借家の玄関前には見慣れぬ白いミニバンが止まっていた。
空が門からのぞきこむ。
「あれ……なんでしょう。ひょっとして……この家の持ち主?」
「不動産屋よ」さとりは空の疑問にこたえる。
「なんでわかったんですか。やっぱり能力ですか」
「ちがうわ。車の側面に『水谷不動産』って書いてあるじゃない。借主が決まったのか,部屋の虫干しにきたのかは知らないけど、
「なるほど」
「ここらが
「え?」空が驚きの声を上げる。「それは……急ですよ。まだ,長田さんにもお別れいってません」
さとりは背伸びして長田家の庭をのぞいた。
「車がないわ。まだ帰宅してないみたい」
さとりはエコバッグからノートを出すと,白紙のページを二枚切り取った。
破いたページの一枚を空に押し付ける。
「さ,お空。あなたは長田さんに手紙を書いて。私は不動産屋に礼金・敷金・家賃と電気・水道代についての契約書を書くから」
前略
長田さんへ
小野寺くんへ
急用で今日の夜 里を経つことになりました
あわただしいお別れでごめんなさい
本当にお世話になりました
からあげもカレーもお寿司もおいしかったです
すいかはちょっとおいしくなかったです
長田さん いつまでも健康で長生きしてください
小野寺くん 花火楽しかったです
「がんばって」っていいたくないけど他に言葉が思いつきません
だから「がんばって」(語彙が少なくてごめんなさい)
これからツラいこともたくさんあると思うけど小野寺くんならきっと乗り越えられはずです
自分の力と勇気と支えてくれる人と仲間を信じて半歩ずつ前に進んでいってください
霊烏路空 古明地さとり
草々
「これでどうでしょう?」空がさとりに手紙を見せる。
「たどたどしさが貴方らしくていいわね」さとりはちらりと文面を見て,いった。
「さ,行くわよ。一カ月も留守にしてたからお
さとりたちはそれぞれの家の郵便ポストにそれぞれの手紙を入れ,拝借した空き家を後にする。
「河童は帰りたくなったら神社で祈ればいいっていってたわよね」
さとりたちは神社まで歩き,イノシシに襲われた鳥居の前で立ち止まる。
頂へと向かう神社の山林の中の参道は,来たときと同じようにひっそりとしている。
「長田家も借家も小さく見えます」
空は鳥居の前で,来た道を振り返った。
夕日を浴びた人里は金色に染まっている。
「お空,もしかして名残惜しいの? もしかして人里で暮らしたいと思った?」
さとりがたずねる。
「いえ」空はゆっくりと首を横に振る。濡れ羽色の長髪が宙を掃いた。
「私は所詮妖怪。人里は似合いません」
空は小さな声で続けた。
「それに……やっぱりさとり様といっしょに居たいですよ」
ぱたぱたというスリッパの音が林に響く。
手をつないだ大小ふたつの影が,参道を上っていく。
「お空,時空を飛び越すのに迷ったら,お燐の顔を思い浮かべるといいわ。そうすれば幻想郷に帰れるはず」
「え~と……お燐ってどういう顔でしたっけ」空がいった。
さとりは頭を抱える。
「それ,冗談よね? 今の言葉聞いたら,あの子,泣くわよ」
えへへ,と
「もちろん冗談ですよ」
そういって空は死体運びの猫妖怪の顔を思い浮かべた。
急に懐かしさがこみあげてきた。
「お空,境内はもう少しよ。さあ,幻想郷を強く想い浮かべて」
ふたりは山頂に設けられた第二の鳥居をくぐる。
頂上には小さな社があった。
社殿に近づくごとに周囲の景色がゆがんでいく。
「お賽銭,入れたほうがいいかしら」
ついにはあたりの景色が渦を巻き始めた。
さとりと空は水族館のガラストンネルを思わせる渦巻く景色の中を歩いた。
中心には社殿だけがぽつんと取り残されていた。
あれだけやかましかったセミの鳴きがいつしか遠くなっていた。
さとりはポケットから五円玉を二枚取り出す。
一礼し,賽銭箱に投げる。
青空と夕日と深緑,そして足元の石畳,輪郭のすべてがとろけ混じり合い鈍色の雲のようになった空間の中にただ社だけがはっきりと浮かんでいた。
しゃらん,しゃらん。
さとりは軒先にぶら下がった鈴を鳴らす。
ただ社をだけを残し無機質な灰色と化した空間に響く鈴の音は,強まったり弱まったりを繰り返しながら長い
さとりはその音を耳にしながら二礼した。
続いて
目を深く閉じて一礼後,
「うわ。引きこもり妖怪が突然
さとりの目の前には,緑髪の少女がいた。
カエルの髪留めをつけた少女は,口をあんぐり開けている。
「突然沸いたって……貴方,失礼ね」さとりがいう。
さらさらと風が流れた。
なじみの匂いが鼻をくすぐる。
幻想郷特有の気を抜けばうたたねしてしまいそうな甘い香りだ。
境内を掃き掃除をする東風谷早苗をふくめ,ひと月前となんら変わることのない幻想郷と守矢神社があった。
「そうですよ。地霊殿の主こと,さとりさまを引きこもりなんて呼ぶのは失礼です。さとりさまは能力を失って,引きこもるのをやめたんです」
さとりのかたわらの大柄なカラス妖怪が加勢した。
「へえ,そうなんだ」早苗があまり興味なさげにいう。
空も無事,人里への未練を断ち切り幻想郷に戻ってこれたのだ。
さとりはかすかな
未知の空間で迷子になった空を連れ帰るため,いまひとたび河城にとりのケツバットを喰らう気にはなれなかった。
早苗はいった。
「守矢神社に何の用? ひょっとして怪異?」
「
早苗のこたえを待たずして,社殿の引き戸が開いた。
「おう,引きこもり。久しぶりだな」神奈子が顔をのぞかせる。
さとりの胸元に浮いた
「そのようすを見ると無事に数学アレルギーを克服できたようだな」神奈子はいう。
「貴方が教えてくれないせいで,余計なお金と手間がかかったわ」
「学問に王道なしだ。それに私が教えたんじゃ身を入れて学ばなかったろう」
「仮定の話には答えられないわ」
「では心を読む程度の能力は復活したのじゃな」神奈子はたずねる。
「ええ」さとりはこたえる。「今ならあなたの心が読めるわ。――面白そうな研究してるわね。これが完成したら幻想郷がとんでもないことになりそう」
さとりはくちびるの片一方だけを持ち上げたゆがんだ笑顔を作ってみせた。
神奈子は眉を上げる。
「おお,妖怪さとりの復活だ。こわいこわい。頭の中の先駆的構想が盗まれちまう」
神奈子は引き戸をぴしゃりと引き,社殿の中に隠れてしまった。
「え? 心を読む程度の能力が戻ったの? 大変,私のヒミツの詩作がばらされちゃう」
早苗も
結局,守矢神社の境内にはさとりと空,ふたりだけが取り残された。
「私が世間を歩くと引きこもりが増える気がするわ」さとりは独り言をいった。
「お空,私を地霊殿に連れて行って」
「はい」霊烏路空は笑顔でこたえた。
「やっぱり地霊殿で引きこもるのが,わたしにとっても世間にとっても一番いいみたい」
古明地さとりはつぶやく。
「それにしても霧雨魔理沙,ムカつくわね。地霊殿に戻ったらヤツへの復讐プランをゆっくりと練りましょ」
(おしまい)