オトノキザカオニゴッコ   作:如月ミナト

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ホノカノユメ

 ◆

 

 最近変な夢を頻繁に見るようになったことを高坂穂乃果は自覚している。

 それは決まって真夜中の音ノ木坂学院を舞台にした。時計の針が午後十一時を回る頃、人気のない校内の廊下を歩く穂乃果の耳に聞こえてくる無機質な声に、彼女はいつもその身を戦慄させる。

 

『イマカラアナタヲツカマエニイクカラ』

 

 声が耳に入るや否や、穂乃果は脱兎のごとく走り出す。どこで息を潜めているやも知れぬ『敵』に捕まるなどもっての外、捕らえられては何をされてしまうのかなど常人の理解の及ぶ範囲であるかどうかすら不透明である。普段なら喜怒哀楽が常に移り変わる程忙しない彼女の表情はただひとつ恐怖のみを残して頬を引き攣らせ、太陽のような暖かみを感じる瞳には決して似付かない悲哀の雫を湛え、溢れ出したそれは親の意に反する子供のごとく暗闇が支配する廊下に零れ落ちて消えた。

 

『ドコニイルノ』

 

 見えない敵と肥大していくばかりの恐怖心に怯えながらも、穂乃果は漆黒の最中を駆ける。何故自分が得体の知れない何かに追われているのか、そもそもどうしてこんなところにいるのか。夢を夢と理解するには至らない夢の中の穂乃果は息せき切りながら一縷の望みを口にした。

「っ……助け、て……――」

 の、だったが。

(――どうして!?)

 なおも増幅し続ける恐怖の感情が、一気に跳ね上がった。

 言葉が、出ない。

「わ、たし……」

 ――誰に助けを求めようとしたんだっけ……?

 

『ダメヨダメヨ』

 

 それは文字通り、以上の何物でも無かった。

 口にしようとした誰かの名前。それが、声になって表れない。

 

『ワタシイガイハダメヨ』

 

 無機質な声は、その中にどこか穂乃果を嘲笑するかのような含みを持たせていたように彼女には聞こえた。まるで呼べるものなら呼んでみろとでも言いたげだ。

(どうしよ、どうしよ……)

 足を止めることは無く、しかし不意の出来事に思考の方は混線し完全に止まってしまった。浮かび上がって来ていたはずの家族、クラスメイトの名前。そして何よりも大切な八人の女の子の名前。

「**ちゃん」

 大切なはずなのに。

「***ちゃん」

 その名前が一向に口から先に出ることはない。

「**ちゃん……**ちゃん」

 廊下を曲がり、階段を駆け登り、

「***ちゃん、**ちゃん!」

 いまとなっては珍しくも無い空き教室の傍を駆け抜ける穂乃果の、上がるスピードに連れ張り上げられる声量も、しかし肝心な部分を欠いたままで。

「***ちゃん!!」

 夜の音ノ木坂学園内に虚しく響くでもなく、暗闇の中に飲み込まれて、消えた。

「――あっ!」

 ばたん、と言う大きな音とともに、穂乃果の足が止まる。立ち止まることなど許されず、一刻も早くこの場所から逃げ出したいと思う彼女の、その意思とは裏腹に動かない両足はその全てを廊下の面に接し、勢いよく倒れこんだことによる衝撃は体全体を席巻した。彼女が痛みの程を口に出すよりも先にとうとう決壊してしまった涙腺に、穂乃果は嗚咽を漏らす。

「っ……どうひて、っぐ……なんで……!」

 自分だけがこんな酷い目に合い、大切な、大好きな仲間の名前すら呼ぶことができないのか。

「お願い助けて! 助けてよ――!!!!!」

 

 

 ◇

 

 寝苦しさに、穂乃果は目を覚ました。

 暗い室内で寝間着いっぱいに汗を掻き、乱れた呼吸と鼓動の高鳴りに多大な気持ち悪さを覚えながらも、彼女は枕元にある目覚まし時計の時刻を確認する。

『午前三時』

 深呼吸を何度か行い、呼吸を整えた穂乃果は天井を仰いだ。

 夢のない夢を見た、と彼女は思う。しかしそれだけであった。

(思い出せないな、夢の中身)

 変な夢を頻繁に見るようになったことを自覚していようとも、うっすらと記憶に残るのは夜の音ノ木坂を歩く自分の姿と始まりに聞こえる無機質な声のみ。それが連日ともなれば、変だと感じてしまうのは致し方のない部分であった。

 怖い夢であることは承知の上でその中身を思い出したいと言う気はあるが、怖い夢ならばはなから思い出さない方が幸せな気もする――などと、そんな惑いを有耶無耶にし続けることにも多少飽いてきた頃合である。

「ふぅぅ……」

 息をついた。上がっていた心拍数も、時間の経過とともに平常時のそれに戻っている。

(……着替えよ)

 しとどに濡れたシャツのままふたたびの眠りに落ちることは穂乃果でなくとも気が引ける行為であった。

 ベッドから抜け出し新しいシャツに着替えた穂乃果は、洗濯物を出しに行くついでに乾いた喉を潤そうと台所に立ち寄る。汗で流れ出た水分に加え、穂乃果の覚えていない、夢の中で流した心の汗の分をも補給するにはコップ一杯の水を一息に飲み乾す程度では足りなかったようで、二杯目の水も一杯目と遜色ない速さで身体の中へ摂り込むと、先程よりも大きく息をついた穂乃果は満足気に自分の部屋へと戻って行った。

 帰室しすかさずベッドに仰向けになった穂乃果は、右の腕を両の瞼の上へと置き、光を完全に遮断する。室内へと陽が差すことはまだないが、新しい日の活動を始めるまで、およそ四時間の短き間を少しでも無駄にはせず睡眠に充てたいと彼女は思う。

 さりとて心身が必ずしも同調するとは限らず、この日穂乃果が二度目の夢の世界へと旅立つことができたのはもうすぐ陽も差し始める頃になってのことであった。冴えてしまった目は二杯の冷水のせいによるところだろうか、はたまた彼女の深層心理が不可解な夢が再び映し出されてしまうことを拒否したせいだろうか。そんなことは穂乃果自身の判決の及ぶところではなかったのだが、どちらであれど眠れない夜を過ごすことになった彼女は、間違いなくその大部分を占めるだろう後者についてこう思った。

 不可解であるが故に、内容を鮮明に覚えていないだけ良心的で、ある意味残酷だと。

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