この地の霊勢は比較的安定していたと夜があり、クレインの家の庭には静けさが満ちていた。
虫の声と、木々の間を渡る夜風のざわめきだけが耳に届く。そんな庭を、ミラとローエンがゆるやかに歩いていた。
「すまないな、ローエン。参考になった。剣はアルヴィンに学べるが、精霊術は学ぶ機会がなかったからな」
隣を歩くミラが、珍しく素直に礼を告げる。
「いえいえ。ですが、指導の必要はなかったのではありませんか? 見る限り、精霊術の冴えはすでに研ぎ澄まされているように見えました」
ローエンは穏やかな笑みを浮かべて答えた。
ミラは首を横に振る。
「技術として扱ったことがなかったのでな。今までは感覚だけだったから、学べるのなら学ぼうと思ったまでだ」
「技術を学ばず感覚だけであれほどの力を? ……それはすごいことです」
ローエンの感嘆に、ミラは小さく口角を上げる。
「良ければ、また頼む」
「私などでよろしければ、いつでも」
「ああ。……それはそれとして、ここにはちゃんと夜があるのだな」
空を見つめながら語るミラにローエンは釣られて空を見上げる。
「そうですね。場所によっては夜域や黄昏域といった風に、空が常に同じ場所もありますが、ここは比較的霊勢が安定しておりますので」
ローエンの言葉に腕を組みながらミラは首を傾げる。
「そうか……世精ノ途(ウルスカーラ)に居た時は、リーゼ・マクシアを上から眺めているだけだったからな。こんな状態になってるとは思わなかったぞ」
「……はい?」
そんなやり取りのさなか、ふと視線の先に人影があった。ベランダに腰掛け、黄昏れているのはジュードだった。
「おや? あれはジュードか?」
「何かお悩みのようですな。おそらくはエリーゼさんのことかと。彼の彼女を見る様は、何やら複雑な表情でしたので」
ローエンの推測に、ミラは小さく息を漏らす。
「彼自身のお人好しな性格のせいで悩みが大きくなっているわけか。……ふふ、いかにも人間だな。──仕方ない、少しは気を遣ってやるとするか。おい、ジュ──」
「ここは私にお任せを」
ジュードに声をかけようとするミラを制したローエン。
「お前がか?」
「ええ。こういうものは、男同士の方が良いこともありますので」
「うむ。そういうものか」
「では」
ミラが立ち止まるのを背に、ローエンはジュードのもとへ歩み寄った。
◇ ◇ ◇
「お休みになられないのですか?」
「あ、ローエン。うん、ちょっとね……」
夜気に溶けるように弱々しい声。ローエンは静かに隣に立った。
「何かお悩みですかな? よろしければ相談に乗りましょう」
「うん。ありがとう……でも、なんて言えばいいかな……」
「では、私の予想でも。……エリーゼさんのことではありませんか?」
その言葉に、ジュードの肩がぴくりと動いた。
「え?! あ、うん……わかっちゃう?」
「ふふっ、ええまあ。彼女がこの旅路に加わった経緯は、お嬢さまより伺っておりましたので」
「エリーゼが、ドロッセルさんに話したの?」
ローエンが静かに頷く。
「……エリーゼは、ミラがやろうとしてることとは関係ないから。これ以上巻き込まない方がいいかなって。今回のようなことにもなりかねないし」
「確かに。あのような年頃の子には、少々刺激的なものではありましたでしょう」
「だよね。……だからさ。もしよかったら、この屋敷でエリーゼを引き取ってもらえないかな?」
ローエンは少し目を細めた。
「旦那様のお宅で?」
「うん。エリーゼ、ドロッセルさんとも仲良しだし、クレインさんもローエンも、エリーゼに良くしてくれるから……」
その声音には、迷いと願いが入り混じっていた。
ローエンは、少年の真摯な心を感じ取る。
「ジュードさん、他人である彼女のことをそこまで考えていたのですね」
「ミラやアルヴィンにはお節介、お人好しって言われちゃうけど……それでも、つい……ね」
「ジュードさん……」
しばし沈黙が流れる。庭の風が、二人の間をやさしく通り抜けた。
「本当なら、ご両親を見つける手伝いもしてあげたいところだけど……僕に出来る事なんて少ないだろうし、それにクレインさんの方がそういうのも得意かなって思うからさ」
その言葉に、ローエンは静かに笑みを浮かべる。
「ふふふ、わかりました。このローエンにお任せください。旦那様とお嬢さまには、私からお伝えしておきましょう」
「ありがとう、ローエン」
「どういたしまして。……それでは、もうお休みなさい。夜更かしをすると、また悩みが次々浮かんできますよ」
「そうかもだね。じゃあ、もう寝るよ。ありがとう、ローエン。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
ジュードは軽く会釈して、屋敷の中へ戻っていった。
その背を見送りながら、ローエンはしばし月を仰ぎ、そして小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
ジュードの背が家の中へと消えていくのを、ミラはしばし黙って見つめていた。
「確かに、ジュードの言うように今回の件は予想外だったな」
低くこぼした声は、夜風にさらわれていく。
その表情にはわずかな笑みが浮かんでいたが、すぐに影が差す。
「……あの装置の真意はわからないが、このまま放置していい物ではないだろうし。もはや、猶予はないのかもしれんな」
一方、ジュードのもとから戻ってきたローエンが、穏やかな笑みをたたえていた。
「やはり、エリーゼさんのことを考えていたようですな。旦那様に彼女を託したいと、そう仰られましたよ」
ミラの瞳がわずかに細められる。
「そうか。ジュードは自らに課した責任を、しっかり受け止めていたか」
「賢い子ですね」
「そうだな。それ故に、少し危うさもあるが……」
一度言葉を切り、ミラはわずかに首を傾げる。胸の内にはジュードへの心配と、必要以上に干渉してはいけないという思いが交錯していた。
「……いや。これ以上は私が何か口にすべきではないか」
そんな彼女の顔を、ローエンは優しく見つめる。
「……随分とジュードさんを買っておいでなのですね」
「そうか? 普通だと思うが」
あっさりと返すミラに、ローエンはふっと喉の奥で笑い声を漏らした。
「ふふふっ。なるほど、普通ですか」
小首をかしげるミラ。彼女にはその笑いの含意が理解できない。
「?」
首を傾げるその様子はどこか無垢で、しかし夜の帳に溶けていくように淡かった。
やがてローエンは軽く咳払いし、気持ちを切り替えるように言った。
「さぁ、とりあえず屋敷に入りましょう。うまくいけば明日にでもガンダラ要塞に向かうことができるやも知れませんので。休める時にお休み頂いた方がよろしいかと」
ミラはしばし考え込んだ末、ゆっくりと頷いた。
「……うむ。そうだな。そこは人間の面倒なところではあるが、仕方あるまい」
今度はローエンが逆に首を傾げる番だった。
「?」
だが答えを求めても無駄だと知っているのか、彼はそれ以上問いかけなかった。
静寂が再び庭を包む。夜はますます深まり、月光が淡い銀の衣を二人にまとわせる。やがて彼らは屋敷へと戻り、そのまま闇に溶けるように、夜は更けていった。
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