夏の昼は長い。
和室の居間に寝っ転がったさとりたちはテレビの大相撲中継をぼんやりと見ていた。
結びの一番が終わると,さとりは立ち上がった。
「さ,布団を取り込まないと」
さとりは庭に出た。
紫紺に染まる西の山の尾根から,黄金色の夕日があふれ出している。
「さとりさまとねんね,さとりさまとねんね」
空は,はしゃぎながら布団を取り込んでいる。
「お燐、これを聞いたらうらやましがるだろうなあ」
布団を取り込み,なんとなく野球中継を見ていると玄関のドアを叩く音が聞こえた。
ちょうど千葉ロッテの先発投手が滅多打ちに打ち込まれ,一回おもてでマウンドを降りたところだった。
空が腰を上げた。
さとりが右手を上げ,それを制する。
「私がいくわ」
さとりが立ち上がった。
スリッパを鳴らし,玄関へと向かう。
カギを開け引き戸を開けると,
濃厚なソースの香りがした。
「こんばんは」
さとりは挨拶する。
小柄な婦人も頭を下げる。
「長田の家内です。夕飯の焼きそばを作ったんですけど……ちょっと作りすぎてしまって……よろしければ召し上がってください……」
婦人はことばを選びながらゆっくりといった。
しかし濁った瞳は,殺人現場で遺留品を探す鑑識のようにせわしなく動いている。
「引っ越ししたばかりでお忙しいでしょう。お皿も用意しましたわ」
「いえ,とんでもない。どうかお気遣いないく」
さとりは,どうせ受け取る破目になるんだろうなと思いながらも,形だけ断った。
婦人の考えていることは手に取るようにわかった。
「いえ,私たちだけでは食べきれないので」
さとりはしばらく婦人と押し問答し,結局,カゴを受け取った。
「ふう,貸しができたわね」
婦人の来訪の狙いは
それらしい理由をつけて,さとりたちのようすを探りに来たのだ。
田舎特有のさりげない監視だった。
ダイニングでは空が待ち構えていた。
「さとりさま,焼きそばですか?」
にこやかに笑いながらいう。
さとりは香ばしいにおいを放つカゴをテーブルのうえに置いた。
「にゃ! 焼きそばだ!!」空は華やいだ声を上げた。
かごの中には焼きそばと夏野菜サラダと西瓜が収められていた。
「さとりさま~,冷めないうちに食べちゃいましょうよ」
焼きそばには,皮付きのボリューミーなフライドポテトが入っていた。
脂っこいソースがまとわりついたポテトは,老人の料理らしからぬジャンク感あふれるB級グルメの味がした。
野菜サラダも,みずみずしく美味しかった。
自家製らしい西瓜だけは寝ぼけた味がした。しかし西瓜は冷えているというだけで価値があった。
翌朝――。
さとりは食器を隣家に返しに行った。
老人の朝は早い。すでに黄色い軽はない。
さとりはドアをノックした後,しばらく待った。
誰も出ていないことを確認し,洗った食器を玄関先に置いた。
さとりは身をひるがえし,夏野菜が茂る畑を抜ける。門のところまで歩いて,急に立ち止まり,家屋の方を振り返った。
無人の家の中でなにかが動く気配がした。
さとりは楽観的だった。なんやかんやいって日本は教育熱心と聞く。
ド田舎といえども町にさえ出れば『塾』の一軒や二軒ある。
さとりは空を連れ,町へと向かった。
朝の強い日差しは酷暑の前触れだった。
町は山とは逆方向のせせらぎの下流にあるはずだった。
ふたりは並んで小川に沿った農道を徒歩で下った。
町についた。
片側二車線道路に面した商店街は,往年の繁栄を忍ばせる遺構であった。
ほとんどの店は、不愛想にシャッターを下ろしている。
おもての看板は錆びつき文字はかすれ,何を売り物にしているのかすらわからない。
唯一新しいものといえばドラッグストアとホームセンターへの道順を示す看板だけで,そこだけは死の香りから逃れていた。
ふたりのほかに歩くものは皆無で,時折,思い出したかのように軽自動車が通るだけだ。
塾なんてあるわけがない。さとりは商店街を見た瞬間、そう思った。
しかし――。
『塾』はあった。
バカでかい駐車場を持つコンビニと葬儀場に挟まれ,ちっぽけな『塾』はあった。息を殺し,身をひそめるように――。
『二ツ岩学習塾』。
巨大な看板がガラスドアの上に貼り付けてある。
――中高一貫私立,県立高校合格多数実績。
一階のガラス戸にウソだかホントだかわからない実績を書いたポスターも貼ってあった。
さとりは車道を横切って塾の前まで歩くと,ためらうことなくガラスドアを押し開けた。
空調機で冷やされたそよ風が,押し寄せた。
入るとすぐに受け付けがあった。
カウンターの向こうに,うつむき加減で書類に目を落としている女性がいた。
「あら,化けタヌキじゃない? こんなところでなにしているの?」
さとりがいった。
「客か?」
女性は顔を上げた。
「どなた……かの?」
丸メガネを鼻に引っかけた丸顔の女性だ。
外観はまだ若い。
しかし身体にまとわりついた
「私をご存じない? しょうがないわね。所詮背景のモブだもの」さとりはいう。
化けタヌキと呼ばれた女性は,さとりの胸元に浮かんだ一つ目をうかがった。
「面識はないはずじゃが……だいたいわかる。三つ目の妖怪でかつ,気配が存在する。つまりは古明地こいしの姉,古明地さとりさんじゃろ?」
「ご名答。名推理ね。月曜日の夜にやってるアニメの小学生なみに賢いわね」
「いつの時代の知識で話をしておる。そいつならとっくに土曜日に変更になったわ」
「あらそう。人間ってのは落ち着きのない生き物ね。きっと寿命が短いせいね」
化けタヌキは,さとりの皮肉を無視した。
「それで,地霊殿の主たる妖怪が,しがない学習塾経営者のわしになに用じゃ」
「佐渡金山が閉山されて仕事探しも大変なようすね。二ツ岩マミゾウさん」
「仕事というより人助けじゃな。田舎のガキどもに学を仕込むという人助けじゃ」
マミゾウはふぉっふぉと笑う。
「もう一度聞く。おぬしら,人里に何用じゃ。涼を求めにウチに来たならとっとと帰ってくれ。電気代が惜しい」
マミゾウはメガネの奥の瞳をきゅっと細めた。
さとりが一歩進み出た。
「二つ岩マミゾウ。口にするのも恥ずかしいけどお願いがあるの」
さとりは少し間を置き、いった。
「勉強を教えて」
化けタヌキの細い目が一瞬,見開かれた。
「ほう,嫌われ者の妖怪が」
マミゾウの瞳がまた糸のように細くなる。
「学びたいという気持ちに水を差すわけじゃないが,理由を教えてくれまいか?」
さとりはマミゾウに参考書を突きつけながら,一部始終を説明した。
「ふむ,つまりさとりは魔理沙の持ってきた参考書の毒気にあてられ能力が封印されたというわけだな」
マミゾウはさとりの突きつけた青い参考書を見ながらいった。
魔理沙は神奈子と別れた直後にさとりに参考書を押し付けていた。
手癖の悪い魔法使いは
「正確にいうと魔理沙の脳裏に刻み込まれた参考書の内容ね。弱点をさらすようで悔しいけど,今は
「ほう……」マミゾウは再び目を細める。
「つまり数学嫌いを克服すれば,また
「私が見てきたトラウマは所詮他人事だから」さとりはいった。
「ふふふ,さとり。おぬしそんな数学が怖いか」
「怖いわ。理解できないものほど怖いものはないから」
「まじめじゃのお」マミゾウが笑う。「おぬしのお供は理解できぬものを理解できぬと自然に受け入れているようじゃが」
そういって化けタヌキは部屋の片隅に置かれた小学生向けの知育パズルで遊んでいる空に目をやった。
「ペットと主は同格ではないのよ」
マミゾウがまた笑った。
「
「で,貴方はこの参考書の問題が解けるの?」
「無論じゃ。背理法じゃろ」マミゾウは神奈子と同様のことをいった。
「伊達に人里で長生きしとらんわ」
マミゾウはカウンターに頬杖をついた。
「いま当塾は夏期講習の受付中でな。この
「横文字だらけ。すごい自信ね」さとりは冷やかす。
「ただ料金はちっとばかし高い。受講料は諸々込みで三十万じゃ」
「いいわ。三十万,いまここで現金でお支払いするわ」
さとりはこともなげにいった。
ポケットから札束を取り出すと,数え始めた。
驚いたのはマミゾウの方だった。目を丸くし,さとりの手元を見つめている。
「はい,三十万。金で能力が買えるなら安いわ」
さとりは札束から三十枚抜くと,カウンターに置いた。
「三十枚あるから数えて」
「ああ……」マミゾウは呆然としながらも,紙幣を数え始めた。「懐かしい万札じゃな」
数え終わると,マミゾウは三十枚の万札の内,十枚をさとりに返した。
「田舎の塾じゃ,こんな大金,受け取れん」
「知識の会得に金を出し惜しみするつもりはないの」
さとりは十万円をマミゾウに押し返す。
「
マミゾウも負けじと突き返す。
「足元見ないで。十万ぽっちで生活に困る程貧乏じゃないの」
なんどか押し問答を続け,とうとうマミゾウが折れた。
「わかった。十万円は受け取っておこう。かわりにおともだち紹介
さとりの目が怪しく光った。
「それいいわね」
部屋の隅で遊んでいた空が飛んでくる。
「さとりさまと一緒にお勉強できるんですか。うれしい」
「夏期講習は明日の八時半から,二階の教室で行われる。テキストはこちらで用意する。四十日弱,一日たりとも休みはない。覚悟するように」
ふたりは塾のとなりのコンビニに立ち寄り,文房具を買った。
暑かったのでアイスも買った。
年配の店員は,さとりの出した聖徳太子の一万円札を見て軽く目を見開いたが,何もいわずに受け取った。