足を踏み出した瞬間、空気の重さが変わった。
大天空寺の土と木の匂いが、背中の向こうへ一気に遠ざかる。代わりに頬を撫でたのは、潮とも土ともつかない、ひどく生ぬるい風だった。視界が一度だけ白く反転し、次に色を取り戻した時、俺は見たこともない海辺の道に立っていた。
「……島?」
思わずそう漏らすと、すぐ横で赤い袖が揺れた。
「どうやら、そのようじゃな」
サクナヒメが、いつもの小柄な姿のまま、少し不機嫌そうに鼻を鳴らす。
その反対側では、ココロワヒメが青い衣の裾を整えながら、静かに目を細めていた。
「実体化の濃度が高いですね。こちらでは、わたくしたちも眼魂内部の声ではなく、普通に顕現できるようです」
二人が並んで立っている。
もうそれだけで、ここがまともな場所じゃないと分かる。
俺は周囲を見回した。低い石垣の向こうに、小さな家々が並んでいる。漁村みたいに見えるのに、どこか変だ。人の営みの匂いはある。洗った布が干され、鍋の湯気が細く上がり、誰かが薪を割る音もする。なのに、景色全体が、少しだけ“現実の一歩外”にずれていた。
道の先から、こちらを見ている老人がいた。
髭の長いその横顔には、どこか絵巻物や古い教科書で見たような気配がある。さらに奥では、鎧を着た男が子供たちに木刀の持ち方を教え、その隣では細身の学者然とした男が、板に何かを書きつけていた。
「……何だ、ここ」
誰にともなく呟く。
ココロワヒメが、少し考えるように間を置いてから口を開いた。
「魂の定着が、極めて安定しています。しかも個体ごとの輪郭が、異様なほど鮮明です。普通の霊的残滓ではありません」
「もっと分かりやすく言ってくれ」
「はい。――ここにいるのは、“誰かだったもの”ではなく、“誰かそのもの”に近い存在です」
背筋がぞくりとした。
その時、坂の上から年配の女が下りてきて、俺たちを見るなり、どこか困ったように笑った。
「また外から来たのかい」
声は柔らかい。だが、その“また”が気になった。
「ここは……何なんですか」
俺が尋ねると、女は当たり前みたいに答える。
「ここは、為した者たちが暮らす村さ。戦を終えた者も、道を作った者も、書を残した者もいる。皆、生きたままではここへは来られない。けれど、想いだけで残るには、ちと濃すぎる連中ばかりでね」
笑っているのに、その言葉は妙に重かった。
「つまり、偉人や英雄たちの……」
「実体化した集落、という理解で概ね正しいでしょう」
ココロワヒメが補う。
女はその言い方に首を傾げたが、否定はしなかった。
サクナヒメが腕を組む。
「ふん。英雄だの偉人だの、実に肩の凝る場所じゃ。じゃが、悪くはない。少なくとも、目の濁った連中ではなさそうじゃな」
その言葉に、近くにいた髭の老人が小さく笑う。
見知らぬはずなのに、妙な親しみがあった。いや、親しみというより、“長く誰かを支えてきた者”の落ち着きかもしれない。
村の中へ足を進める。
すれ違う者たちは皆、どこかで名前を聞いたことがある気配をまとっていた。剣を腰に差したまま畑を見ている男。紙の束を抱えながら井戸端で笑う女。子供に星の見方を教える老人。肩書きで括れば英雄や偉人なのだろうが、ここでの彼らはただ、村人として暮らしているように見えた。
それが逆に、不気味だった。
「英雄ってのは、もっと……こう、祭り上げられてるもんだと思ってた」
俺が呟くと、サクナヒメが横目で見る。
「祭り上げられておるのは外の者の都合じゃろ。本人がそう在りたいとは限らぬ」
「名声と実在は別物です」
ココロワヒメが続ける。
「ここは“記録された英雄”ではなく、“まだ終わっていない魂”が定着している場、と見るべきでしょう」
まだ終わっていない。
その言葉が妙に引っかかった。
村の中央へ出た時だった。
空が、ほんの少しだけ翳る。
雲じゃない。もっと鋭い、切り裂くような影だ。
ココロワヒメが即座に顔を上げる。
「来ます」
同時に、サクナヒメの顔つきも変わった。
「……嫌な連中じゃな。さっきの匂いと同じじゃ」
俺も空を見上げる。
逆光の中から降りてくる三つの影。黒い。だが、ただ黒いだけじゃない。装甲の線はどこか見覚えがある。ネクロムに似ている。似ているのに、決定的に違う。あれは生者を守るための形じゃない。もっと乾いていて、もっと“奪うこと”に慣れた姿だ。
「ネクロム……?」
思わず口にすると、ココロワヒメがすぐに否定した。
「酷似しています。ですが別系統です。外見をなぞっているだけで、中身の理がまるで違います」
空から降り立った三人は、村を見渡し、それから俺たちを認める。
一人は赤みを帯びた重い気配。
一人は青く、射抜くような視線。
もう一人は黄の残光を引き、妙に軽い笑みを浮かべていた。
村人たち――いや、英雄たちの間に、一瞬だけ緊張が走る。
けれど彼らは騒がない。ただ、静かに子供たちを背へ下げ、互いの位置を取り始める。戦場を知っている者の動きだった。
赤い影が、低く言った。
「ここにある眼魂、全て引き渡せ」
青い影が続ける。
「選別は始まっている」
黄の影は、肩をすくめて笑った。
「従えば壊さずに済むかもしれないぜ?」
村の空気が、一気に冷える。
俺は一歩前へ出る。
その左右に、サクナヒメとココロワヒメが並んだ。
「やっぱり追ってきて正解だったな」
サクナヒメが口の端を吊り上げる。
「当然じゃ。英雄を狩るなど、ろくでもない真似を許す理由がない」
ココロワヒメは、目を細めたまま短く告げた。
「葉様、警戒を。見た目はネクロムに似ていますが、あれは“似せている”側です。扱いを誤れば危険です」
「分かってる」
喉が乾く。
けれど、不思議と足は止まらない。
ここがどういう場所か、まだ全部は分かっていない。
だが、ようやく一つだけはっきりしたことがある。
この村は、守らなきゃいけない。
黒い三人が、同時に構えを取る。
その背後で、英雄たちの村が静かに息を潜めた。
次の瞬間、世界はまた、戦いの色に塗り替わろうとしていた。