転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。 作:菱形の面積
翌日の朝。教えられた通りに中央市場を抜けると街の雰囲気が少し変わった。それまでの喧騒が少し遠のき、代わりに槌を打つ音や、木材を削る匂いが漂ってくる。職人街だ。その入り口に、昨日クロエが言っていた通りの、こぢんまりとした看板が掲げられていた。
「石と木材不動産、ね」
建物はその名の通り、頑丈な石の土台の上に、使い込まれて艶を出す木材で組まれていた。派手さはないが、隅々まで手入れが行き届いているのがわかる。いいねえこういう雰囲気。田舎を思い出す。俺は少しだけ深呼吸をして、木の扉をゆっくりと押し開けた。
カラン、とドアベルが優しく鳴る。
店内は木の温もりに満ちた心地よい空間だった。壁にはいくつかの物件の間取り図らしきものが貼られ、大きな木の机の上には、分厚い書類の束が整然と積まれている。
「いらっしゃいませ」
奥のカウンターから穏やかな声がする。声の主は人の良さそうな笑みを浮かべた、がっしりとした体格の男だった。ところどころに傷跡のある太い腕や指の節くれだった感じが、元大工という話に説得力を持たせている。彼がギリアム氏に違いない。
「こんにちは。商人ギルドに所属しているヒナビシと申します。家を探しておりまして、相談に乗っていただけたらと思ってお邪魔いたしました」
「おお、商人ギルド。それはご丁寧にどうも。私がギリアムです。ささ、どうぞこちらへお掛けください」
彼はそう言って、来客用の丸椅子を勧めてくれた。俺が腰を下ろすと、彼はカップにお茶を注いでくれる。その自然なもてなしに緊張が少しずつ解けていった。ここは信頼できそうだ。
「して、ヒナビシ殿はどのようなお住まいを探しておられますかな?」
「この街についたばかりの流れ者でしてね。住居と仕事場を兼ねられる場所を探しています。できれば、ある程度湿気のある地下室があるとありがたいです」
俺は自分の希望を伝える。地下室で人目につかないようにキノコを栽培出来ればそれに越したことはない。ギリアム氏は黙って俺の話に耳を傾け、時折こっくりと頷いている。
「なるほど、なるほど。地下室付きで、住居兼仕事場ですか。ご予算はお決まりですか?」
一番重要な質問が来た。俺は息を吸い込んだ。
「まだこの街の相場がわからなくて……。ただ、初期費用として、2000エルグほどは用意できます」
前世で20万円。少なくはない金額のはずだ。俺の言葉に、ギリアム氏は少しだけ目を見開いた。
「2000エルグ! それだけあれば十分すぎるほどの物件が見つかりますよ。いやはや、お若いのに大したものですな」
彼は感心したように言うと、カウンターの後ろにある棚から、数冊の分厚いファイルを取り出してきた。
「ふむ……ご希望に合いそうな物件が、ちょうど三つほどありますな。一つずつご説明しますので、まずは見てみてください」
彼はそう言って、手書きの図面を机の上に広げた。
一つ目は、商人ギルドの通り、の裏にあるアパートの一室だった。
「こちらは、とにかく立地が良いです。市場にもギルドにも歩いてすぐ。家賃も月々300エルグとお安いですし、商人になりたての方には人気があります。ただ、部屋は一つで、地下室はありませんな。お安く済ませるならここです」
図面を見る限り、日本のワンルームマンションのような感じだ。悪くはないが、キノコ栽培の拠点とするには不向きだろう。
二つ目は、職人街の奥にある、元々は革細工職人が使っていたという作業場付きの物件だった。
「こちらは一階がまるごと作業場になっていましてね。頑丈な石造りで、小さな地下倉庫も付いています。住居スペースは二階にありますが、少々手狭です。家賃は月々500エルグ。腕利きの職人が集まる場所ですから少々騒がしいかもしれませんが、活気はありますよ」
作業場が広いのは魅力的だ。だが、騒がしいというのは少し気になる。俺のキノコ栽培は、静かな環境で、誰にも知られずに行いたい。人は少ないほうがいい。
そして、三つ目。ギリアム氏がいたずらっぽく笑みを作ってから、自信ありげに広げた図面。
「そして、こちらが私の一番のおすすめです。少し中心部からは離れますが、閑静な住宅街の一角にある一軒家です。元々は薬師の老夫婦が住んでおられたのですが、引退して田舎に帰られましてね。建物は古いですが、非常に丁寧に手入れされています。そして何より」
ギリアム氏は図面の一角を太い指でとん、と叩いた。
「広くて、風通しの良い、見事な石造りの地下室があるんです。薬草を乾燥させたり、薬を調合したりするのに使っていたそうで、温度も湿度も一定に保たれやすい。ヒナビシ殿がお探しの地下室といったら、これ以上ない環境かと思いますが、いかがですかな?」
間取り図を見ると、一階に居間と台所、二階に寝室。そして裏手には、小さな庭までついている。まさに俺が漠然と夢見ていたような家だった。
「家賃は月々800エルグと、少々値は張ります。しかしながら、その価値は十分にあると私は保証しますよ」
月々800エルグ。決して安くはない。だが、今の俺には十分に払える額だ。いや、金銭感覚がマヒしてきた。一戸建て地下室と庭付きで毎月8万!? 激安だろ!!?
「その三つ目の物件を、実際に見せていただくことはできますか?」
俺の心はほとんど決まっていた。ギリアム氏はにっこりとほほ笑んで、俺を先導する。
「さあ、こちらです」
しばらく歩いて、ギリアム氏に案内されてたどり着いたのは、穏やかな陽光が差し込む、静かな路地だった。中心街の喧騒が嘘のように遠のき、どこかの家からか、昼食の支度をする良い匂いが漂ってくる。その一角に、その家はひっそりと、しかし確かな存在感を放って佇んでいた。
ツタの絡まる石壁に、年月を経て深い色合いになった木の扉。屋根には素朴な丸太が被さり、石の煙突が空に向かって伸びている。派手さはないが、温かみのある佇まいだった。
まるでお伽話の世界にきたみたいだぜ。
「おお……」
思わず、感嘆のため息が漏れた。
ギリアム氏は、ポケットから取り出した鍵で、ギイ、と重々しい音を立てて扉を開ける。
「どうぞ、中へ」
促されるままに足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、微かに残る乾燥した薬草の香りが俺を迎えた。そうか。前の住人は薬師だって言ってたな。
中は想像していたよりもずっと広く感じられる。太い梁が渡された天井、磨きこまれた木の床。部屋には、一家を温めてきたであろう石造りの暖炉が鎮座している。
「一階がこの居間兼食堂と、奥に台所があります。井戸は裏庭に。簡単な調理ならすぐにでもできますよ」
台所には素朴なかまどと、石造りの流し台があった。窓からは、緑豊かな裏庭が見える。小さいながらも、陽光がたっぷりと降り注ぐ、心地よさそうな空間だ。日光を浴びて育つキノコがあるとするなら、この裏庭で小規模に栽培してみても面白いかもしれない。
「二階が寝室です。どうぞ、上がってみてください」
軋む階段を上ると、屋根裏部屋のような、それでいて広々とした一部屋があった。斜めになった天井に、天窓が一つ。そこから差し込む光が部屋の隅々までを優しく照らし出している。ここからなら、広がる青い空、そして名前は知らないが高い山の天辺を眺めることができる。
「素晴らしい!」
すんげえ。本当はこう言いたかったが、かろうじて俺の理性が言葉を変換した。もう、この言葉しか出てこなかった。ここにベッドを置いて、机を置いて、ランプも置いて……新しい生活のイメージが、鮮やかに頭の中に広がっていく。
そして、いよいよ本命の場所へ。俺たちは一階に戻り、ギリアム氏が居間の隅にある、もう一つの分厚い木の扉を指さした。
「そして、こちらがご希望の地下室です」
扉を開けると、石の階段が暗い闇の中へと続いていた。ギリアム氏が壁の燭台に火を灯すと、その全貌がぼんやりと浮かび上がる。
階段を下りた先には、驚くほど広大な空間が広がっていた。天井は高く、空気はひんやりと澄んでいる。壁も床も、全てが切り出した石で隙間なく組まれており、外の気温や湿度の影響をほとんど受けないであろうことが、肌で感じられた。壁際には薬草を乾燥させるためのものだったのだろうか、木の棚がいくつも作り付けられている。
ここだ。ここしかない。
俺は直感した。ここが、俺のビジネスの心臓部となる場所だ。この広さなら、栽培用の倒木や畝も、事務作業用の机も、余裕で置けるだろう。何より、この静けさと、外界から完全に遮断された秘密基地のような空間が、俺の心を強く惹きつけた。こういう空間って男の子だよな?
俺は無言で、石の壁にそっと触れてみた。ひんやりとした、硬質な感触。それは、この世界で俺が初めて手に入れる、確かな土台の感触だった。
「気に入っていただけましたかな?」
俺の様子を見て、ギリアム氏が満足そうに微笑んだ。
「はい。……はい! 素晴らしいです。ここに決めます。この家を、借りたいです」
俺は、興奮を隠しきれないまま、はっきりと告げる。
「そうですか! 良かった! この家も、ヒナビシ殿のような方に住んでもらえれば、きっと喜ぶでしょう」
ギリアム氏は、まるで自分のことのように嬉しそうに言う。
そうして他愛もない話をしながら俺たちは不動産屋に戻り、契約の手続きを進めた。
契約書に書かれた言葉は俺には馴染みのないものも多かったが、ギリアム氏が一つ一つ丁寧に内容を説明してくれた。家賃は月々800エルグ。契約時には、敷金として家賃2ヶ月分の1600エルグと、当月分の日割り家賃を支払う。契約期間は一年で、特に問題がなければ自動で更新される。家具はついていないので、自分で揃える必要があること。近隣に迷惑をかけるような騒音や異臭を出さないこと。ごくごく常識的な内容だった。
俺は、生まれて初めてサインをするような気持ちで、ギリアム氏に教えてもらった通り、羊皮紙に「ヒナビシ」と自分の名前を書き込んだ。
「確かに。お預かりいたしました」
手持ちがないからギルドで引き出してきたい、といったときにどんな反応をされるか不安だったが、ギリアム氏はにっこりと笑って「いつでもお待ちしていますよ」と言ってくれた。こういう信頼関係に俺は弱い。
ギリアム氏は金額の処理を終えると、帳簿に何かを書き込み、そして再び家の鍵を取り出して、今度は俺の手にそっと握らせてくれた。
「今日から、あの家はあなたのものです。どうぞ、末永く、大切にしてやってください」
ずしり、と。
手のひらに感じた鍵の重みが、これからの人生の重みのように感じられた。
「ありがとうございます。大切にします」
俺は鍵をしっかりと握りしめて深く頭を下げた。
店を出ると、西に傾いた太陽が街をオレンジ色に染めていた。
俺は寄り道をせず、まっすぐに自分の新しい家へと向かった。さっきまでギリアム氏に開けてもらった扉の前に立ち、今度は自分の手で、鍵穴に鍵を差し込む。少し硬い感触の後、カチャリ、と心地よい金属音が響いた。
扉を開け、中へ入る。誰もいない、静かな家。
だが、そこには不思議な温かみと、安らぎがあった。
俺は大きく息を吐くと、もう一度、全ての部屋をゆっくりと見て回った。がらんとした居間。小さな台所。屋根裏の寝室。そして、ひんやりとした地下室。
その全てが、今日から俺の居場所なのだ。
前世での、先の見えない不安に満ちた日々を思う。あの頃の俺が、こんな素敵な家を、自分の力だけで手に入れることができるなんて、想像できただろうか。
俺は二階の寝室の窓を開け、夕暮れの風を部屋の中に入れた。風に乗って、どこかの家から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
ここは異世界だ。言葉も、文化も、常識も違う。頼れる者もほとんどいない。
それでも、俺はここに、自分の足で立つための一歩を、確かに踏み出したのだ。
夕焼けに染まるブドランガの街を眺めながら、俺は胸の中にじんわりと広がる温かい満足感に包まれていた。
これから、このがらんとした家に、少しずつ生活の道具を揃えていかなくてはならない。ベッド、机、椅子、鍋や皿。考えるだけで、やるべきことは山積みだ。
だが、それはもはや苦労ではない。
新しい生活を、自分の手で一つ一つ作り上げていく、喜びに満ちた作業に違いだろう。
俺の異世界での本当の生活は、この静かな家から、今、まさに始まろうとしていた。
そんなふうに綺麗に締めようとしていたが、腹が鳴った。おなかすいたーん。いまいち締まらねえな。