揺らす。けれど彼女の視線の先にあるのは曇天に覆われた空。
どこまでも重く、どこまでも黒い。
胸の内を映したような空の明るさに、思わずため息がこぼれる。
足音が近づいた。
レイアが振り返ると、炎に照らされ現れたのはミラだった。
「レイア?」
「あ、ミラ」
「どうした? こんな所で」
「ううん。何でもない。ちょっと空を眺めてただけ」
「空?」
ミラが見上げる空には、一つの光も見えない。
「別に何かが見たかった訳じゃないよ。……たださ、色んなことが一気にありすぎて、疲れてるはずなのに、全然眠れないって感じ」
「そうか」
「ミラこそ、どうして?」
「ん? いや、私も特に理由はないさ。ただ君と同じで、眠れないってだけだ」
「そっか」
ミラが隣に腰を下ろす。湿った丸太がきしみ、ふたりの間に小さな沈黙が落ちる。
暗い空から吹く風が肌を撫で、遠くで兵士の声が薄っすらと聞こえてきた。
やがてレイアが、膝の上で手をもじもじと組むと、胸の奥に溜め込んだ言葉を、つい口にしてしまう。
「……ね、ねぇミラ」
「どうした?」
「その……ジュードのことなんだけど……」
「ジュードがどうした?」
「その……」
言葉が喉の奥で絡まり、目線が泳ぐ。
伝えたい想いは確かにあるのに、それを口にすれば何かが変わってしまう気がして――レイアは慌てて首を振った。
「……あぁ、うん。やっぱいいや。何でもない」
「そうか」
あっさりとしたミラの返事に、レイアは照れくさそうに肩をすくめた。
だがミラはふと真剣な眼差しを向ける。
「代わりといっては何だが、私も気になっていたことを聞いてもいいだろうか?」
「おっけー♪ 何でも聞いて」
「黒匣(ジン)のこと、何か知っているのか?」
「え……ど、どうして?」
「ル・ロンドでジュードから黒匣の名を聞いた時、これまでの人間と驚き方が違った」
「よく……見てるんだね」
その鋭さに、レイアの心臓が跳ねる。
隠してきたものを見透かされたようで、戸惑いと恐れが胸を締めつけた。
けれど、ミラの瞳はただ真っ直ぐで、糾弾ではなく理解を求めている。
その眼差しに促され、レイアは小さく息を吐いた。
「……わたしね、小さい頃に怪我をしたことがあったんだけど――」
レイアは膝に手を重ね、ぽつりと声を落とした。
その言葉にミラの瞳がかすかに揺れる。
「うむ。ジュードが言っていたな」
「その時の事故の原因が……黒匣だったんだ」
焚き火の赤い火の粉が、暗闇にぱちりと散った。
重苦しい曇天の下、その告白はよりいっそう鮮やかに響く。
「まさか、アルクノア……?」
「どうだろう? よく覚えてないんだ。事故の後遺症なのか、小さかったからなのかはわからないけど……。でもね、誰かが黒匣の暴発で事故が起きたって言ってたのは、ずっと記憶に残ってる」
レイアの横顔は、焚き火の影の中で柔らかく揺れていた。
彼女の声は淡々としていたが、その奥には長い痛みの記憶が隠されているのが分かる。
「おかげで、ずいぶん長い間、その治療を受けることにもなったし」
「そうか……体の方は、もういいのか?」
「全然だいじょぶ♪」
無理に明るい声で笑う。しかし、その後に続いた言葉は、わずかに震えていた。
「……でもね、治る前は何度も諦めそうになってたんだ。治療はすごく痛かったし、全然良くならない日もあって……。いくら治療しても、もう治らないんじゃないかって。何をしても無駄なんじゃないかって」
その吐露には幼い日の絶望がにじんでいた。
ミラは思わず息を呑む。
「君がそんな風に思っていたとは……」
「けどね、その度にジュードが励ましてくれたから私、頑張れたんだ」
「ジュードが?」
「うん。退屈でつらい治療の毎日だったんだけど、ある日ジュードが言ってくれたの。――『僕が医者になってレイアを絶対に治すから、だからレイアも頑張って』って」
レイアの頬が、思い出に照らされるようにほのかに赤らんだ。
「それで、これか」
ミラは懐から小さな手紙を取り出す。レイアがかつて彼に託した、決意の証。
「うん。わたしはそうしてジュードから頑張る勇気をもらったから……だから今度はわたしが、ジュードの力になってあげる番」
「『ジュードが怪我したら困る』『ジュードが医者になれなかったら困る』……すべて、ジュードが理由だな」
「ちょっ! 読み上げないで! 恥ずかしいでしょ。それに、ジュードには絶対言わないでね!」
レイアが真っ赤になって抗議すると、ミラは口元をほころばせた。
「ふふ、そうか。恥ずかしいのか。言われた本人は嬉しいと思うが……人間は複雑だな。ふふふ」
「いいから! ぜーったい言わないでよ!」
「ああ。わかったよ」
安堵したレイアはふっと笑みを浮かべ、そしてまた目を伏せる。
「……だけどね。いっぱいいっぱい失敗する度に気付かされちゃうの。わたし、完全にお荷物になってるな~って」
吐き出されたその弱音は、夜気の中でかすかに震えていた。
「気後れすることはあるまい。レイアは精一杯やっているじゃないか。できるかどうかなど、些細なことだ」
「慰めてくれるのは嬉しいけど……ちゃんとできるのって、とっても大事じゃない?」
「確かに否定しきれるものではないが……やろうとする意志、その心の方が大切だと思う」
「そうかな……?」
「ああ。私はそう信じている」
ミラの声は、曇天の下でも不思議なほど澄んでいた。
レイアはその響きに包まれ、肩の力をゆるめていく。
「……不思議だな。ミラが言うと、そんな気がしてくる。……よ~し! うじうじタイム終わり!」
彼女は勢いよく立ち上がり、空へ拳を突き上げた。
「ジュードがちゃんとお医者さんになれるようにするためにも、さっさとクルスニクの槍を壊さないとね!」
「ああ、期待してるよ」
「というわけで、もう寝ます! おやすみ、ミラ!」
弾むように声を残して、レイアはテントの中へと駆け戻っていった。
残されたのは、炎に照らされるミラただひとり。
曇天の夜空を仰ぎ、彼女は小さく呟く。
「……ジュードが医者を目指せるように、か……」
レイアの言葉を胸の奥で反芻しながら、ミラは焚き火の傍を離れた。
お聞きしたいのですが、1話何文字ぐらいが読みやすいでしょうか?
-
1000文字以内
-
1~2000文字以内
-
2~3000文字以内
-
3~4000文字以内
-
4~5000文字以内
-
5000文字以上