翌日,ふたりは八時二十五分に塾におもむく。
十人ほどが座れる二階の教室にはだれもいない。
さとりは一番前の席に,空は背中を羽根を気にしながらさとりの一つ後ろに座った。
ダークスーツ姿のマミゾウが顔を出した。
「ちょっと待っておれ。もうひとり来る予定じゃ」
壁の丸時計が八時三十五分を差したところで,ひとりの小柄な少年が入って来た。
歳は中学生ぐらい。見るからにひ弱そう。
髪はボサボサ,風が吹いたら飛びそうなほど痩せていて,顔は静脈が透けて見えるほど白かった。
少年は引き戸を開け,立ち止まった。
「おはよう,小野寺くん。空いてるところの好きな席に座るのじゃ」
マミゾウが少年に声をかける。
少年は挨拶もせず,一番後ろの席に座った。
「そんなに恥ずかしがる必要もないじゃろ。せっかくだから前の席に座れ」
小野寺少年は相変わらず何もいわずに指示されるがまま,一番前の席に座った。
さとりのとなりの席だ。
マミゾウがホッチキス止めされたレジュメを配る。
表紙には『二ツ岩塾 夏期地獄の猛特訓<数学編>』と書かれている。
<数学>という見えた途端,さとりの意識は遠のきかけた。
マジックペンがホワイトボードの上を走り,きゅっきゅという音を立てる。
今は小学六年生の算数のおさらいをしている。
分数のかけ算にわり算。そのくらいならさとりにもわかる。文字式が出てくると厄介なのだ。
空は一つ後ろの席で安らかな寝息を立てている。
さとりはなにかいおうと口を動かしかけたが,マミゾウの刺すような視線を首筋に感じホワイトボードに向き直った。
昼休みになった。
本来,幻想郷の住人は人間の食事をしないものだが,ふたりは口さびしさもあってコンビニで飲み物を買った。
教室に戻ると小野寺は背を丸め,弁当をかき込んでいた。
さとりが小野寺に近づいた。
「やめときましょ,さとりさま」
空がさとりの袖をつかむ。
「あのガキはひとりが好きなんですよ。見ろてください,
さとりは上目遣いで空を見た。
静かだが,はっきりとした口調でいう。
「ご提言ありがとう,お空。でも私……妹みたいな影の薄い人をからからかわないとすまない
空は眉を上げた。
「嫌われちゃいますよ」
「大丈夫,嫌われるのは慣れてるから」さとりは返した。
さとりは自分の席に戻って頬杖を突き,となりの席の小野寺が弁当を食べ終わるのを待った。
プチトマトを口に入れ,
「貴方,名前なんていうの? 私,古明地さとり」
小野寺は前髪をかき上げ,目だけを動かしさとりに
さとりは目も合わせない無言の少年に話し続ける。
「昨今は個人情報にうるさいからね。塾で知り合っただけの赤の他人には名前を教えたくないってわけね」
ぴくりと顔が動いた。
少年は能面のような硬い表情のまま、さとりの方に顔を向けた。
能力など使わなくても分かる。
さとりの両目は,彼の心に宿った不安と恐怖をとらえている。
彼を落ち着かせるべく,さとりは自分でもはっきりとわかるほどの引きつった笑みを作る。
少年の口が動いた。
「小野寺……小野寺リョーマ」
「ふーん,いい名前じゃない」
さとりは心にもないようなことをいった。
小野寺はほおを膨らませ,つぶやくようにいった。
「思ってもないこと,いうなよ」
「怒ったの?」さとりはいう。
「怒らせるようなことをいったのはお前だろ」少年はイラ立ちを隠さない。
「ごめんね。貴方みたいに影の薄いヤツ,身内にいるから放っておけなくて」
「いきなり話しかけてきて,影の薄いヤツ呼ばわりするなよ」
少年はぶっきらぼうにいい,そっぽを向いた。
そのあと,さとりが二言,三言,声をかけるも少年は完全にシカトを決め込んだ。
「嫌われちゃったかしら」
さとりが後ろの席のお空を振り返る。
「どうでしょう。そもそも心を読むのはさとり様の専門では?」
「そりゃそうだけど……うーん,顔色から察するにやっぱり嫌われたくさいわ」
「こりゃまじめに授業を受けないとダメかもね」さとりはボヤいた。
スーツ姿のマミゾウが入ってきて午後の授業は始まった。
それから三時間後,さとりたちはようやく算数から解放された。
さとりがため息をつく間に小野寺はニンジャのように姿を消した。
さとりはホワイトボードの板書をゆっくりと消しているマミゾウにたずねた。
「あの少年,何者?」
マミゾウが手を止め,振り返る。
「いえん。昨今は個人情報保護がうるさくてな」
「うそつき。貴方,わざとゆっくり板書を消してたわよね。私の質問を待ってたでしょ」
「バレたか……」
マミゾウは赤土色のもじゃっとした髪をかいた。
「私の憶測,語っていい?」
「憶測どころか,わしの記憶を読んで語ってもいいぞ」
マミゾウは笑う。
「それが可能なら……な」
マミゾウはしゃがみこみ,さとりの机に頬杖をついた。
さとりは小さく鼻を鳴らしてから話し始めた。
「あの小野寺って子……小学生って顔はしてないわ。もう少し年上。中学二年か三年。なのに小学生の分数の復習をしてる」
「ふ~ん」マミゾウは肯定も否定もしない。
「おどおどした態度,三カ月はお天道様の下を歩いていないような白い肌,まるっきりひきこもりの不登校児ね」
「世間に知れた
「からかわないで。そのくらい誰でもわかるわ」
「ま,おぬしの想像通りじゃ。彼は不登校じゃ。ちょっとしたボタンの掛け違えと不幸があってな。中学一年の夏休みに
「深刻ね。病気?」
「身体は至って健康じゃ」
「このド田舎の濃密な人間関係の中では,いったんこぼれると復帰も難しいわね」
「それが違うのじゃ」
「違う?」
「ああ,彼……小野寺くんはこの春,母方の祖父母を頼ってこっちに引っ越してきたのじゃ」
「どこから?」
「関西地方の沿岸の……まあ,
「ありふれた不幸ね。でもわざわざ転校してきたんでしょ。このド田舎で心機一転とはいかなかったの?」
「補足するとご両親は仕事の都合でまだ関西にいらっしゃって,保護者を勤める祖父母がいうにはうまくいかなかった」
「当然ね。多感な時期だもの。道行く人はみな知り合い,血縁を煮詰めたような田舎の空気に,都会から越してきた中学三年生がなじめるわけがないわ」
「さとり……」
マミゾウは目を糸のように細め,さとりを見た。
「もう少しマシな言い方があるじゃろ」
「事実を述べたまでよ。何か不満がある?」
「さすが幻想郷一の嫌われ者。世間から置き去りにされつつあるも,それでも必死に脱出しようともがく少年の手助けをしてやろうという気はないのか?」
「なぜ,私が貴方に協力しなければいけないの? 私は飽くまでも生徒としてここにきているの」
「人情ってもんは……ないのじゃな」
「妖怪に人情を求めないで」
マミゾウはもしゃもしゃ頭に手を突っ込み,首を振りながら立ち上がった。
「お主に協力を求めたわしが馬鹿じゃった。さっさとここを立ち去れ。夕方の講義があるんじゃ」
「さようなら、化けタヌキ」さとりは立ち上がり,戸口の方に向かいながらいった。
「また明日ね、化けタヌキ」長き夢から醒めた空も続く。
「また明日、嫌われ者とそのペット」マミゾウはさとりたちの背中に向けていった。