たこ焼きの湯気が、空へ逃げていく。青空は、逃げ場を用意してくれるみたいに広かった。俺がそれをぼんやり見ていると、屋台の向こうに、見覚えのある背中が立った。歩き方に癖がある。立ち止まり方が慎重だ。振り返らなくても分かる。アランだ。
サクナヒメが一瞬、声を上げかけて、飲み込んだ。ココロワヒメも何も言わない。俺も同じだった。ここで声をかけるのは、きっと間違いだ。そういう沈黙が、三人の間で自然に成立した。
俺たちは屋台から少し離れたベンチに腰を下ろした。距離はある。会話の内容は聞こえない。でも、雰囲気だけは、手に取るように伝わってくる。フミ婆は、いつもの調子でたこ焼きを焼きながら、アランに何かを言っている。説教じゃない。質問でもない。ただ、隣に立っている、という感じだ。
アランは、ぎこちなく頭を下げて、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと何かをこぼす。迷子が、現在地を確認するために独り言を言うみたいな仕草だった。フミ婆は頷く。否定しない。肯定もしない。ただ、聞く。
「……若い頃はね」
声は聞こえないのに、その言葉だけは、なぜか想像できた。フミ婆は、そういう言い方をする人だ。自分の答えを渡すんじゃなくて、相手の中にある答えを、少しだけ照らす。
アランの肩が、わずかに落ちる。緊張が解けた証拠だ。俺はそれを見て、たこ焼きを一つ口に放り込んだ。熱い。でも、悪くない。生きてる感じがする。
フミ婆は、アランをベンチへ誘導したらしい。二人並んで、同じ方向を向いて座る。青空の方だ。向かい合わない。視線を合わせない。それだけで、人は少し正直になれる。
サクナヒメが小さく呟く。「……あやつ、今、話しておるな」
ココロワヒメが続ける。「はい。言葉より、間が多い会話です」
俺は頷いた。人と人が繋がる瞬間って、だいたいそんなものだ。言葉は後からついてくる。今はまだ、繋がろうとしている途中。だから俺たちは、ここで待つ。それが一番、ちゃんとした距離だ。
少し離れたベンチに並んで座る二人を、俺たちは屋台の影から見守っていた。距離はあるのに、不思議と遠く感じない。フミ婆は、いつもより少しだけ背筋を伸ばして、青空を仰いでいた。アランは膝の上で手を組み、視線の置き場に困っているようだった。
「若い頃はね」
フミ婆がそう切り出したのが、口の動きで分かった。声は届かない。でも、言葉の形が見える。ああいう話し方をする時、人は過去を掘り返している。
「どうしても、心と上手く付き合えないもんなんだよ」
アランの肩が、ほんの少し揺れた。肯定された、というより、許されたような反応だった。フミ婆は続ける。ゆっくりと、噛みしめるように。
「私にもね、夢があったんだ。絵を描くのが好きでさ。描いてる間だけは、世界がちゃんと色を持ってた」
フミ婆の指が、空をなぞる。見えないキャンバスに、見えない線を引くみたいに。
「でも、諦めちゃった。生活だの、事情だの、理由はいくらでもあったよ。でね……そのあとが、きつかった」
アランが、わずかに身を乗り出す。聞き逃すまいとする仕草だ。
「生きてるのに、死んだみたいだった。朝起きても、何もしたくなくて。笑っても、どこか穴が空いてる感じでさ」
その言葉は、距離を越えて、俺の胸にも刺さった。サクナヒメが、珍しく黙っている。ココロワヒメも、分析を挟まない。ただ、聞いている。
「それで、たこ焼きだよ」
フミ婆は、少し笑った。自嘲でも後悔でもない、今の自分を受け入れた笑いだ。
「最初はね、夢の代わりって思ってた。でもさ、焼いてると人が集まる。食べて、笑う。ああ、これでもいいんだって、思えたんだ」
アランの手が、ぎゅっと握られる。
「夢は形を変えた。でもね」
フミ婆は、アランの方を向いた。たぶん、真正面じゃない。少し斜め。逃げ場を残した向きだ。
「心は、死ななかったんだよ」
その一言で、空気が変わった。アランの背中が、はっきりと揺れた。何かが、音を立てて崩れたみたいだった。
俺は思う。眼魔の世界には、“心が死ぬ”って感覚がない。壊れるか、消えるか、その二択だ。だからこそ、アランは今、立ち尽くしている。死なない心、なんて選択肢を、初めて突きつけられて。
フミ婆は、ふうっと息を吐いて、空を見上げた。
「久しぶりにね、絵を描きたくなったんだよ。たこ焼きじゃなくてさ。宝物みたいな絵を、いっぱい」
青空は、相変わらず広い。何も答えない。でも、何でも受け止める。
アランも、同じ空を見上げていた。その横顔は、まだ迷っている。でも、迷える場所に、ちゃんと立っている顔だった。
俺は、たこ焼きを一つ、口に入れた。熱い。だけど、確かに旨い。
生きてるって、こういうことなんだろうな、と思った。
青空は、相変わらずそこにあった。
雲が流れ、風が通り、何事もなかったように世界は続いている。けれど、ベンチの上の時間だけが、少しだけ、別の速度で進んでいた。
フミ婆は、アランの肩に身を預けたまま、静かに呼吸をしていた。眠っているようにも見えるし、考え事をしているようにも見える。人の区別なんて、だいたいそんなものだ。目を閉じている理由は、外からじゃ分からない。
「……そろそろ、行かなければならない」
アランが、低い声で言った。
言い訳みたいでもあり、決意表明みたいでもある声だった。
フミ婆は返事をしない。ただ、微かに肩の力を抜いた。
それが「聞いた」という合図なのだと、俺には分かった。
「君の話……忘れない」
アランはそう言って、ゆっくり立ち上がった。
立ち上がる動作が、やけに丁寧だった。急げばいいのに、急がない。置いていく側が、置いていかれる側を気遣っている、不器用な優しさだ。
青空を見上げる。
さっきよりも、少しだけ高く感じた。
(……この空は)
アランの横顔を見て、俺は思った。
彼はたぶん、理解したんだ。
この空は、支配するものでも、管理するものでもない。
ただ、在るだけで、宝物なんだということを。
アランは振り返らなかった。
振り返れば、何かを持っていけない気がしたんだろう。
彼はそのまま歩き出し、人混みの中に溶けていった。
しばらくしても、フミ婆は目を開けない。
「……寝ておるのかのう」
サクナヒメが、小さく呟いた。
その声には、いつもの勢いがなかった。
ココロワヒメが一歩、前に出る。
「……葉様」
その声で、胸の奥が嫌な音を立てた。
「生体反応が、ありません」
言い方は淡々としていた。
だからこそ、誤魔化しが効かなかった。
サクナヒメが、慌ててフミ婆の周囲を回る。
「おい、冗談であろう? さっきまで、あんなに……!」
言葉が途中で止まる。
サクナヒメは、神だ。
生と死の違いを、誰よりも正確に知っている。
「……生気が、無い」
その一言が、決定打だった。
フミ婆は、ただ眠っているように見えた。
穏やかな顔で、青空の下で、少し昼寝をしているだけ。
それが一番、残酷だった。
俺は、ゆっくりとベンチに近づく。
触れなかった。
触れたら、終わってしまう気がした。
(……心は、死なない)
さっきの言葉が、胸の奥で反響する。
確かに、そうなのかもしれない。
フミ婆の心は、たこ焼きの湯気の中に、笑顔の中に、青空の話の中に、ちゃんと残っている。
だけど、身体は、ここで終わった。
サクナヒメが、拳を握りしめる。
「……ずるいのう。あんな事を言っておいて」
ココロワヒメは、静かに頭を下げた。
「人の心を導く行為を、最後まで成し遂げた方です」
俺は、空を見上げた。
青空は、何も変わらない。
だからこそ、胸が詰まる。
アランは、もういない。
フミ婆は、ここにいる。
そして俺たちは、まだ生きている。
生きて、食べて、迷って、選ばなきゃならない。