転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。 作:菱形の面積
俺は一人、少し火照った体を冷ますために、夜のブドランガを散策していた。
熱狂は夜になっても冷めることを知らない。酒場からは陽気な歌声が漏れ、大通りには、富を得た冒険者や、彼らを相手にする商人たちでごった返している。この街の誰もが、未来への希望に満ちているようだった。
(俺一人を除いては)
俺は、この熱狂の渦の中心にいるという事実に、未だに慣れることができずにいた。ふと、一人になりたい衝動に駆られ、大通りを外れて、静かな裏路地へと足を踏み入れる。
その時だった。前方の闇の中から、幽鬼のような足取りで、大量の羊皮紙を抱えた、見慣れた人影が現れた。
「……カミュさん?」
俺が声をかけると、神経質そうな眼鏡の男、カミュさんは、びくりと肩を震わせて顔を上げた。街灯の頼りない光に照らされたその顔は、疲労で真っ青になっていた。
「ヒ、ヒナビシ殿! なぜ、このような夜に……」
「少し散歩を。それより、カミュさんこそ。今帰りですか? その書類の量は尋常じゃない」
「はは……」と、彼は力なく笑った。「仕事が終わらないのです」
なーーーにいってんだ???
俺は、元サラリーマンとして、強烈な罪悪感と、そして、それ以上の親近感を覚えた。
「カミュさん。もし、まだ夕食を摂られていないのなら、一緒に食べていただけませんか? いつも、無理ばかり、お願いしていますから」
「そ、そんな! とんでもない! ヒナビシ殿のような偉大な方と、私のような末席の者が、食事など!」
彼は、恐縮して、ブンブンと首を横に振る。だが、そのお腹が、ぐう、と、実に正直な音を立てた。俺は、思わず笑ってしまう。
「偉大なんかじゃありませんよ。ただの、腹を空かせた仲間じゃないですか。行きましょう」
俺は、半ば強引に、彼の腕を取った。
俺たちが向かったのは、冒険者たちが集う喧騒の酒でもなく、「黄金のさじ亭」のような高級レストランでもない。ギルド職員たちが、仕事終わりに、静かに一杯やるような、小さな、居心地の良い食堂だった。
熱いシチューと、焼きたてのパンを前にして、カミュさんは、まるで、何年かぶりにまともな食事にありついたかのように、夢中でスプーンを動かしていた。貪る、ってのはこういう風に言うんだろうな。
「申し訳ありません、ヒナビシ殿。あまりの空腹に、つい……」
「いいんですよ。気にしないでください。それだけお忙しいということでしょう? 私の仕事無茶を聞いていただいてありがとうございます。最近のギルドはどんな感じですか?」
俺がエールを一口飲むと、少しだけ饒舌になったカミュさんが、ぽつり、ぽつりと、日頃の苦労を語り始めた。
「ええ。マルコ先生は、王都のガラクタを前に、毎日、雷を落としておられますし、フィリアス所長の研究室は、新人の失敗で、日に三度は爆発が起きているとか……。リリア様の会計室だけは静かですが……あの静けさが、一番、恐ろしいのです」
彼は、一気にそこまで言うと、はっと我に返り、慌てて口を噤んだ。「も、申し訳ありません! ギルドの、内部事情をグチのように……!」
「いいんですよ」と、俺は笑った。「俺も、前世では、似たようなものでしたから。怪物みたいな上司たちに、無茶な納期で、仕事を振られてね。あの頃は大変だったなあ」
「ぜ、前世……?」
「ああ、いえ、前の仕事での話です」
俺は慌てて誤魔化しながら、続けた。「カミュさんは、本当にすごいですよ。あの怪物たちの中で、毎日、きちんと仕事をこなしている。俺には、とても真似できません」
俺の、心からの言葉に、カミュさんは、きょとんとした顔で、目を瞬かせた。
「……何を、おっしゃるのですか、ヒナビシ殿」
彼は、まるで、信じられないものを見るかのように、言った。
「あなた様こそ、我々ギルドの、希望の光ではありませんか。あなたの『契約』と『コンプライアンス』の提言は、旧態依然としていた我々の業務に、革命をもたらしました。あなたの『市場を育てる』という思想は、目先の利益しか見えていなかった多くの商人たちの、目を覚まさせました。そして、何より……」
彼は、声を震わせた。
「あなた様は、あの、マルコ先生と、フィリアス所長を、心の底から、楽しそうにさせた、唯一の商人なのです。あのお二人が、子供のようにはしゃぎながら、あなたのキノコや、あなたが繋いだ職人の話をするのを、私は、この目で見ました。……あなたは、ただ富をもたらしただけではない。我々ギルドに、失われかけていた『誇り』と『情熱』を、取り戻してくださったのです」
その、あまりにも過剰な、そして、あまりにも真摯な評価に、俺は、言葉を失った。俺はただ、自分が縛り首になるのが嫌で、少しばかり、前世の知恵を使っただけだ。それなのに、この実直な男の目には、俺が、まるで、伝説の英雄のように映っているらしい。
「……買いかぶりすぎですよ、カミュさん」
俺は、照れ臭さを隠すように、エールを飲み干した。
「ですが、一つだけ、アドバイスを。あまり、根を詰めすぎないでください。完璧な仕事なんて、誰もできません。大事なのは、今日、家に帰って、温かいベッドで、眠ることです。どんな仕事も、あなたの命より、重いものなんて、ありませんから」
それは、前世で、俺自身が、過労で倒れた俺に、誰かに、かけてほしかった言葉だった。
俺の言葉に、カミュさんは、しばらく、呆然としていたが、やがて、その眼鏡の奥の瞳から、ぽろり、と、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう、ございます。ヒナビシ、殿……」
その夜、俺たちは、もう、上司と部下ではなかった。ただの、仕事に疲れた、二人の男として、夜が更けるまで、静かに、酒を酌み交わした。
帰り道、カミュさんの背中は、来た時よりも、少しだけ、軽く、そして、温かく見えた。俺は、そんな彼の背中を見送りながら、少しだけ、思う。
のんびり暮らしたい、という俺の夢は、まだ、遠い。だが、こうして、誰かの、ほんの少しの、助けになるのも、案外、悪くないのかもしれないな、と。