転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。 作:菱形の面積
ヴァレンテさんとの食事が終わった翌朝。俺は家のベッドで目を覚ました。頭の中にあったのは昨日のヴァレンテさんの講義。つまるところ、俺の今後の身の振り方についてだ。
「(俺にとって水車とはなんだ? 俺には何がある?)」
俺の武器は「キノコ栽培」スキルと、それに付随する「キノコ大百科」だけ。キノコのことなら誰にも負けないはずだ。だが、そのキノコをどう製品にし、どう売るか。この町の法律は? どんな職人がいるんだ? どんな技術があるんだ? 俺はあまりにもこの世界のことを知らなすぎる。
「情報だ」
俺はベッドから跳ね起きた。必要なのは、圧倒的な情報。キノコという「点」の知識を、この世界の経済や歴史という「面」の知識と結びつけなければ、俺は一生キノコを納品し続けるだけの種馬で終わる。もちろんそれでも良いんだが、それだけでは絶対に怪しまれる。高品質なキノコをどこからともなく持ってくる謎の商人なんて、誰もが喉から手が出るほど欲しいはずだ。それこそ、荒事になったとしても。
俺は痛いのも怖いのも絶対に嫌だ。誰だってそうだろ? 俺は安全に、俺一人が幸せに暮らせるだけの稼ぎがあればそれだけでいいんだ。リスクが小さければリターンなんて少なくても構わんさ。
「図書館があればいいんだが」
このファンタジーな町に、俺が知るような近代的な図書館があるとは思えない。だが、知識が集まる場所は必ずあるはずだ。俺は身支度を整えると、商人ギルドへと向かった。相変わらず神経質そうに仕事をするカミュさんを捕まえて聞いた話では、ギルドの組合員専用の「資料室」があるという。灯台下暗しとはこのことだ。
そして、昨日ヴァレンテさんが言っていた「正式な組合員証」ももらった。間違いなく純金でできたそのプレートはずしりと重く、まるで枷のように思えた。こんなの見せびらかして歩いたら追剥ぎしてくださいって言ってるようなもんだ。俺は服の内側にそのプレートをしまい込む。
ギルドの建物の、ひときわ古めかしく、人の気配がしない一角。古い木の扉を押し開けると俺の想像とは全く違う光景が広がっていた。
そこは埃っぽいだけの倉庫ではなかった。静寂が満ち、磨き上げられた床には天窓から柔らかな光が差し込んでいる。そして、空気には古い紙の匂いに混じって、微かに甘い花の香りが漂っていた。部屋の中央にある大きな閲覧机で、一人のエルフの女性が、宙に浮かべた数冊の書物を指先一つ触れずに読みふけっていた。
月光を編み込んだかのような銀色の長髪。人の手によるものとは思えないほど精緻な刺繍が施された深い森の色をしたローブ。そのローブのフードから覗く形の良い尖った耳が、彼女が人間ではないことを示している。すんげえ美人だ。
俺の気配に気づいたのか、彼女はゆっくりと顔を上げる。
宝石のラピスラズリを溶かし込んだかのような吸い込まれそうなほど深い青色の瞳。その瞳は、まるで悠久の時を映しているかのように穏やかで、それでいて全てを見透かすような鋭さがあった。妖艶という言葉が、これほど似合う存在を俺は知らない。この人、エルフじゃなくてサキュバスか何かか?
「人間の子供が、この『記憶の森』に何の用かしら?」
その声は、森の奥の泉の底から響いてくるかのように、澄んでいて涼やかだった。
「失礼いたします。商人のヒナビシと申します」
「あぁ。あなたが噂の『キノコの子』ね」
彼女はふっと笑みを浮かべた。その笑みは、長い長い時を生きてきた者だけが持つ、慈愛と好奇が入り混じった不思議な色をしていた。
「私はオリヴィア。この記憶の森を200年ほど預かっているわ。あなたのような、野心に満ちた若い魂がここを訪れるのは久しぶり。いいでしょう。何を求めにきたのか、聞かせてちょうだい」
試すような視線に、俺は背筋を伸ばし、明確に告げる。
「この街の全てです。歴史、法律、商業の記録、そして偉大な先人たちの足跡。己の無知を埋めるために参りました」
俺の言葉に、オリヴィアは面白そうに、嬉しそうに目を細めた。
「『全て』ですって。ずいぶんと食いしん坊さんね。気に入ったわ。いいでしょう、あなたの知的好奇心、このオリヴィアが満たしてあげる」
彼女に導かれ、知識を巡る冒険が始まった。
最初に俺が求めたのは、ヴァレンテが語っていた「北嶺鋼」の記録だった。オリヴィアは「ああ、あの燃えるような瞳をしていた坊や」と懐かしそうに呟き、古い取引記録が収められた書架へと俺を導いた。羊皮紙の束をめくると、若き日のヴァレンテの署名が記された契約書を見つけた。
「あの頃のヴァレンテは本当に無鉄砲だったわ。誰も見向きもしない黒砂に全財産を投じてね。周りの誰もが、彼を狂人だと笑ったものよ。でも、彼は見えていた。誰にも見えていない『価値』の輝きがね」
200年以上の時を生きる彼女にとって、老獪なサブマスターでさえ、記憶の中ではまだ「坊や」なのだ。一体何歳なんだこの人……。
次に俺は、鑑定士マルコのことに興味を抱いた。「偽りの王冠事件」として知られる顛末が記された記録を、オリヴィアはこともなげに指し示した。
「ああ、マルコ坊やも忘れられないわね。あの時、ギルド中のベテラン鑑定士たちが、王冠が放つ強大な魔力に目が眩み、その見事な細工に心を奪われていた。でも、あの子だけは違った。彼は魔力でも細工でもなく、王冠が刻んできたはずの『時間』の僅かな歪みを見抜いたの。あの子にとって、物はただの物質ではない。一つ一つが記憶を持つ生きた物語なのでしょうね」
彼女の言葉は、マルコという男が持つ能力の本質を、鮮やかに描き出す。
そして、エルフである錬金術師フィリアス。その名を口にすると、オリヴィアは初めて、少しだけ寂しそうな表情を見せた。
「フィリアスは私たちとは違う道を選んだ子」
彼女が示したのは、錬金術部門の古い日誌だった。「今日、森から一人の若きエルフが訪れた。彼は、停滞した同族の伝統を捨て、変化と革新を求めて人間の世界へ来たという。その瞳に宿る探求心の炎は、あまりにも激しく、そしてあまりにも孤独だ」
「私たちエルフにとって、森の時間は永遠にも等しい停滞の中にあるわ。それは安らぎだけれど、変化を望む者にとっては牢獄にもなる。フィリアスは、その牢獄から飛び出した。全てを捨てて、あなたたち人間が持つ、刹那的で、それでいて眩いほどの『進化』の光を求めてね。だから彼は常に飢えているの。まだ見ぬ真理と、世界を変えるほどの『素材』に」
フィリアスの、あの研究に没頭する姿の裏に、そんな壮絶な覚悟があったとは。俺が彼に渡したキノコは、彼の孤独な探求にとって、どれほどの希望に見えたことだろうか。
最後に、俺は最も知りたい、そして最も知るのが怖い人物について尋ねた。ギルドマスター、レーナ。
その名を口にした瞬間、オリヴィアの表情から、ふっと全ての感情が消え、静かな湖面のようになった。
「マスター・レーナは、この森のどんな古い記録にも存在しない『異物』よ」
彼女が案内したのは、歴代ギルドマスターの名が刻まれた石碑と、その業績を記した年鑑だった。二百年の間に、オリヴィアが見送ってきたマスターは十人を超えるという。その誰もが、長い下積みを経て、派閥争いを勝ち抜き、血の滲むような努力の末に頂点に立った。だが、レーナだけは違った。
「ギルドマスター、アーチボルド・ヘンダーソン急逝。後任としてレーナ・ヘンダーソンが就任」
そうか。レーナさんはこの世界に転生して30年と言っていたっけ。おそらく先代ギルドマスターの娘として生まれて、彼女の言う「個人から町、国の需要と供給が確認できる」スキルで商人として無双したんだろう。
レーナさんの名前が初めて出てきた記録はたったこれだけ。だが、年鑑には彼女が就任直後に行った恐るべき改革の記録だけが淡々と記されている。統一された運搬用パレットの導入による物流網の完全な規格化、前世で俺が知る在庫管理システムの導入、敵対ギルドに対する苛烈な経済戦争と、その完全な勝利と吸収。多分彼女は現代日本の経済システムをこの町に導入したんだろう。それも彼女のスキル付きで。めちゃくちゃなことをしている……。
「彼女は、嵐のように頭角を現したわ」
オリヴィアは静かに言った。
「まるで、この世界というゲームのルールブックを最初からすべて知っているかのように、古い大商人たちを次々と打ち破っていった。わたくしは多くの人間を見てきたけれど、あの方のような存在は初めてよ。まるで、この世界とは違う視点から、この盤上を眺めているかのような……そんな目をしているわ」
その言葉は、レーナという存在が、単なる同郷の転生者などではなく、この世界そのもののルールさえ書き換えかねない、規格外のプレイヤーであることを、俺に改めて突きつけていた。
気づけば、窓の外はとっぷりと暮れていた。俺は、知識という名の重い鎧を身に着け、資料室を後にする。頭がパンクしそうだ。
ヴァレンテ、マルコ、フィリアス、そしてレーナ。俺が関わることになった人々が、それぞれに伝説級の背景を持つ怪物であることを、長い時を生きるエルフの口から聞かされた今、俺は完全に迷っていた。
俺はどうしたらいいんだろう?
それから毎日、俺はこの記憶の森に通い続けた。この部屋の全てを読んでみたい。俺はこういう過去の事例とか歴史とかを業務時間中に辿るのが滅茶苦茶好きなのだ。なんてったって給料出るんだからなガハハ。
ちなみに学校の勉強は苦手だった。つらいね。