狐のお姉さんが少年を誑かすお話 作:ハトポ
その日の昼下がり、僕はいつものように裏山の小道を駆けていた。七歳の夏、田んぼの緑が風に揺れ、遠くで虫の声が響くような、程よい田舎の風景だ。
空はどこまでも青く、雲はふわふわと浮かんでいて、それだけで絵になるような景色だった。
近所の子どもたちは家で宿題をしているらしく、外には僕一人しかいなかった。
僕はまだ七歳になってすぐ。好奇心ばかりが大きく、叱られることも忘れて山の奥へと足を運んでしまったのだ。
小さな虫取り網を手に、追いかけていたのは一匹のシマリスだった。ぴょんぴょんと跳ねながら動くその姿につい興味を惹かれて、周りも見ずに追いかけてしまった。
「待ってよ……!」
声を上げて駆ける。草むらをかき分け、石段の側を通り、細い獣道へと分け入っていく。
気づけば、見慣れた山裾の景色はもう消えていた。
どれほど走ったのか。息を切らして立ち止まった時、シマリスはとうに見失っていた。辺りを見回しても、見覚えのある道はない。
高い木々が陽を遮り、昼なのに薄暗い。鳥の鳴き声すら聞こえず、代わりに耳にまとわりつくのは風に揺れる葉音だけだった。
「どこ、ここ……?」
胸の奥に冷たいものが広がった。ほんの少し前まで家の近くにいたはずなのに、いまは完全に迷子だった。
「やばい……迷った……」
ポケットに入れていたハンカチを握りしめながら、来た道を戻ろうとしたけど、どっちが来た道なのか、さっぱりわからなかった。
不意に涙がこみあげてくる。いつもなら友達の笑い声や、遠くで母さんの呼ぶ声が聞こえるのに、今は何もない。
一度意識してしまうと、余計に心細さが胸に広がった。
木の根につまずいて転びそうになり、膝を擦りむく。痛みがじんわり広がって、目頭が熱くなった。
「うっ……うぅ……」
でも、ただ立ち止まっていることもできなくて、方角もわからぬまま、前へと歩き続ける。何かの偶然で、知ってる道に辿り着かないかと期待して。
だが、視界に入るのは見慣れぬ獣道のみ。上を見れば、段々と空の色が変わりつつあるのがわかった。
涙がこぼれそうになった瞬間、ふと、目の前に開けた空間が見える。木々の隙間から、崩れかけた石の鳥居が姿を現した。
苔むした石段がその先に続き、まるでそこだけ時間が止まったような、不思議な静けさが漂っていた。
参道を歩いていくと、そこにあったのは廃墟のような神社だった。屋根瓦は欠け、拝殿は蔦に覆われている。
その景観は寂しげで、でもどこか神聖な空気が流れていた。
僕はハンカチで目をこすりながら、ゆっくりと石段を登った。誰もいるわけないのに、そこに行けば誰かいるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていた。もしかしたら助けてもらえるかもしれない。そんな思いで廃神社へと歩いていく。
足元で石がカツンと鳴り、風がそっと頬を撫でた。境内に入ると、ひんやりとした空気が体を包み、まるで別世界に迷い込んだような気分だった。
────そして、そこで彼女を見た。先ほどまで、誰もいなかったのに。彼女はまるで霧のように、不意にそこに現れた。
白い髪が、まるで月光を編んだようにさらさらと風に揺れている。背はそんなに高くなく、細い体を白い着物のような服が包んでいた。背中に揺れるのは、ふさふさとした白い狐の尾。そして、頭には同じく白い狐の耳が、ぴくりと動いていた。彼女は拝殿の縁に腰掛け、遠くの山を眺めるようにしていた。その姿は、まるで一つの絵画から抜け出したようで、僕の小さな胸をドキリとさせる。
「きれい……」
思わず声が出て、彼女の耳がぴくんと動いた。ゆっくりと振り返った彼女の顔は、驚くほど綺麗だった。透き通った肌に、赤い瞳がまるで宝石のよう。だけど、その目はどこか退屈そうで、僕を見ると少しだけ驚いたように瞬いた。
「ほう……? 小僧、こんなところまで何の用じゃ?」
その声は思ったより低くて、でも柔らかかった。なんだか、耳にしっとりと残る。落ち着く綺麗な声。その声に聞き惚れて。言葉がうまく出てこなかった。
「え、えっと……僕、迷っちゃって……」
やっと絞り出した言その葉に、彼女はふっと唇を緩めた。まるで、面白そうな玩具を見つけたような顔だった。
「迷子か。ふむ、人間の子がこんな奥まで来るのは珍しいのう。泣きべそかいておるし、さて、どうしたものか」
彼女は立ち上がり、軽い足取りで近づいてきた。近くで見ると、彼女の着物の裾が地面を滑るように動き、尾がふわりと揺れる。なんだか現実じゃないみたいで、僕は目を丸くしたまま固まってしまった。
「狐……?」
思わず呟けば、彼女は喉の奥でくすりと笑った。
「ふふ、ワシを狐呼ばわりか。まあ、間違ってはおらぬが、ちと無礼じゃな。ワシは
白織姫、まさに名は体を表すといった様相だった。彼女の真っ白で整った容姿にこれほど合う名前もないだろう。
彼女は僕の目の前でしゃがみ、じっと顔を覗き込んでくる。白い布がふわっと鼻先に触れ、何かの花のような、甘く澄んだ香りがした。赤い瞳が、まるで心の奥まで見透かすようで、ドキドキする。
「で、小僧。名前はなんじゃ?」
「こ、近藤
「碧、か。いい名じゃな。さて、泣き顔は見飽きたぞ。ほれ、涙を拭け」
彼女は懐から一切れの布を取り出し、こちら差し出してきた。僕はそれを受け取ると、そっと目を拭いて、なんとか涙を止めた。
「う、うん……ありがとう」
「礼を言うのは早いぞ。迷子なら、山の外まで送ってやる。ついてこい」
白織姫はそう言うと、くるりと背を向けて歩き始めた。尾がゆらゆら揺れるのが、なんだか不思議で、見惚れながらも僕は慌ててその後を追った。石段を下り、木々の間を抜けていく彼女の白い背中は、まるで光をまとっているみたいだった。怖かったはずの山が、彼女と一緒だと少しだけ安心できた。
「ねえ、白織姫さん! 君、ほんとに狐なの? 妖怪? それとも神様?」
好奇心が抑えきれず、質問をぶつけると、彼女は振り返らずに笑った。
「白織様と呼ぶのじゃ、小僧。ワシは……まあ、妖と呼ぶのが近いかのう。昔はこのあたりで人間どもに拝まれておったが、今はただのしがない妖怪じゃ。ほれ、ゆっくりしていると置いてくぞ」
「うわ、待って!」
僕は小走りで彼女に追いついた。木々の間を抜け、だんだん見慣れた風景が見えてくると、ほっとした。白織様は時折立ち止まり、僕がちゃんとついてきてるか確認するようにチラッと振り返る。そのたびに、赤い目が髪の隙間から見えて、胸のあたりがきゅうっと締め付けられた。
白織様の後ろを追いながら、僕は木々の間を抜けていく。彼女の白い着物の裾が、まるで空気を滑るように揺れ、狐の尾がふさふさと風に踊る。先ほどまでの心細さはどこかへ消えて、代わりに胸の奥がむずむずと熱くなっていた。彼女の存在が、まるでこの山全体を特別なものに変えているみたいだった。七歳の僕には、それが何なのかよくわからなかったけど、ただ、彼女と一緒にいるのが嬉しかった。
「ほれ、小僧。ぼーっと歩いてるとまた迷うぞ」
白織様の声に、はっと我に返る。彼女は振り返り、赤い瞳でじろりと僕を見た。
「う、うん! ちゃんとついてく!」
慌てて小走りで追いかけると、彼女はくすりと笑ってまた歩き出した。森の奥からだんだん開けた場所に出ると、木々の間から夕陽のオレンジ色が差し込んでくる。見慣れた風景が近づいてくると、ほっとした気持ちと一緒に、なんだか少し寂しい気持ちも湧いてきた。
やがて、山林の出口が見えた。田んぼの向こうに、僕の知る道が見える。白織姫はそこまで来ると、ふっと立ち止まった。
「ここまでじゃ、小僧。もう家までの道はわかるじゃろう? もう迷うなよ」
「うん、ありがとう! あの、ねえ、また会える?」
思わず口をついて出た言葉に、彼女は少し驚いたように耳をぴくりとさせた。
「ほう? またワシに会いたいとな? ふむ、面白い小僧じゃな。まあ、この山に来れば、ワシは大抵あの場におるよ」
彼女の笑顔は、どこかからかうようで、でも優しかった。僕は彼女と別れ、家に向かって走り出す。もう門限も過ぎているだろう。
振り返ると、彼女の尾がふわりと揺れるのが見えた気がした。
家に着くと、母が玄関で腕を組んで待っていた。
「碧! どこ行ってたの、心配したのよ!」
その声にびくりとして、僕は慌てて靴を脱いだ。
「ご、ごめんなさい……山で道に迷っちゃって……」
「山? 一人で? 危ないじゃない!」
母の叱責に俯きながらも、僕は勇気を振り絞って続けた。
「でもね、白織様が助けてくれたんだ。狐の耳があってね、すごくきれいな人で──」
言った瞬間、母の眉がぴくりと動き、ため息をついた。
「もう……また変なこと言って。もうご飯もできているから、早く手を洗ってきなさい」
「ほんとだよ! 白織さまが道まで送ってくれたんだ!」
必死に訴える僕に、今度は父が顔を出した。
「おぉ、遅かったじゃないか。どうした、碧?」
「お父さん! 山で狐の耳の人に会ったんだよ! 白くて、すごく優しくて!」
けれど父は困ったように頭を掻き、母と目を合わせた。
「ははぁ……なるほど。それはすごいな」
「そうね。子どもの想像力ってすごいわ。さ、ご飯にしましょ。碧は後でお話ですからね」
二人が微笑み合うのを見て、胸がきゅっと痛んだ。
違う、本当にいたんだ。あの温もりも、声も、全部本物だったのに。
「ほんとにいたのに……」
呟いても、もう誰も耳を傾けてくれなかった。
その夜、布団に潜り込みながら僕は何度も思い返した。白織様の姿を。
きっともう一度会えるよね。
次は、もっとちゃんと話をしたい──そう強く願った。
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