転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。 作:菱形の面積
劣化版の月雫のポーションのお披露目から三ヶ月が経った。ヒナビシとリッカが防音の衝立をついに実用化してギルドマスターの部屋や宿、住宅などに普及させはじめたり、超高性能のマナ・ポーション、本物の月雫のポーションが売り出されたりと、ブドランガの街はかつてない変革の時期を迎えていた。だがその一方で、ブドランガ商人ギルドのサブマスターの執務室では血も凍るような冷たい報告が、静かに行われていた。
「──以上を持ちまして、王都、アイセンタム商人ギルドの事実上の『解体』及び当ギルドへの『吸収』が完了したことを、ご報告いたします」
部屋の闇に溶け込むような黒衣の男、ヴァレンテ直属の特殊部隊「影」の頭領が膝をつき、淡々と告げる。ヴァレンテは、窓から差し込む月光を背負い、男を見つめていた。
「三ヶ月、か。思ったより歯応えがなかったな」
その呟きは誰に聞かせるでもない、絶対的な強者だけが持つ静かな述懐だ。
「全てはヴァレンテ様の描かれた筋書き通りにいたしました」
頭領の言葉と共に、あの壮絶な経済戦争の顛末が、フラッシュバックのように蘇る。
ヴァレンテの計画は、鉄斧ガントレットによる「劣化版のポーション」の宣伝から始まった。王都からは離れた辺境の小さな町、ブドランガで巻き起こった熱狂の噂は、ヴァレンテの「影」たちの手によって誇張され、尾ひれをつけられ、瞬く間に王都の社交界を駆け巡った。「ブドランガに、奇跡のポーションあり」と。
破産寸前だった軍務大臣、ブラドック侯爵は、この噂に飛びついた。彼は直接、アイセンタム商人ギルドの錬金術部門の代表と共にブドランガを訪れ、そしてヴァレンテと対面した。
ヴァレンテはその会談で、一切の交渉をしなかった。ただ、フィリアスが作った「劣化版のポーション」の効果を、彼らの目の前で見せただけ。そして、こう言ったのだ。
「これはこの辺境でようやく完成した我々の試作品。とても王都の方にお譲りできるような大層な代物ではありません」
そのあからさまな「出し惜しみ」こそが、相手の欲望を最大限に煽るための、最高の駆け引きだった。案の定、ブラドック侯爵と王都のギルドは、ヴァレンテの足元を見て莫大な独占契約金を提示してきた。ヴァレンテは、三度、四度とそれを断り、相手が最初の提示額の、実に五倍もの金額を積んだところで、ようやく「侯爵閣下と王家への忠誠心、それに改良中の試作品でありますゆえに、今回限り」と、重々しく契約書にサインしたのだ。
契約書には「試作品のこのポーションのみの独占契約であり、改良品やいかなる派生品についてもこれを含まない」という条文が何度も述べられていたが、熱に浮かされたブラドック侯爵とアイセンタムの錬金術師にはその文字を読み取ることはできても理解することはできなかったのだ。
王都では、「王家御用達」の看板を掲げた「劣化版のポーション」が大々的に売り出された。既存のポーションを遥かに凌駕するその性能に人々は熱狂し、侯爵とアイセンタム商人ギルドは莫大な初期利益を手にした。
彼らが勝利を確信し、祝杯を挙げていた、まさにその夜。
ヴァレンテの第二の矢が、静かに放たれた。
「影」たちは匿名で、しかし潤沢な量の「本物」の月雫のポーションを、王都の市場に流し始めた。価格は、侯爵たちが売る「公式品」と同じ。そして「影」は、こう流布した。
「ブラドック侯爵は金欲しさに偽物のポーションを市場に流したのだ」と。
もちろんこんなことが侯爵の耳に入れば処罰は免れないが、人の口に戸は立てられない。王都中の主婦が、子供が、噂好きの青年が、口々にこの噂を広めていった。
その噂が信頼されるほどのポーションの性能があり、不幸なことにブラドック侯爵は市井の人々からはそれほど好かれていなかった。そして、王都の冒険者たちの不満は爆発した。
圧倒的な性能差。口コミは瞬く間に広がり、人々は「公式品」が、実は性能の劣る「偽物」であると見なした。王都のギルドの前には払い戻しを求める客が殺到。ブラドック侯爵は「王家を騙した詐欺師」として、民衆と、そして彼を快く思っていなかった他の貴族たちからの、猛烈な突き上げを食らうことになった。ブラドッグ侯爵はヴァレンテに説明を求めたが、ヴァレンテは「契約書に書かれている通り、改良中のポーションですので」と一蹴。そうして、ブラドッグ侯爵は二度と言葉を紡ぐことはなくなった。
市場の信用を失い、ブラドック侯爵からの資金提供も途絶え、アイセンタム商人ギルドはあっという間に経営危機に陥った。そこにリリアの配下の金融部隊が動いた。彼らは第三者を装って、アイセンタム商人ギルドが発行していた手形や借用書を、二束三文で買い集めていく。同時に、ヴァレンテの「影」は、給料の支払いも滞り始めた王都ギルドの優秀な錬金術師たちに接触。「ブドランガに新設される、最高の研究施設」という甘い言葉で、次々と引き抜いていった。その次は鑑定士を。そして最後には、有望な職員をも。
そうやって、全ての準備が整った。
ヴァレンテはブドランガ商人ギルドのサブマスターとして、初めて公式に王都のギルドへ「救済」を申し出た。
「貴ギルドの苦境は同業者として見過ごすことはできません。つきましては我々が、貴ギルドの負債を全て肩代わりする代わりに、ギルドごと、我々の傘下にお迎えしたい」
その提案は、もはや瀕死だった王都のギルドにとって、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸だった。彼らは、ヴァレンテを救世主と崇め、その提案に、感謝と共に飛びついた。いや、飛びつくしかなかったのだ。そうでなければ飢えて死ぬのだから。
当然、反発する職員もいた。だが彼らはアイセンタム商人ギルドが管理していた帳簿を調べつくしたリリア率いる金融部隊によって「公にできない金の流れ」を突き付けられて、ブドランガ商人ギルドの憲章と王国の法律によって処断された。
「……見事な手腕、恐れ入ります」
頭領の賞賛の言葉にも、ヴァレンテは表情一つ変えない。彼にとって、この勝利は当然の結果に過ぎなかった。彼は、報告の最後の部分を促す。
「して、我らが『源泉』ヒナビシくんはどうしている?」
その口調には、「駒」に対するそれではない、明確な敬意が込められていた。
「例の木工職人の娘と共に、新しい玩具作りに夢中の様子。こちらの計画には全く気づいておりませぬ。引き続き、警護と監視を行います」
「ああ。警護は続けろ。だが監視はもうよい」
ヴァレンテの意外な言葉に、頭領はわずかに目を見開いた。
「……よろしいのですか?」
「もはやその必要はない」
ヴァレンテは初めて、どこか楽しそうな、満足げな笑みを浮かべた。
「あの男は、我々が思うよりも遥かに速く成長している。彼がどこから来たのかはわからん。商人というのすらも嘘だろう。だが、彼はもはや単なる素材の供給源ではない。自ら考え、学び、そして『価値』を創造しようとする、本物の商人へと変貌しつつある。それも、恐ろしい速さで」
彼は、ヒナビシがリッカと共に進めている防音素材の報告書にそっと指を滑らせた。
「彼が木工職人の娘と、小さな工房で何をしているか、わかるか? あれは遊びではない。私が若い頃『北嶺鋼』を生み出したのと、全く同じことをしているのだ。素材の価値を見抜き、最高のパートナーを見つけ出し、そして、新しい『結果』を生み出そうとしている。私が教えたことを、想像した以上の速さで、自らの力で実践しているのだよ」
ヴァレンテにとって、ヒナビシの「自由研究」は、おままごとなどではなかった。それは、将来、自分と肩を並べるかもしれないビジネスパートナーが、自らの力で最初の成功体験を掴もうとしている、尊い「産みの苦しみ」の現場だったのだ。
「邪魔をするな。存分にやらせてやれ。小さな工房での成功体験は、いずれ彼が我々と同じ、この巨大な盤上で戦うための、最高の糧となる」
「御意」
頭領が闇に消えると、ヴァレンテは一人、執務室の壁にかけられた王国の地図の前に立った。そして、今までブドランガにしかなかった、自らのギルドを示す白い駒を、ゆっくりと、王都の位置に、もう一つ置いた。
その瞳に映っているのは、単なる支配欲ではない。
「ヒナビシくん。君の『奇跡』が、これを生み出した。だが、これはまだ始まりに過ぎん」
彼は、ブドランガの街の、職人街があるあたりを、優しく指でなぞった。
「今はその小さな工房で、存分に夢を追いかけるがいい。君自身の『北嶺鋼』を、その手で生み出すのだ。そしていずれ、君という若き獅子が、私という老いた狐の隣に立つ準備ができた時」
ヴァレンテは地図の上にまだ何も描かれていない、王都のさらに向こう、北側を指し示した。
「その時は、ブドランガ商人ギルドで、この国の『経済』を獲りに行こうではないか」
その呟きは、誰に聞かせるでもない、冷徹なる戦略家が、唯一認めたビジネスパートナーに送る、最大の期待と、そして共に未来を征くための、静かな檄だったのである。