大天空寺の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。
静かだからじゃない。静かになるしかないところまで、皆の気持ちが削れているからだ。廊下を渡る風の音まで耳に残るようで、俺は無意識に足音を殺していた。
本堂の奥へ入ると、そこにいたのは、見慣れた顔で、見慣れない沈黙をまとった男だった。
仙人。――いや、今はもう、その呼び方の方が薄っぺらく聞こえる。
あの眼魔世界で見たイーディス長官と同じ顔をして、何事もなかったように座っているのが、ひどく気味悪く見えた。
「……やっぱり、同じ顔だよな」
そう呟くと、サクナヒメが鼻を鳴らす。
「同じ、どころではないじゃろ。声も、気配も、あやつじゃ」
ココロワヒメの声はいつもより低かった。
「隠していた、と考えるのが自然です。ですが、どこまでが仙人としての振る舞いで、どこからがイーディス長官としての本心なのか……そこはまだ読めません」
読めない。
その言い方が妙にしっくりきた。
目の前の男は、嘘をついているようには見えない。けれど、本当のことだけを言っているようにも見えない。そういう厄介さが、顔の奥に張りついている。
アカリは、その男をまっすぐ睨んでいた。
怒っているのは一目で分かる。怒りの熱だけで立っているんじゃない。悔しさと、どうしようもなさと、今さら何を言われても遅いという思いまで全部抱えた顔だった。
「……最初から、全部知ってたの?」
言葉は短かったが、刃みたいに鋭かった。
御成は横で拳を握りしめ、今にも何かを叫びそうな顔をしている。シブヤとナリタも、いつもの軽さはどこかへ消えていた。タケルは一歩前に出ているのに、何も言わない。言えないんじゃなく、何を先に聞くべきかを必死に選んでいるように見えた。
イーディス――仙人は、しばらく黙っていた。
その沈黙が長くなるほど、場の空気は重くなる。逃げるように目を逸らすこともしないくせに、核心へ踏み込む瞬間だけ、一拍遅れる。その癖がたまらなく気になった。
「知っていたこともある。だが、全てではない」
案の定、返ってきたのは真ん中を避けるような答えだった。
アカリの眉がぴくりと動く。
「そういう言い方、やめて。答えてるようで、全然答えてない」
「アカリ……」
タケルが止めようとするが、アカリは首を振った。
止まれないのだ。今ここで止まったら、自分たちがずっと振り回されてきたことまで飲み込むことになる。
「だってそうでしょ。タケルが最初に消えた時、助ける方法があったなら、何で言わなかったの? 何で、今まで黙ってたの?」
その問いに、御成も耐えきれなくなった。
「そうですとも! タケル殿がどれほどの苦しみを……皆がどれほど……っ」
言葉は途中で崩れた。
感情が先に溢れて、声になりきらない。
俺は黙ってそのやり取りを見ていた。
怒りは当然だ。責めるのも間違っていない。なのに、目の前の男はそれを受けながら、なお何かを伏せている。言えない、じゃない。言う順番を選んでいるように見える。
「葉様」
ココロワヒメが、静かに呼ぶ。
「この方は、自分が責められることを前提に話しています。ですが、それでもなお優先している情報が別にあるようです」
「……だろうな」
サクナヒメは不快そうに言う。
「じゃが、腹が立つのう。隠し事をする顔をしておる」
その通りだった。
イーディスは、後悔している顔ではない。覚悟を決めた顔をしている。だからこそ厄介だ。罪悪感で黙っていたなら分かりやすい。だがこの男は、責められることを知った上で、それでも伏せていた方を選んだ。
それはつまり、この場の怒りより先に置いたものがあるということだ。
「眼魔世界の理そのものが、歪んでるんだろ」
思わず口にすると、場の視線が一斉にこっちへ向いた。
自分でも少し驚いたが、口にしてみると、妙に腑に落ちた。
「死を遠ざけて、生を固定して、願いまで管理して……そんなの、綺麗に見えても、どこかで無理が出るに決まってる。あんたはその無理を知ってて、それでも止められなかった。違うか」
イーディスの目が、ほんのわずかに細くなる。
やっぱりだ。
全部じゃなくても、触れられたくない芯がそこにある。
タケルは俺とイーディスを交互に見たあと、静かに息を吐いた。
「……俺は、まだ知りたい。何を隠してたのかも、何で今まで言えなかったのかも」
その言葉に、アカリの怒りが少しだけ揺らぐ。
御成も、拳を握ったまま黙り込む。許したわけじゃない。ただ、前へ進むために聞かなきゃいけないことがあると、やっと皆が同じ方向を向き始めた。
イーディスはそこでようやく、話し出した。
眼魔世界。グレートアイ。英雄眼魂。世界を繋ぐ仕組みと、それを維持するために積み上げられた歪み。話が進むほど、俺の中では別の感覚が強くなっていく。
――繋ぐ、か。
英雄眼魂は、タケルへ力を託した偉人たちの想いを今へ繋いでいる。
じゃあ、俺の神の眼魂は何だ。英雄とは違う。もっと遠くて、もっと人を越えた存在だ。それでも、サクナヒメとココロワヒメが俺の中で重なり、力を貸してくれているのは、“切り離す”ためじゃない。
「……同じじゃないけど、近いのか」
ココロワヒメが小さく答える。
「英雄眼魂が人の想いを繋ぐものだとするなら、神の眼魂は理や祈りを繋ぐもの、と言えるかもしれません」
サクナヒメも珍しく真面目な声だった。
「違うからこそ、結び方も違う。じゃが、繋いでおることには変わりないのう」
その時だった。
空気が変わる。今までの怒りとも、困惑とも違う、もっと直接的な不穏。外の風が急に冷たくなり、境内の木々がざわつく。次の戦いの匂いがした。
ココロワヒメが即座に反応する。
「反応、増大しています」
サクナヒメも低く言う。
「来るぞ。しかも、先ほどまでの奴らとは違う」
イーディスの顔が、ほんの一瞬だけ険しくなった。
それだけで十分だった。次に来るものは、この場の真実の整理なんて待ってくれない。
俺は息を吸い、胸の奥で重なる二つの気配を確かめた。
許すかどうかはまだ先だ。
信じるかどうかも、今は決められない。
けれど、繋がなきゃいけないものがあることだけは、もう分かっていた。