転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。   作:菱形の面積

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第31話 サキュバスの会計官

「お任せください。最高の素材を、いつでも」

 

 俺が覚悟を決めてそう言い放った瞬間、レーナさんが満足そうに、ポンと手を叩いた。

 

「話が早くて助かるわ。となれば、次の段階に進まないとね」

 

 彼女は、部屋の隅の何もない空間に向かって、涼やかな声で呼びかけた。

 

「リリア、来れるかしら?」

 

 その声に応えるように、空間が僅かに揺らぎ、一人の女性が音もなく姿を現した。ぬっと出てきた、という表現が似合うな。そんな冗談を心の中でつぶやいたが、その容姿を目にしたとき、俺は心底恐怖を覚えた。

 

 腰まで届く、艶やかな深紅の長髪。体の線を完璧に拾いながらも、一切の隙を感じさせない黒のタイトドレス。そして、丁寧に結い上げられた髪の間から覗く、黒曜石のように滑らかな二本の小さな角。

 

 間違いない、本物のサキュバスだ。以前、司書のオリヴィアさんを前にして抱いた感想が、現実のものとして目の前に現れた。彼女のスミレ色の瞳が俺を捉えた瞬間、俺は心臓を鷲掴みにされたかのような、抗いがたい魅了と、同時に背筋が凍るような畏怖を覚えた。男はサキュバスには勝てない。これは古今東西のファンタジーの鉄則だ。

 

「御前に、マスター。それで、この方が?」

 

 リリアと呼ばれたサキュバスは、俺を一瞥すると、その視線をすぐにテーブルの上の「月雫のポーション」へと移した。

 

「紹介するわヒナビシ君。彼女は、この商人ギルドの会計を一手に司る会計官、リリアよ。ギルドの心臓にして、最強の金庫番でもあるわ」

 

 最強の金庫番。その言葉の意味を、俺はすぐに理解することになる。

 

「リリア。フィリアスが我々の新しい『金脈』を発見したわ。この『月雫のポーション』よ」

 

 レーナさんの言葉に、リリアは感情の読めない瞳で小瓶を見つめ、そして、ヴァレンテと俺の方へ向き直った。

 

「なるほど。それで、予算と収益計画は?」

 

 彼女の声は、蜜のように甘く、それでいて剃刀のように鋭い。ヴァレンテやマルコが見せたような興奮や感嘆は一切ない。彼女にとって、この奇跡のポーションは、ただの「数字」にしか見えていないのだ。

 

「ヒナビシくんには、現在ゲッコウダケを暫定価格で納品してもらっている――」 

 

 と、ヴァレンテが口を開きかけた、その時だった。

 

「その契約書なら、先ほど確認しましたわ」

 

 リリアはヴァレンテの言葉を遮ると、俺に向かって、蠱惑的な笑みを浮かべた。

 

「ヒナビシ様。あなたには、このポーションの製造における根幹を担っていただくことになります。つきましては、新たな専属供給契約をギルドと締結させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

「は、はい。もちろんです」

 

 俺は、なぜか彼女に逆らってはいけないという強い衝動に駆られ、頷くことしかできなかった。これが、サキュバスの持つ魅了の力か。ふざけるなよ。いや、契約に不満はないけど! これがもしも連帯保証人とか根保証人の契約だったら大変だぞ!?

 

「結構。では、利益配分ですが」

 

 リリアはそう言うと、隣のヴァレンテに、挑戦的な視線を送った。

 

「ヴァレンテ様。このプロジェクトが生み出す利益は、計り知れません。ですが、その源泉は、ヒナビシ様ただ一人の類稀なる才能に依存しています。彼に正当な対価を支払わなければ、我々の金脈はすぐに枯れてしまうでしょう。売上純利益の、1割を彼に。これでいかがです?」

 

「純利益の1割だと? リリア、自分が何を言っているのかわかっているのか?」

 

 老獪なヴァレンテが、思わず声を荒らげる。ギルドを通す駆け出しの商人に、「純利益の」1割もの利益を渡すなど、前代未聞なのだろう。だが、リリアは微笑みを崩さない。

 

「あら、ご不満ですか、サブマスター? では、彼がもし、他のギルドにこの話を持ち込んだら、どうなるかしら? 四割、いえ、五割を提示してでも、彼を迎え入れるでしょうね。あなたは、目先の利益に目が眩み、金の卵を産むガチョウの腹を裂くおつもり?」

 

 彼女の言葉には、不思議な説得力があった。ヴァレンテは「ぐっ……!」と悔しそうに唸り、やがて、大きくため息をついて引き下がった。あのサブマスターを、理論と、そしておそらくは彼女の種族特性である「説得力」で、完璧に言いくるめてしまったのだ。

 

 最強の金庫番。その意味は、ギルドの資産を守るだけでなく、ギルドの利益を最大化するために、誰よりも冷徹に、そして正確に価値を判断し、交渉する能力にあるのだ。

 

「そういうわけで、ヒナビシ様」

 

 リリアは再び俺に向き直る。「契約書の草案は、明日までにあなたのお宅へお届けします。ご不明な点があれば、いつでもわたくしの執務室へ。……『お待ちしております』わ」

 

 最後にウインクを残し、彼女は現れた時と同じように、音もなく空間に溶けて消えた。

 

 後に残されたのは、圧倒的な才能と権力を持つ怪物たちと、その中心で、ただ呆然と立ち尽くす俺。

 

 リッカさんと進める、少しだけブドランガが良くなる計画。そして、サキュバスの会計官が管理する、商人ギルドの肝いりの巨大プロジェクト。

 

 どうやら俺の異世界生活は、俺が望んだのとは全く違う方向へ、とんでもない速度で突き進み始めているらしい。ここだけの話お金はもう十分稼いだから隠居させてくれないかなと考えるのであった。まる。この句読点くらい綺麗に気持ちの整理がついたらいいのにね。

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