転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。 作:菱形の面積
重厚な扉が閉まりヒナビシという名の、どこか掴みどころのない嵐のような男が去っていった後。
ブドランガ商人ギルドの鑑定室には、呆然と立ち尽くす中堅職員のカミュと、腕を組んだまま深く思案顔の鑑定士マルコ、そして、規格外の存在感を放つ5つの木箱だけが残されていた。
「先生。本当によろしかったのでしょうか。あのような破格の値段で……」
カミュは、まだ汗の引かない手で帳簿を握りしめながら恐る恐る尋ねた。10000エルグ。見習い商人が一日で稼いだ金額にしては破格だ。未だに片手で数えられるほどの前例しかない。
「安いわ」
マルコは、カミュの方を振り向きもせず、吐き捨てるように言った。
「あの小僧が、この品物の本当の価値を理解していないことに感謝するべきだ。もし理解していたら、我々は今日の倍額を支払う羽目になっていたやもしれん」
「そ、そんな……」
マルコはこれ以上カミュに説明するのも億劫だというように、木箱の中から最も形の良いシイタケを一つ、上等そうな布で慎重に包み取った。
「カミュ。お前は会計室に報告を済ませろ。金額に対して何か言われたら儂が指示したといえ。その後、この木箱を食料品部門の『固定倉庫』へ。細心の注意を払えよ」
「はい!」
「儂は、少し友人のところへ行ってくる」
そう言うと、マルコはまるで宝物を抱えるようにシイタケを抱え、普段の気難しい表情とは違う、どこか子供のようにわくわくとした足取りで鑑定室を出ていった。
マルコが向かったのは、ギルドの反対側の最奥、ポーションや新商品等を作成する錬金術部門の研究棟だった。そこは、一般の商人が行き交うエリアとは一線を画す、静謐で、それでいて知的な探究心に満ちた空気が漂う場所だ。
目的の研究室の扉をノックもせず開けると、独特の薬草の香りと、澄んだ魔力の匂いがマルコを迎えた。部屋の主は、窓辺に置かれた鉢植えに霧吹きで何かを噴霧している。陽光を浴びてきらきらと輝く銀の長髪、尖った耳。このギルドの錬金術部門を取り仕切る男。エルフのフィリアスだった。
「マルコか。相変わらず、礼儀というものを知らんな、君は」
フィリアスは振り返りもせずに静かな声で言う。
「緊急事態だ、フィリアス。お前の、その澄ましこんだ横っ面をぶん殴るような、とんでもないブツが売られた」
マルコは机の上に持参したシイタケを丁重に置く。その瞬間、フィリアスの動きがピタリと止まった。彼はゆっくりと振り返ると、その薄い翠色の瞳を、信じられないものを見るように見開いた。エルフである彼は人間以上に生命の持つ魔力(マナ)の流れに敏感だ。
「……なんだ、それは」
フィリアスは、まるで聖遺物にでも触れるかのように、震える指先でそっとシイタケに触れる。
「この生命力の奔流は。淀みも、濁りも、一切ない。ただ、純粋な大地の恵みと月の魔力だけが、完璧な調和をもってここに存在している。こんなものが、この地上に……自然に生まれるなど、ありえない」
「そうだ。儂もそう思う。これは、自然の産物ではない。神の気まぐれか、あるいは、未知の魔法の産物だ」
二人の天才は言葉を交わすのも忘れ、ただ目の前の「奇跡」に見入っていた。一人は、百戦錬磨の鑑定士として、その完璧な「品質」に。もう一人は、エルフの錬金術師として、その内包された「力」に。
やがて、我に返ったフィリアスは、研究室の棚からクリスタルのナイフと乳鉢を取り出した。
「少し調べさせてもらうぞ」
「好きにしろ。儂もそれが見たくて来たんだ」
フィリアスはシイタケのひだのほんの一部を数ミリほど削り取る。そして、それを乳鉢に入れ、清らかな水を数滴垂らして静かにすり潰し始める。
すると、信じられないことが起こった。
乳鉢の中身が、淡い、柔らかな光を放ち始めたのだ。それはまるで蛍の光のように優しく、そして力強い生命の輝きだった。
「ああ……」
フィリアスは恍惚とした表情でその光を見つめている。
「触媒も、加熱もなしに、ただのシイタケでこれほどまでの力が解放されるとは……。全てのポーションのレシピが、根底から覆るぞ、マルコ。それだけではない。これから作成されるあらゆる品物が、この素材を起点として製作されることになるだろう。」
「だろうな」
マルコは、満足そうに頷いた。
そこへおずおずと、一人の職員が部屋の入り口から顔を覗かせた。報告を終え、マルコを探しに来たカミュだった。
彼は部屋の中で起こっている神秘的な光景と、普段は気難しい二人の巨匠が、まるで無邪気な子供のようにはしゃいでいる姿を見て、完全に思考が停止していた。
「あ、あの……マルコ先生……? フィリアス所長……?」
「おお、カミュか! 見ろ、これこそ錬金術の神秘! 新時代の幕開けだぞ!」
フィリアスがこれほどの感情を表すところなんて、カミュは未だかつて想像すらできなかった。
「え? あ、はあ……」
カミュには、何が何だかさっぱりわからなかった。だが、とんでもないことが起こっている、ということだけは、肌で感じることができた。フィリアスは、光る液体を一滴指先につけると、窓辺にあった、少し葉が枯れかけていた鉢植えの土に垂らした。すると、枯れていた葉がみるみるうちに青々とした生気を取り戻し、ついには、可憐な白い花を一つ、咲かせたのだ。
「……素晴らしい。だが、こんなことは起きてはならないはずだ」
フィリアスは、その花を愛おしそうに見つめながら、マルコに向き直った。
「このキノコを持ち込んだという商人に、会わせてはもらえんだろうか」
「消すのか?」
「まさか。錬金術の分野が100倍速で発展するんだぞ。いや、錬金術だけではない……あらゆる分野が発展する」
その言葉に安心したように、マルコは息を吸い込んだ。
「残念ながら、素性は一切不明だ。だが、今後もこの奇跡が、我々の元に届けられるかもしれん」
「そうか……」
フィリアスは少し残念そうだったが、すぐに気を取り直したように言った。
「ならば我々も最高の仕事で応えねばなるまい。マルコ、共同でマスターのレーナ様に提言書を出すぞ。この素材の価値を最大限に引き出すための、新しい研究予算と、専門部署の設立を要求する」
「ふん、面白そうだ。乗ってやろう」
二人の老練な職人と研究者は新たな目標を見つけ、再びその瞳に情熱の炎を宿していた。それは、金儲けや、派閥争いといった、俗な欲望とは違う。
ただ、本物に出会えたことへの喜びと、その価値を世に示したいという、純粋な探究心と創造欲だった。ヒナビシが持ち込んだキノコは、ギルドの戦略を揺るがす「資源」としてだけでなく、その道のプロフェッショナルたちの「魂」を揺さぶる、一つの事件にもなっていた。
カミュは、そんな伝説が始まる瞬間を目の当たりにしながら、ただ、早くこの部屋から出て、自分のデスクで仕事をしたい、と心から願うのだった。