空気が裂ける音なんて、本来あるはずがない。
けれどその時、確かに世界のどこかがひしゃげるような感覚が、肌の上を走った。
「……来る」
思わず足を止めると、胸の奥でサクナヒメが低く唸る。
「なんじゃ今のは。嫌な気配どころではないぞ、あれは」
ココロワヒメの声は、いつになく張っていた。
「次元の歪みです。眼魔世界側から、強引に何かが押し出されています」
ただの敵の出現じゃない。
説明を聞くより先に、それだけは分かった。空気が重い。重いくせに、どこか空洞みたいに薄い。世界そのものが何かを拒んでいるような感触に、背筋がざわつく。
タケルたちも異変を察している。
先に駆け出した背中を追い、俺も地面を蹴った。行き先なんて相談しなくても分かる。気配の中心が、はっきりと一つだけ浮いている。
辿り着いた先で、まず目に飛び込んできたのは、見慣れたはずの男の、見慣れない姿だった。
「……イーディス?」
口から漏れた名前は半分、確認のつもりだった。
仙人としての飄々とした気配が、そこにはほとんど残っていない。代わりにあったのは、隠しきれない切迫だった。肩で息をしているわけでもないのに、立っているだけで“今この瞬間を落とせない”と伝わってくる。
その正面に立つ存在を見て、言葉が止まる。
アデル。
だが、ただのアデルじゃない。
輪郭は人の形をしているのに、その上から別の何かが何重にも被さっている。
胸の奥から脈動する光。腕から零れ落ちる触手。全身のどこからでも武器へ変形できそうな、まとまりすぎた異形。前に見た、閉じた蕾みたいな不完全さはない。花が開ききった後の、逃げ場のない圧だけがそこにあった。
「っ……前とは違う」
あれはもう、未完成の暴走じゃない。
複数の力が無理やり押し込まれていた時の歪みが消えている。代わりに、ひとつにまとまりきったからこその重さがある。立っているだけで、こっちの呼吸まで奪ってくる。
アデルがわずかに笑う。
その顔には、余裕と、薄い苛立ちが混ざっていた。
「止めに来たか、イーディス」
イーディスは答えない。
ただ、前へ一歩出る。そこでようやく、今何が起きているのか、頭の中の線が繋がった。アデルは何かを終わらせるためではなく、何かへ繋がるためにここにいる。そしてイーディスは、それを止めるために、隠していたものをかなぐり捨ててここへ出てきた。
事情の全部なんて分からない。
でも、今はそれで十分だった。
「葉様」
ココロワヒメの声が、思考を引き戻す。
「接続反応はまだ続いています。あのままでは間に合いません」
「……分かった」
問いただすのは後だ。
まず、止める。
俺が踏み出そうとした瞬間、空間が軋んだ。
アデル――いや、完全体のパーフェクト・ガンマイザーが腕を持ち上げると、それだけで周囲の空気が押し潰される。直後、視界の端でイーディスが動いた。迷いのない踏み込みだった。
ぶつかる。
衝撃が遅れて届く。足元の地面が跳ね、耳鳴りみたいな余波が残る。
「……強い」
思わず呟いたのは、アデルに対してだけじゃない。
イーディスもまた、隠していた力を一切躊躇なく解放している。普段のあの飄々とした顔からは想像しにくいほど、真っ直ぐなぶつかり方だった。
だが、勝ち切れない。
互いに押し込む力はあるのに、決着に届く前に世界のほうが悲鳴を上げ始める。アデルの側で、何かが接続しきる寸前の気配を見せた。
イーディスの表情が初めて歪む。
次の瞬間、力の向きが変わった。
「っ!」
真正面から倒すのではなく、弾く。
圧を一点に絞り、人間界の側へ無理やり押し返す。世界の膜を裂くみたいな音がして、アデルの身体が後方へ吹き飛んだ。そのまま、こちらの世界へ落ちてくる。
接続は断ち切れた。
だが、それは勝利じゃない。最悪を少し先へ延ばしただけだ。
「葉!」
タケルの声が飛ぶ。
その直後、弾き飛ばされた余波で、パーフェクト・ガンマイザーの周囲から光が荒れ狂う。まとまりきっていた力が一瞬だけ不安定になり、触手と光刃が制御を失って広がった。
俺は迷わず前へ出る。
イーディスもタケルたちも、今は次へ動くための一拍が必要だ。その一拍を繋ぐのが俺の役目だと、考えるより先に身体が分かっていた。
「こっちは俺がやる!」
振り下ろされた触手を避け、ガンガンタマフを抜く。
硬い。重い。けれど斬れないわけじゃない。真正面から倒すためじゃない、今必要なのは噛みついてでも足を止めることだ。
一撃。
二撃。
反撃の圧だけで、腕が痺れる。
「くっ……!」
やっぱり別格だ。
前に戦ったあの蕾の怪物とは、密度そのものが違う。だが、それでもここで引けば、後ろが崩れる。
「葉様、右です!」
ココロワヒメの声に従い、身を沈める。
頭上を光刃が掠め、遅れて地面が裂けた。サクナヒメがすぐに吠える。
「止まるな! ここで退けば全部持っていかれるぞ!」
分かってる。
分かってるから、踏み込む。
完全体の圧を、真正面から受ける。
その重さをこの身体に刻みながら、それでも一歩も退かずに刃を振るう。タケルたちのほうは見ない。今は見る必要がない。繋ぐと決めた以上、振り返る暇なんてない。
だから俺は、ただ前だけを見た