倉庫街に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。油と鉄と埃の匂い――それだけなら、ただの古い作業場の匂いのはずなのに、喉の奥が焼けるように乾いていく。昨日まで、俺の胸の中に残っていた葬儀の静けさが、ここでは逆に邪魔だった。悲しみは手を伸ばしても掴めないのに、危険だけは、こうして肌に張りついて離れない。
倉庫の扉は半開きだった。誘いだ。見せつけるための“入口”だ。俺たちは迷わず中へ入る。中は広く、天井が高いくせに息苦しい。周囲の影が一斉に蠢いて、眼魔たちが壁際や梁の上からこちらを見下ろしていた。数がいるのに、出てこない。戦う気がない――いや、戦う必要がないと思っている。そういう余裕が、笑い声の隙間から漏れている。
その笑いが、すっと途切れた。中心の群れが割れ、そこに“火”が立っていた。人型に近い輪郭。けれど、人間の体温じゃない。熱という概念が、そのまま装甲をまとって歩いているみたいだった。視線が合った瞬間、背骨に冷たい針を刺された気がした。悪意じゃない。感情じゃない。あれは、俺たちを嫌ってすらいない。ただ、存在を“処理”しようとしている圧だ。
俺の脳裏に、以前遭遇した“似た圧”が蘇る。名前も正体も分からないまま、ただ機械みたいに襲いかかってきたやつ。理屈じゃなく、身体が覚えている。
「……また、あの手のやつか」
俺の呟きに、タケルの呼吸が一拍だけ止まったのが分かった。マコトは無言で間合いを測り、アランは前へ出る気配を見せる。四人の力を合わせた姿のはずなのに、敵を見た瞬間の“体の硬さ”だけは、四人とも同じだった。
先に動いたのは俺だった。考えるより先に足が出る。白い風みたいに地を蹴り、敵の側面へ回り込む。速さなら負けない。そう思った――思っただけだった。敵は追ってこない。代わりに、俺の進路を読んだかのように、床が赤く光り、熱が膨張して壁のように立ち上がる。熱波が顔を叩き、髪が焦げる匂いがした。止まらないと焼かれる。でも止まった瞬間に狙われる。二択を迫るやり方が、あまりにも“合理的”だった。
「ちっ……!」
俺が引いた一瞬に、今度は正面から火球が飛ぶ。タケルが踏み込み、燃える力で押し返そうとする。けれど火球は一つじゃない。二つ、三つ、角度を変えて同時に来る。敵はタケルの突進力を“力比べ”で受けない。足元の床を焼き、滑らせ、踏ん張りそのものを奪いにくる。タケルの足がわずかに揺れた。揺れた瞬間、俺の背中に嫌な汗が走る。
マコトが射線を通す。鋭い光が敵の関節、装甲の継ぎ目へと飛ぶ。狙いは完璧に見えた。だが、当たった瞬間に火がうねり、装甲が熱で硬化して弾く。まるで「そこは弱点ではない」と言い切るみたいに、火が防御の形を変える。敵は“防ぐ”んじゃない。“最適な形に変える”。俺の腹の底が冷えた。相手は殴り合いの相手じゃない。ルールが違う。
アランが前に出る。緑の水が盾のように立ち上がり、火球と熱波を受け止める。水が蒸発し、白い煙が一瞬で視界を曇らせる。盾は崩れていない。だが、維持するほど削られる。受ければ受けるほど不利になる“耐久戦”に引きずり込まれる。相手は、守りに強いアランを見て、真正面から破るんじゃなく、削って終わらせようとしている。
俺は息を整えようとして、喉の渇きに気づく。倉庫の中の熱が、呼吸から水分を奪っている。酸素が薄い気さえする。敵は火を振り回してるんじゃない。環境を変えて、俺たちの選択肢を減らしている。
「……分かった。これ、一人じゃ無理だ」
口にしたのは俺だった。声に出さないと、全員の頭の中に散らばった危機感が噛み合わない。タケルが悔しそうに歯を食いしばり、マコトが短く息を吐き、アランが盾を張り直しながら視線だけで頷いた。
眼魔たちが、また笑い始める。けれど、その笑いが俺の耳に入っても、もう苛立ちは湧かなかった。むしろ、冷静になった。笑っているのは、あいつらが“知らない”からだ。あの中心の敵は、眼魔の論理ですらない。味方でも、仲間でも、きっと支配すらできない。だからこそ、あいつらは観客になっている。
俺は四人の位置を一瞬で確認した。タケルは正面、マコトは射線の確保、アランは盾、俺は側面。今までなら、それぞれがそれぞれの強さで殴りにいっていた。でも相手は、それを全部“個別に処理”できる。なら、答えは一つしかない。
(四人で、一つにするしかない)
フミ婆の葬儀場で見た泣き笑いが、頭をよぎる。矛盾が同居しているのに、それが間違いじゃない世界。守りたい宝物って、きっとそういうものだ。だからこそ、俺たちはバラバラじゃ勝てない。心を揃えて、呼吸を揃えて、相手の“最適解”そのものを崩さなきゃいけない。
「……次は、合わせる」
俺がそう言うと、タケルが強く頷いた。
「うん。今度は、俺が合図する」
マコトが低く言う。
「一拍でも遅れたら、殺されるぞ」
アランは、盾越しに敵を見据えたまま短く答えた。
「だからこそ、揃える」
中心の“火”が、再び一歩踏み出した。床が赤く脈打つ。熱が迫る。俺の背中に、またあの圧が乗る。それでも今度は、恐怖の形が少し違った。逃げたい恐怖じゃない。逃げないために、心を固める恐怖だ。
単独では勝てない。確定した。
だから――ここからが、本当の勝負になる。