借家の門の前で小野寺と別れるなり,空は口を開いた。
「想い出っていいもんですね」
「なんで? お空はこないだ良い想い出も悪い想い出もある。記憶力がいいのも考えものっていってたじゃない」
ふたりは玄関の戸を開け、借家に入った。
「そんなことありません!」
空は靴を脱ぎながら断言した。
「ツラい想い出は楽しい記憶で上書きできます。さっき見たじゃないですか。苦しい記憶も楽しい記憶があれば乗り越えられるんです」
「そう」さとりは流し目で空を見た。「お空がそう思うならそれでいいんじゃない」
一言付け加える。
「私は必ずしもそうだとは思わないけど。苦い記憶はいつまでも心の底に横たわるのよ。うわべだけは澄んで見えるドブ川の沈んだヘドロのようにね」
「それでも……いいじゃないですか」
空は上がり
「辛い想い出も楽しい想い出もなんにもない枯れ川に比べれば……」
空は今にも泣きだしそうに,顔をゆがめている。
「無邪気なのは長所だけど,感じやすいのは短所ね」
さとりはいった。
「お空,三歩歩いて忘れるのがいやなら日記を書くといいわ。ページをめくり直すたびに新鮮な物語が味わえるわ。しかも,自分が主人公の。自分が体験したかけがえのない出来事が書かれた……」
「日記!」空の顔が輝いた。「私,日記付けます。今日という日を……二度と繰り返すことない今日の日のことを……たとえ忘れてしまっても,いつでも振り返れるように……」
「日記をつけるのはめんどくさいわよ。三日坊主にならないかしら」
さとりは薄笑いを浮かべながらいった。
「なりません」
「ひとつアドバイスをあげる。日記のコツはね。平穏な日々をおそれないこと。なにもない退屈な日々を愛すること。そんで書くことがなにも思い浮かばないなら昼食の事でも書いてなさい」
夏休みの最終日は,夏期講習の最終日は,フィナーレにふさわしい雲一つない夏空だった。
さとりたちは支度をすませ借家を出た。
「この家もそろそろ見納めね。目に焼き付けたほうがいいわ。里になんかそう来るもんじゃないから」
「はい! 日記に書いておきます」
「よろしい」
門のところで,小野寺が待っていた。
「おはよう,少年。だいぶ日焼けしたじゃない。元気そうね」
「
「私たちはなにもやってない」さとりはいった。
「……いや」
「なにもやってない。いいわね。私は私の欲望を満たすためだけに夏期講習を修了した。貴方のためにしたことなんてなにもなかった」
「……はい」さとりに押し切られる形で,小野寺はうなずいた。
そのようすを空がニコニコ顔で見ている。
「そうだよ。頑張ったのは小野寺だよ」
「古明地たちはこのあとなにすんの?」
朝日きらめく農道を三人は並んで歩く。小野寺はさとりに聞いた。
「長生きするわ」さとりは即答する。
「そうじゃなくて」小野寺は手のひらを額に当てた。
「わかってるわ」さとりは笑う。
「遠くない内に借家を引き払って故郷に戻るわ」
「故郷ってどこ?」
「遠い遠い所。暑くて暗くて動物がたくさんいるところ」
「静かでいいところだよ」空が補足する。
「外国?」
「
「ふーん,そうなんだ。ところで,さとりはなんでこんな田舎に来たの」
「あなたを救うため」
「え?」小野寺の目が見開かれる。
さとりは笑った。
「うそよ。理由なんてないわ。ふらっと骨休みに来ただけ。私たちと貴方が出会えたのはただの偶然」
「そうか……そうだよね」
三人は慣れ親しんだコンビニの前に通り過ぎる。
「さ,ついたわ。マミゾウの夏期講習最後の一日を存分に楽しみましょう」
講義は始まり,そして終わった。
「諸君とともに中学三年生の夏休みというかけがえのない時間を共に歩め誇りに思う。一度遅刻はあったものの晴れの日も曇りの日も雨の日も皆勤,よく頑張ってくれた」
マミゾウはいう。
「ほとんど雨は降らなかったけど」さとりが茶化す。
「そして……」マミゾウはさとりの言葉を無視し,思わせぶりに一呼吸置いた。
「そして,この夏期講習が気に入ってくれたらぜひ九月からも当塾を
「宣伝かよ」さとりがツッコむ。
「一応,商売じゃからの」
マミゾウは照れ笑いしながら,ほおをかいた。
「ま,継続するかどうかは置いておいて,この夏期講習が諸君らの輝かしい未来の足しになることを祈っとる」
マミゾウの話が終わるか終わらない内に小野寺は席を立った。
「ありがと,先生。たぶん,これからもよろしく」
「こちらこそ。ぜひ前向きにご検討いただきたい」
小野寺はマミゾウに背を向け,足早に出口へと向かう。
ひと月前より少しだけ背筋の伸びた少年はドアのところで振り返った。
「古明地,霊烏路,あんがと。あんたらの事は一生忘れないよ」
「私も。小野寺くんのこと,ずっと忘れたくないよ」空は席に座ったまま,手を振った。
「私は早く忘れたいわ。一期一会の人間のことを覚えてられるほど記憶の容量がないの」
「古明地はいつも憎まれ口だな」小野寺が笑う。
さとりは小さく丸い肩をすくめてみせた。
「わたしの目指す肩書はこの世で一番の嫌われ者だからね」
「なにそれ。ほんと変なヤツ」小野寺がまた笑った。
「じゃ,ふたりとも元気でな。長生きしろよ」小野寺が手を挙げる。
「貴方も達者でね」さとりは軽く手を挙げた。
「元気でね~」
小野寺は教室を去った。
マミゾウがさとりに話しかける。
「
さとりは胸元に浮かぶ巨大な一つ目で,マミゾウをにらみつけた。
「おかげさまで√2が無理数であることがわかった。そして貴方の心が手に取るようにわかるようになったわ。どう? 怖い?」
マミゾウはからからと笑い,首を振る。
「まったく。のぞかれて困る記憶もない。それともなんじゃ,わしの悩みを知って助けてくれるのか?」
「お断りよ。私が幻想郷一の嫌われ者と知ってて,いってるの」
「もちろんじゃよ」
「ま,数学アレルギーも解消されたことだし,そろそろ地霊殿に戻るわ。これ以上,人里にいると一生人間のにおいがとれなくなりそう」
「幻想郷はこころが広い。多少,人間のにおいがしたところで気にするものはおらん」
「私がイヤなの」
「なるほど。では九月から入塾してくれるわけじゃないのじゃな」
「貴方にぼったくられたせいで,もう持ち合わせがないの」
「金の切れ目が縁の切れ目というわけじゃな」
「そういうこと」
さとりは立ち上がった。
「私はいくわ。幻想郷にきたら地霊殿に寄って。私のペットにしてあげるわ,化けタヌキ」
「ふぉふぉふぉ」マミゾウは愉快そうに笑う。
「おぬしに飼われて
「ふふふ,それはきっと果たされない約束ね」
さとりは出口に向かう。空もその背に続いた。
ドアのところでさとりは足を止め,マミゾウの方を振り返った。
「化けタヌキ,
「善処する」マミゾウがこたえる。
「くれぐれもパチュリーなんかに渡さないで」
さとりが薄ら笑いを浮かべながらいった。
「じゃあね。化けタヌキ」空は笑顔で手を振った。
帰り道,コンビニの前を通りかかると,駐車場のベンチに座り談笑している四人の少年が見えた。
空は大きく手を振る。小野寺が気づき手を振り返す。
さとりは空にいった。
「行きましょう。もう彼は私の仲間じゃないわ」
「はい」
空は大きくうなずいた。
彼女の顔には雲一つない今日の夏空そのままの微笑があった。
「小野寺くん,このまま無事にやっていけるでしょうか」
ふたりは茜色に染まった農道を歩く。
両脇の田んぼの緑の稲穂は良く実り,さとりたちに向けてお辞儀している。
「心配しないの。あの三少年はただの田舎のもの。今はまだ限りなく純粋よ。まあ,高校を卒業するくらいまでは悪に染まらないでしょうね」
「なんでわかるんですか?」空は『?』を頭に浮かべる。
さとりの胸元に浮く瞳が,
「こいつでね。彼らの心を読んだのよ」
「能力,回復したんですね……やっぱり便利ですよね。別人の心が読めるって」
空は感心したようにいった。
「基本的には便利よ」さとりも同意する。「ま,たまに嫌んなることもあるけどね」