村の中央を離れるにつれて、喧騒は少しずつ背中の向こうへ沈んでいった。
さっきまで戦っていたはずなのに、こちら側の空気は妙に静かだ。潮の匂いが濃い。波の音も聞こえる。けれど、ただの海辺じゃない。村の中にあるはずなのに、ここだけが少し切り離されている。そんな場所だった。
「……神社、か」
石段の先に、小さな社が見えた。
鳥居は大きくない。けれど、雑に建っている感じがしない。誰かがちゃんと手を入れ、誰かがちゃんと頭を下げてきた場所の匂いが残っている。村の家並みから少しだけ外れていて、海岸へ続く洞穴の近くにあるのも、妙に意味ありげだった。
「落ち着くような、落ち着かぬような場所じゃな」
横で、サクナヒメが小さく鼻を鳴らした。
今はもう、眼魂の中の声じゃない。二人とも、俺の横へ並んで歩いている。赤い袖が揺れ、青い衣が波打つ。英雄の村に入った時からそうだったが、こうして当たり前みたいに実体化しているのを見ると、やっぱりこの島の理は、俺の知っているものと少し違う。
「この周辺は、魂の定着が特に安定しているのでしょう」
ココロワヒメが、社の前で足を止めた。
「ただし、それだけではありません。ここには“誰かを待つ場所”の気配があります」
「待つ場所?」
「えぇ。あるいは、再会のための場所とも」
その言葉が落ちた瞬間だった。
社の影から、ひとりの少女が顔を上げた。
最初に目に入ったのは、柔らかい光の色だった。神の気配はある。けれど、サクナヒメやココロワヒメのような完成された圧とは少し違う。もう少し素直で、もう少し温度が近い。こっちを見たその目が、一瞬だけ驚きに揺れて、それから、すぐに別の色へ変わった。
「……サクナヒメ様?」
その声を聞いた途端、サクナヒメの顔が変わった。
いつものふてぶてしさが、ほんの一瞬だけほどける。
「おお……ヒヌカか!」
その名前に、少女――ヒヌカヒメはぱっと顔を明るくした。
走り寄る足取りに迷いがない。サクナヒメの前で立ち止まった時には、嬉しさを隠しきれていなかった。
「本当に、サクナヒメ様なんですね……! わたし、もしかしてって思ったんですけど、でも、ここで会えるなんて……」
「ふふん、何じゃ何じゃ。そう驚くでない。わしはそう簡単にくたばらぬぞ」
偉そうに言っているくせに、サクナヒメの声も少しだけ浮いていた。
その隣で、ココロワヒメも静かに微笑む。
「お久しぶりです、ヒヌカヒメ様」
「ココロワヒメ様も……」
ヒヌカヒメはそちらを向くと、今度は安心したように息を吐いた。
たぶん、この島へ来てからずっと気を張っていたのだろう。嬉しそう、という言葉で足りるには、少し必死な表情だった。
「よかった……。お二人とも無事で」
「そなたも元気そうで何よりじゃ」
「えぇ。顔色も悪くないようで安心しました」
そのやり取りを見ていて、俺はようやく息をついた。
敵意はない。少なくとも、その類いの相手じゃない。むしろ逆だ。二人がこんな顔をする相手を、俺は初めて見た気がした。
ヒヌカヒメが、そこでようやく俺の方を見る。
目が合う。警戒というより、純粋に「誰だろう」と思っている顔だった。
「その方は……」
「葉じゃ」
サクナヒメが先に答えた。
「わしらと共に戦う者。今は、言うなれば……そうじゃな、同じ陣営の仲間じゃ」
「仲間、ですか」
ヒヌカヒメは小さく頷き、それから、少しだけ背筋を伸ばした。
「初めまして。わたしは、ヒヌカヒメといいます」
丁寧すぎず、くだけすぎず。
その言い方が妙にしっくり来る。俺も頭を下げた。
「葉だ。……初めまして」
短い挨拶だったが、それで十分だった。
ヒヌカヒメは、俺を見ながら少しだけ不思議そうな顔をする。
「葉さんからは、サクナヒメ様たちと少し似た気配を感じます。でも、それだけじゃない……」
「神の眼魂の反応を感じているのでしょう」
ココロワヒメが補った。
「葉様は、わたくしたちの力を媒介として戦っています」
「そう、なんですね」
ヒヌカヒメは素直に納得したようだった。
無理に分かったふりをするでもなく、警戒を濃くするでもない。その受け止め方に、少しだけ肩の力が抜ける。
「ここにいたのも、何か理由があるのか」
俺がそう尋ねると、ヒヌカヒメは社の方を振り返った。
「はい。ここ、誰かを待つのに向いている気がして……。それに、海の近くって、不思議と声が届きやすいんです」
「声?」
「精霊たちの声です」
そう言って笑う顔は柔らかい。
けれど、その奥に迷いがないわけじゃなかった。何かを探し、何かを待ち続けてきた者の目だった。
「ふむ、相変わらずじゃのう」
サクナヒメが、少しだけ懐かしそうに言う。
「じゃが、それでよい。そなたはそういう奴じゃ」
「えへへ……」
その笑い方が、年相応というより、ようやく張りつめていたものが緩んだ時の笑い方に見えて、俺は少しだけ目を細めた。
たぶん、ここへ来るまでに色々あったのだろう。
それでも今は、再会を喜んでいる。それだけで十分な気がした。
だが、その空気は長く続かなかった。
風向きが変わる。
さっきまで穏やかだった潮の匂いの中に、鉄と焦げの気配が混じった。俺より先に、ココロワヒメの表情が変わる。
「……反応です」
サクナヒメもすぐに顔を上げた。
「来おったか」
ヒヌカヒメの肩がぴくりと揺れる。
その反応を見るだけで、こいつもただここで休んでいたわけじゃないと分かる。
「葉様、先ほどの連中です。しかも、今度は一直線にこちらへ向かっています」
「神社を狙ってる?」
「あるいは、ここにいる者を」
ココロワヒメの答えは短い。
その短さが、一番まずい。
ヒヌカヒメが社の前へ一歩出る。
柔らかな空気が、そこで少しだけ変わった。
「……わたしも、戦います」
その声は強くはない。
けれど、ちゃんと芯があった。
俺は一度だけ頷き、前を向く。
「再会の続きは、後だな」
「えぇ」
ヒヌカヒメは小さく笑って、けれど真面目な顔で頷いた。
「はい。今は、そちらが先ですね」
潮風が強く吹く。
神社の鈴が、小さく鳴った。
次に来るのは、間違いなく戦いだった。