転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。   作:菱形の面積

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閑話 記憶の森での本の雪崩について

 ヴァレンテが仕掛けたアイセンタム商人ギルドの吸収合併は、ブドランガ商人ギルドに空前の好景気と、そして、地獄のような後処理をもたらしていた。

 

 鑑定室では、鑑定士マルコが王都から送られてきたガラクタの山を前に「これはゴミだ!」「これもガラクタだ!」と、血圧が心配になるほどの怒号を連日張り上げている。

 

 錬金術の研究所では、所長のフィリアスが、新しく配属された王都の錬金術師たちのあまりの手際の悪さと知識の浅薄さ、そして傲慢さにその美しい眉間の皺を、かつてないほどに深く刻んでいた。

 

 会計室では、リリアが率いるチームが旧ギルドの杜撰な帳簿と格闘し、一人、また一人と不正経理の証拠を突きつけては、元職員たちを恐怖のどん底に突き落としていた。

 

 ギルド全体が勝利という名の、あまりにも巨大な消化不良に悲鳴を上げていた。ただ一人、その例外を除いては。

 

 ギルドの資料室「記憶の森」。そこは今や、ギルドのどの部署よりも混沌を極めていた。アイセンタム商人ギルドの書庫からすべての資料が、文字通り、山のように運び込まれていたからだ。床から天井まで、羊皮紙の巻物、革張りの古書、バラバラになった写本が無秩序に積み上げられ、本当に足の踏み場もない。アイセンタムとブドランガの若いギルド職員たちが、埃と汗にまみれながら、途方に暮れた顔で立ち尽くしている。

 

 だがその紙の雪崩の中心で、司書であるエルフのオリヴィアはただ一人、至福の表情を浮かべていた。

 

「まあ! なんてこと……!」

 

 彼女は泥水にでも浸かっていたかのように汚れた一冊の古書を、まるで生まれたての赤子でも抱き上げるかのように、そっと両手で拾い上げる。そしてその表紙に積もった埃を、祈るように、優しく吹き払う。

 

「可哀想に。こんなに長い間、埃まみれで寂しかったでしょう」

 

 彼女は、その本の匂いを、うっとりと吸い込んだ。古い紙と、インクと、そして忘れられた時間の匂い。それは彼女にとって、どんな花の香りよりも、甘美な芳香だった。

 

「オリヴィア様! こ、これは、どう整理すれば!?」

 

 若い職員が、泣きそうな声で尋ねる。だが、オリヴィアは、本から目を離さない。

 

「整理? 簡単よ。全て読んで、分類するだけ」

 

 読む? この本の山を? 全て? ギルド職員たちがこの後の地獄を想像したその時、別の地獄から逃げ出してきた二人の男が資料室の扉を、そっと開けた。マルコとフィリアスだ。彼らは、本日共に食事を終えてもそれぞれの職場には戻らず、この静かな聖域で、しばらく魂を癒やそうとやってきたのだ。

 

 だが、彼らの目に飛び込んできたのは、想像を絶する紙の山だった。

 

「オリヴィア。これは何の冗談だ。書物の津波にでも遭ったのか」

 

 マルコの、疲れ切った声に、オリヴィアは、ようやく顔を上げた。

 

「あらマルコ。それにフィリアスも。見てちょうだい、この素晴らしい光景。王都から、たくさんの迷子の『記憶』たちが、ここにやってきたのよ」

 

「記憶だと?」

 

 フィリアスがその美しい顔を盛大に顰める。

 

「私には、誤った知識と、非効率な理論が詰め込まれた、紙の無駄遣いにしか見えんがな」

 

 彼は足元に転がっていた一冊の錬金術の教本を拾い上げ、その内容を一瞥するなり、吐き捨てるように言った。

 

「なんだこれは。『妖精の涙を、満月の夜に三度煮詰めれば、幸運の薬が出来上がる』? 馬鹿馬鹿しい。何もできんよ」

 

「まあ、素敵じゃない」

 

 オリヴィアは、うっとりと微笑んだ。

 

「フィリアス。あなた、勘違いしているわ。この本の著者が本当に妖精を捕まえて、その涙を煮詰めたとでも思っているの? それをやった人なんて、いやしないわ」

 

「何?」

 

「これは錬金術師としての思考実験であり、詩なのよ。あなたは詩を読んで、文法の間違いを指摘しているようなものよ。無粋だわ」

 

「それならば錬金術の教本を名乗らないでほしいものだ」

 

 その時だった。書物の山を迂回しようとした彼の足が、一冊の、何の変哲もない革張りの手記を蹴飛ばしてしまった。散らばったページに書かれた、古いエルフ文字の化学式。それを見た瞬間、フィリアスの動きが、完全に、止まった。

 

 彼は、まるで宝物にでも触れるかのように、震える指先で、そっとその手記を拾い上げる。

 

「なんだそれは」

 

 マルコが、訝しげに尋ねる。

 

「嘘だ。ありえない……。この式は……この筆跡は……!」

 

 フィリアスの、常に冷静沈着だったはずの声が、明らかに、上ずっていた。彼は、憑かれたようにページをめくり、そして、ある一点を見つめたまま、完全に、沈黙した。

 

「おいフィリアス、どうした?」

 

「これは、アリステア様の……私の師の師が残した、直筆の研究日誌だ……王都の戦火で焼失したと思っていた……まさか無事だったなんて……」

 

 その名は、エルフの錬金術の歴史において、伝説として語られる大賢者の名だった。フィリアスは他の書物を無造作に払い除け、床に座り込むと、まるで世界に自分とこの手記しか存在しないかのように、食い入るように、その文字を貪り読み始めた。森を捨てた彼が、皮肉にも、人間の起こした戦争によって、自らの「源流」と、再会した瞬間だった。

 

 オリヴィアは、その姿を、微笑ましそうに眺めている。

 

「あらあら。ヴァレンテの戦争もたまには良いことをするものね。失われたはずの『故郷』が、思わぬ形で、あなたの元へ帰ってきたわ、フィリアス」

 

 マルコは、その光景を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。一人は、紙の山に埋もれて幸せそうなエルフ。もう一人は、床に座り込んで、古文書に魂を吸い取られているエルフ。

 

「わしの癒やしはどこにある」

 

 彼は、誰にも聞こえないように深いため息をつくと、二人のエルフをその紙の楽園に残したまま、静かに、そして、そっと、資料室の扉を閉めたのだった。

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