転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。 作:菱形の面積
ブドランガ商人ギルド。深夜の静寂に包まれた執務室で、カミュは一人書類の山と向き合っていた。デスクの端に置かれた魔石ランプが、彼の知的な横顔を淡く照らし出している。
窓の外には壮麗な夜景が広がっているが、彼の瞳がそれを映すことはない。
ペンが紙の上を走る微かな音だけが、等間隔で室内に響く。
カミュは時折、無意識に左の掌を見つめる癖があった。今は白く清潔で、ペンだこ以外に汚れ一つないその手。だが、彼の鼻腔には、今も消えない「匂い」がこびりついている。
それは雨上がりの泥濘と、腐敗した生ゴミ、そして死にゆく者が放つ、独特の饐(す)えた匂いだ。
カミュはブドランガから少し離れたカリプソという都市の最底辺、陽の光さえも差別される「スラム」で生まれた。
そこは繁栄の影に隠された、この世の終わりを凝縮したような場所だった。
幼い頃の記憶といえば、常に付きまとっていたのは「空腹」という名の、実体を持たない怪物だった。胃袋が自分の内臓を鋭い牙で噛み千切るような、あの焼けるような激痛。呼吸をするたびに、肺が萎(な)えていく感覚。
道端の泥にまみれて落ちているカビの生えたパンの破片を、泥を払う時間さえ惜しんで喉に押し込んだ。下水に浮いている腐りかけの野菜の芯を、ネズミと殺し合いに近い勢いで奪い合った。
どんなに自分が泥を啜っても、守りたいものがあった。
「兄ちゃん……お腹すいたよ……」
薄汚れた布切れの上で、骨が浮き出るほど痩せ細った妹がかすかな声を漏らす。彼女の頬は削げ落ち、肌は土気色を通り越して、まるで透けるように白くなっていた。
大きな瞳だけが、落ち窪んだ眼窩の中で、弱々しく光を求めて彷徨っている。カミュは、自分の分の泥水のようなスープをすべて彼女に与えたが、そんなものは焼け石に水でしかなかった。
当時の彼にとって、食べ物とは正当な手段で手に入る「報酬」などではなく、天から降ってくる気まぐれな「奇跡」でしかなかったのだ。
ある雨の日のこと。限界を超えた空腹に耐えかねたカミュはスラムを抜け出し、街外れの森の入り口へ向かった。
そこで見つけたのは、切り株に群生する、宝石のように美しい深紅のキノコだった。
「(これなら……これを持ち帰れば、あの子はまた笑ってくれるだろうか)」
震える指先が、そのキノコに触れようとした瞬間。
「坊主、死にたいのか」
背後から響いたしゃがれた声と共に、無骨な手がカミュの襟首を掴み上げた。
通りすがりの、身なりの汚い老冒険者だった。
老人はカミュが掴もうとしたキノコを忌々しげに見下ろし、足で踏みつけるとそのまま踏みにじった。
「そいつは『紅蓮茸(グレンタケ)』だ。食えば一時は腹が膨れるだろうが、一時間後には内臓をすべて溶かし、目や耳から血を流して苦しみながら死ぬことになるぞ」
カミュは、絶望のあまりその場にへたり込んだ。
「貧乏人にとって野生のキノコは『幸運の御馳走』か『死の招待状』のどちらかだ。そして知識を持たぬ弱者が手にするのは、決まって後者なんだよ」
老人は鼻を鳴らし、懐からカチカチに乾燥した、干し肉の端切れを投げてよこした。
「せいぜい長生きしろよ。死んだら肉も残らねえスラムのネズミ坊主」
カミュはその肉を拾い上げ、狂ったように齧り付いた。
そして、その肉を半分だけ口に含み、残りを大切に抱えてスラムの家へと走った。
雨に打たれ、ぬかるんだ泥に何度も足を取られながら、カミュは心の中で叫び続けた。
「(待ってろ、今食べ物を持っていくから! これを、これを食べれば、またお前は起き上がれる。一緒に春を、暖かい太陽を見られるんだ!)」
胸を締め付ける予感を打ち消すように、泥を蹴って走った。
だが。
カビ臭いボロ布が垂れ下がるだけの「家」に飛び込んだ瞬間。
カミュの動きは、凍りついたように止まった。
執拗な雨音を遮った室内には、この世で最も残酷な「静寂」が満ちていた。
「……あ…………」
カミュの喉から、空気だけが漏れる。
部屋の隅、湿った藁の上に丸まって横たわる小さな影。
妹の瞳は、半分開いたまま、どこにも繋がっていない虚空を見つめていた。
「おい……。持ってきたぞ。肉だ。すごいだろ、本物の肉だぞ……」
カミュは這いずるように彼女の傍らに寄り、震える手で干し肉を差し出した。
「ほら、食べてくれ。少し硬いけど、噛めば味がするんだ。頼むから……一口でいいから……」
返事はない。
カミュは彼女の細い肩を揺すった。触れた瞬間、指先から伝わってきたのは、生きている人間が持つべき温もりではなかった。
冷たい。
降りしきる雨よりも、踏み越えてきた泥濘よりも、残酷なまでに冷え切っている。
「嘘だ……嘘だろ……食べろよ! 今までずっと我慢したじゃないか! あと少し、あと数分だけ待てばよかっただけじゃないか!!」
カミュは絶叫し、無理やり彼女の冷たい唇の間に、干し肉をねじ込もうとした。
だが、力なく開いた口からは、熱い吐息すら漏れてはこない。
ボト、と肉の塊が泥にまみれた床に落ちた。
その時、彼は見てしまった。
妹の小さな掌の中に、握り締められていたものを。
それは、カミュが「お守り」だと言って渡した、ただの木の枝だった。
彼女は最期まで、兄が帰ってくるのを信じて、その枝を握り締めながら一人で、飢えの苦しみの中で、絶望を飲み込んで死んだのだ。
「……ぁ……、ああぁぁぁ……っ!!」
カミュの慟哭が、スラムの狭い部屋に響き渡る。彼女を殺したのは、病でも、不運でもない。
「空腹」という名の、あまりにもありふれた、そして避けることのできたはずの暴力だ。カミュは冷たくなった骸を抱きしめ、泥と涙で汚れきった顔を彼女の首筋に埋めた。
そこで鼻を突いたのが、あの「饐えた匂い」だった。
内臓が活動を止め、命が腐敗へと移り変わる瞬間の、逃げ場のない臭気。それはカミュの魂を焼き、一生消えない呪いとして刻印された。
それからカミュは、文字通り死に物狂いで這い上がった。
スラムを抜け出し、商人ギルドの雑用係として拾われ、寝る間を惜しんで読み書きと計算を覚えた。先輩職員からの差別的ないじめも、泥水を啜るような侮辱も、彼にとっては空腹の痛みに比べれば羽毛のような軽さだった。
彼は「自分を飢えさせた世界」への復讐を誓い、同時に「二度と誰にも飢えさせない力」を求めた。
泥を拭い、上質な服を纏い、やがて彼はギルドマスター・レーナの信頼を勝ち取り、幹部という「椅子」を手に入れた。
だが、どんなに贅を尽くした料理を口にしても、彼の喉を通り過ぎるのは「虚無」の味だけだった。どれだけ金を稼いでも、あの日の妹に肉の一片すら食べさせてやれなかったという後悔は、毒のように彼の血を巡り続けていた。
そんな時だ。
あの、「ヒナビシ」という青年が、あの『栽培マニュアル』をこの街に持ち込んだのは。
最初は憎悪すら覚えた。
「誰でも、どこでも、安価に、そして確実に、栄養価の高い食糧を生産できる」
そんな奇跡が、なぜあの日に間に合わなかったのか。なぜ彼女は、たかが数枚の硬い肉すら食べられずに死ななければならなかったのか。
だが、実際にヒナビシが広めた「シイタケ」を、カミュは自分の手で調理し、口にした。
フライパンの上で跳ねる、香ばしい香り。溢れ出す、濃厚な旨味の汁。
それは、カミュの凍りついた記憶を、静かに、しかし力強く溶かしていくような味だった。
「……これだ」
カミュは一人、暗いキッチンで呟いた。
「これがあれば……あの冒険者が言った『死の招待状』を、文字通り『生への切符』に書き換えられる。もう二度と、あんな思いをする子供を……出さずに済む」
それはカミュにとって、利益を生むための商品などではなかった。
かつての自分や、あの日死なせてしまった妹のような子供たちを、泥濘の中から救い出すための、「蜘蛛の糸」だったのだ。
ペンを置いたカミュは、眼鏡を外して目元を押さえた。
執務室の窓を叩く、雨の音。
あの日と同じ雨だが、今のカミュの目の前には、未来の設計図がある。
ヒナビシという青年は、自分の知らないところで世界を書き換えている。
彼はただ無邪気な願いだけで動いている。
だが、それでいい。その光が眩しすぎるなら、自分がその影となればいい。
その理想を現実のシステムに落とし込み、利権を整理し、物流を支配し、反対勢力を沈黙させる。
泥臭い仕事も、冷酷な決断も、すべてはカミュの役割だ。
「……カミュさん、まだ働いてるのか。根詰めるのもほどほどにしろよな」
不意に、廊下から夜勤の職員の暢気な声が聞こえた。
カミュは返事をせず、再び書類に目を落とす。
彼らが寝静まっている間も、カミュの戦いは続く。
この「キノコ事業」を、単なる流行で終わらせるわけにはいかない。
それは、ブドランガから、そしてこの大陸のあらゆるスラムから、「飢え」という概念を消し去るための聖戦なのだ。
デスクの隅に置かれた、冷めたキノコのソテー。
夜食にと事務官が置いていったものだが、カミュはそれを一口、ゆっくりと噛み締めた。
旨味と共に、喉の奥に熱いものがこみ上げる。
「(お前が食べられなかった味を、俺は世界中に広めてみせる。たとえ俺のこの体が朽ち果てても)」
カミュの瞳に宿るのは、かつて空腹に震えていた少年の弱々しい色ではない。
それは、数万、数十万の命を救うという業を背負った、一人の「怪物」としての、激しく燃え盛る情熱だった。
レーナは、さらなる権威と繁栄のために。
ヴァレンテは、ギルドの盤石なる統治のために。
だが、カミュは、たった一つの、饐えた臭いのする記憶のために。
彼は再びペンを握り、帳簿という名の「救済の地図」を刻み続けていく。
夜明けは、まだ遠い。
だが、カミュの胸の中では、どんな暗闇にも負けない、白き菌糸のような希望が、確実に、そして静かに根を張り巡らせていた。