狐のお姉さんが少年を誑かすお話 作:ハトポ
──その夜、山は息を潜めていた。
ざわめく風の音もなく、木々はしんと凍りついたように佇んでいる。ただ月明かりだけが崩れかけた石段を照らし、僕の足元を導いていた。
あの日の記憶が、胸の奥で熱を帯びている。泣きながら迷い込んだあの神社。そこで出会った、真っ白な耳と尾を持つ女性──白織様。
今夜、僕はその人に会うために来た。いや、会うだけじゃない。この想いを言葉として伝えるために。
境内は長い時間に晒され、屋根瓦は崩れ、拝殿は蔦に覆われている。けれど、その廃墟めいた空間の中に、彼女は静かに佇んでいた。月光を背に受け、白い髪と狐の耳が淡く光を放つ。
目が合った瞬間、胸がドキリと高なった。ここにくるまでにイメージトレーニングは散々してきたのに、喉は渇き、言葉が出てこなかった。
けれど、今更逃げるわけにはいかない。僕は彼女の前に立ち、震える声を必死に張り上げた。
「一目惚れしました! 僕と、結婚してください!!」
森を渡る風すら止まったような静寂。
次いで、白織様はぱちりと瞬きをし、ふっと唇をゆるめた。
「ほう……? ワシと結婚するとな?」
低すぎず高すぎぬ声音。まるでからかうような、けれども真剣さを見透かす眼差し。
僕はごくりと唾を飲んだ。
「残念じゃが、ワシは婚姻という法的制度は利用できぬぞ?」
彼女は顎に手を添え、月を仰ぐ。
「ふむ……要はワシと契りを結びたいということか」
「えっと……よくわからないけど、とにかく……あなたに一目惚れしてしまったんです」
言葉が拙いのはわかっている。それでも、胸の奥からあふれる熱は、どうしても抑えられなかった。
白織様は、喉の奥で小さく笑う。
「人間の小僧が、面白い戯言を言うもんじゃな」
狐の耳がぴくりと揺れ、彼女の瞳が僕の姿を映して煌めく。
「いいじゃろう。暇つぶしにちょうど良さそうじゃ」
「……っ!」
心臓が跳ね、言葉を失いかけた僕の耳に、しかしすぐさま追加の言葉が突きつけられる。
「じゃが、条件をいくつか出そう」
「条件……?」
彼女は一歩近づき、僕を覗き込む。柔らかな香りと、どこか懐かしい温もりが鼻先をくすぐった。
「ひとつ。三日に一度、必ずワシのもとを訪れること。一度でも破れば、二度と会わぬ」
淡々とそう告げるその声音に、僕は声を出すこともできず、そっと続きを待つ。
「ふたつ。七十歳まで、決して他の女と交わらぬこと」
美しい声が僕の耳をくすぐる。その声が孕んだ魔力に、彼女が妖であることを意識させられる。
「みっつ。常に賢く、他者に優しき人間であること」
月明かりの下、白織様の尾がふわりと揺れた。
「これらを守った上で──七十になったら、お前を不老不死にしてやろう。それでもよいなら、その暁に……主の番になってやろう」
夜の帳が、僕ら二人を包み込む。
その宣告は冗談めいているのに、同時に抗えぬ真実味を持って響いた。
七十歳まで。僕の一生を縛るには、あまりにも重たい言葉。けれど、それを差し引いても──僕の心はただ一つの答えしか知らなかった。
「……はい」
震える声で、それでもしっかりと。
「お願いします。僕は、その約束を守ります」
白織様の唇に、意味深な笑みが浮かんだ。
その夜、僕と彼女との運命が、確かに結ばれたのだ。