神社の鈴は、風が鳴らしているのか、それとも誰かの気配に触れて鳴っているのか分からなかった。
ダークネクロム達が去った後も、潮の匂いの奥にはまだ鉄の焼けるような気配が残っている。完全に静まったわけじゃない。ただ、次の襲撃までのわずかな隙間が空いただけだ。そう思うと、妙に急かされるような気分になった。
ヒヌカヒメは社の前で立ったまま、俺たちと同じ方向を見ていた。
さっきまでの柔らかい表情は残っている。けれど、その奥にある芯だけは、もう隠していない。
「わたしも行きます」
真っ直ぐだった。
頼み込むんじゃなく、自分で決めて言った声だった。
サクナヒメが、横目でその顔を見る。
「ほう。言うようになったのう」
「待っているだけでは、嫌なんです」
ヒヌカヒメは少しだけ息を整えてから続けた。
「ここにいても、また誰かが狙われるんですよね。だったら、わたしも一緒に行きたいです。サクナヒメ様たちが向かうなら、なおさら」
その言い方に、無理な背伸びはなかった。
怖くないわけじゃないのだろう。でも、それでも行くと決めている。そういう顔だった。
ココロワヒメが静かに口を開く。
「わたくしは賛成です。ヒヌカヒメ様は、この島の気配に慣れていますし、精霊との対話もできる。案内役としても、補助役としても有用でしょう」
「……葉様は、どう思いますか?」
いきなりこっちへ振られて、少しだけ言葉に詰まる。
初対面だ。
でも、さっきの一言だけで分かることもある。少なくとも、守られるだけで済む位置に自分を置く気はないらしい。
「俺は――」
答えかけた、その時だった。
神社の裏手、海へ続く岩陰の方から足音がした。重くない。けれど、迷いのない足取りだった。振り向くと、そこに立っていたのは見覚えのある男だった。
「……深海、大悟」
名前が先に口から出る。
マコトとカノンの父。眼魔世界の医師。そして、この島を知っている側の人間。
「久しぶりだな、とは言いにくい状況か」
大悟は苦く笑った。
疲れた顔をしている。だが、疲れているだけじゃない。この島の事情も、敵の狙いも、その先にある最悪も知っている者の顔だった。
ヒヌカヒメが、小さく頭を下げる。
「大悟さん」
「無事だったか、ヒヌカヒメ」
短いやり取りだったが、それだけで二人が面識を持っているのは分かった。
大悟は俺たちを見回し、それから神社の前に残った戦いの痕を一瞥する。
「ダークネクロム達とやり合ったらしいな」
「ああ。一人は倒した。けど、残りは逃げた」
「だろうな」
その返しが妙に早い。
「やっぱり、あいつらの狙いはダーウィンなのか」
俺がそう聞くと、大悟の表情が僅かに硬くなった。
「……聞いたのか」
「村へ来た時、連中が口にした。“ダーウィンがいない”ってな」
大悟はしばらく黙っていた。
言うべきか、どこまで話すべきか、頭の中で線を引き直している顔だった。やがて、諦めたように息を吐く。
「そうだ。ダーウィンはこの島に集められた英雄の中でも、特に重要な存在だ。アルゴスにとっては、究極の眼魂を完成させるために必要な力の一つだった」
「だから、優先して狙われる」
「そういうことだ」
潮風が少し強く吹く。
俺は社の前の石段へ半歩だけ近づいた。
「この島は何なんだ」
今さらな問いだ。だが、今ははっきり聞いておきたかった。
大悟は神社の鳥居を見上げたまま答える。
「眼魂島――そう呼ばれていた。英雄たちの魂が実体化し、留まり、選ばれ、奪われる場所だ。アルゴスはここを拠点に、百の眼魂を集めようとした」
百。
それだけで気が遠くなる。英雄を数として扱う発想そのものが、まだ胸の奥に刺さったままだった。
サクナヒメが露骨に顔を顰める。
「気に入らぬのう。英雄を米俵みたいに数えおって」
「えぇ」
ココロワヒメも珍しく冷たかった。
「しかも、ただ集めるだけではなく、“完成品”の材料として見ている。実に不快です」
大悟はその言葉に小さく頷く。
「だからこそ、ダーウィンは隠す必要があった。あいつの力が敵の手に渡れば、計画は一気に完成へ近づく」
ヒヌカヒメが、不安そうに問い返す。
「ダーウィンさんは、今どこに?」
大悟は少しだけ目を伏せ、それから海の向こうを指した。
「塔だ」
短かった。
だが、その二文字だけで十分に嫌な予感がした。
「島の中枢にある。アルゴスが拠点にしている場所でもある」
「じゃあ、もう狙われてるのか」
「狙われている、じゃない。おそらく、もう次の手は打たれている」
その言い方に、背中が冷えた。
ヒヌカヒメが一歩前へ出る。
「なら、なおさら行かなきゃ」
声は強くはない。けれど、よく通った。
「大悟さん。わたしも一緒に行きます」
「ヒヌカヒメ」
「待っているだけでは駄目です。さっき、はっきり分かりました。ここにいても、狙われるものは狙われる。だったら、こちらから行かなきゃ」
サクナヒメが口の端を上げる。
「うむ。よい顔じゃ」
ココロワヒメも、ほんの少しだけ柔らかく微笑んだ。
「わたくしも、その意見に賛成です」
大悟は俺を見る。
最終的に判断するのをこっちへ投げてきたんだろう。
俺はヒヌカヒメを見た。
この子は、まだ知らないことが多い。たぶん俺よりずっと多い。それでも、分からないまま立ち止まることは選ばなかった。
「……分かった」
口にすると、妙にすっきりした。
「行こう。塔へ」
ヒヌカヒメの表情が、ぱっと明るくなる。
その横で、大悟はまだ不安を消しきれていない顔だった。だが、止めはしなかった。
「塔までの道は簡単じゃない」
「簡単なら、あいつらも苦労しないだろ」
そう返すと、大悟は苦笑した。
「違いない」
そこでようやく、空気が少しだけ動いた気がした。
再会の余韻も、疑問も、不安も全部そのままだ。だが、向かう先だけは決まった。
サクナヒメが、俺の肩を軽く叩く。
「さっさと行くぞ、葉」
「えぇ。のんびりしている時間はありません」
ココロワヒメも続く。
ヒヌカヒメは神社へ一度だけ振り返り、静かに頭を下げた。それから、俺たちの方へ歩み寄る。
塔。
敵の中枢。
そして、ダーウィンがいるかもしれない場所。
潮風が、今度はまっすぐ背中を押した。
俺たちは、同じ方向へ足を踏み出した。